ふたり

仲田日向

ふたり



   □

 アラン・ブラウンは、色褪せた屋根を持つ中西部のある家に生まれた。


 彼は望まれていない子であり、本来だれの人生計画のうちにも顔を出さないはずの存在であった。彼はその立ち位置にふさわしい仕打ちを受けた。父親は毎日のように彼を虐待した。母親は、虐待をしている男が本当の父親なのかを考えながら、その光景をただぼんやりと眺めていた。


 アランは幼少の頃、「虐待を受ける」という行為が当然すべての人の生活にあって然るべきものだと考えていた。皆が同じようにそれをやり過ごしているのだと思っていた。その認識のズレはなかなか修正されず、彼が息を引き取るまで、とうとうその溝は埋まらなかった。


 ある日、アランは両親の寝室から一冊の聖書を見つけだした。表紙の装丁にはウィスキーが乾いた後の匂いと、埃の膜が均等に張られていた。中心に描かれた十字架に、心のどこかが惹かれた。十字架は性的興奮に近い、期限付きの燃え上がるような感情を引き起こさせた。アランは誰も近寄らない、森の脇にある原っぱで日がな聖書を読み耽った。太陽が傾き始めると、大きな木の根元に適当な穴をこしらえ、そこに聖書を仕舞い込んで家へ戻った。


 アランは聖書とその他いくつかの書籍で言葉を学んだ。六つになる頃には、おおよそ成人と同じくらいの発話能力を手にしていた。しかし、誰とも話すことはなかった。両親とはもちろん、近隣の住民から声をかけられた時も一言さえ発することはなかった。アランは次第に周りの世界から「ないもの」として見られるようになっていった。それに対する不満など、アランは一分も持ち合わせていなかった。


 少しずつ、しかし確かに彼の身体は痩せ細っていった。一番豊かな肉付きをしていたのは生まれたばかりの頃であった。アランはそこから少しずつ—それがまるで自然の摂理であるかのように、着実に生気を吸い取られていくようだった。


 それでもアランは生きていた。歳を重ねた。


 そして七つになったばかりの頃に親から捨てられた。真夜中、両親は眠りについていたアランを抱え上げ、塗装の落ち切った車を走らせた。アランは、生家から二十キロばかり離れた教会の入り口に置いていかれた。両親は一言も発さず、まるで窓からコーヒーの空容器を捨てるかのように淡々と子供を掃き出した。アランは眠ったふりをして物事がどのように運ばれていくかをじっと観察していた。


 教会の中から人が出てきたのは翌朝八時過ぎだった。神父と見られる男は悲嘆の声をあげながらアランを抱え上げた。その時、腕の中の少年は初めて、人間の体温というものを身近に感じた。神父がアランに名前を問うと、彼は頭に思いついた適当な名を名乗った。風邪をひいたようで鼻水がダラダラと流れ出ていた。前夜は寒くて眠れなかったので、早く暖かい布団に入りたいと考えていた。


 神父と彼の妻は三日間アランの世話を担当した。その後には近隣の養護施設に引き取られる予定となっていた。神父の妻はアランの異常さにいち早く気がついていた。アランは以前とは打って変わってよく喋った。そして彼は時折、その科白の中に聖書の一節を引用していた。その引用は一語一句として違うことはなかった。行き過ぎた発達は、これまで多くの困難を乗り越えてきたと自負する女でさえも不安にさせた。施設からの使いがやってきたときには、神父の妻は心からの安堵を得た。


 養護施設に迎えられるとアランはまたしても口をつぐみ続けた。場所によっては雄弁になり、それとは反対に寡黙になったりした。しかしそれはただの気まぐれのようなものであり、何か理由の伴った行動ではなかった。


 アランは施設の中で浮いた存在となった。施設内の共用部を使用せず、できるだけ外の裏庭で時間を過ごした。


 ある昼、ほんの好奇心から四歳の男の子がアランの後をついていった。裏庭へ向かい、何かに熱中するアランに声をかけた。男の子は声をあげ、泣き叫びながら施設の中へと戻ってきた。騒ぎを聞きつけた若い施設職員はすぐにアランの元へと向かった。職員は—一人の例外もなく全員が、アランのことを放っておこうと心に決めていた。アランが何か実際的な行動を起こしたわけではないが、どこからか薄気味の悪さを感じずにはいられなかったのだ。しかし、児童の一人相手に危害を加えた可能性が出てきたこの状況下においては対処に乗り出すほかなかった。気は進まなかった。泣いている男の子はいっこうに訴えを止めようとしなかった。


 若い職員は裏庭の、陽が当たらない一角にアランの姿を見つけた。彼はこちらに背を向ける形で座っていた。職員が近づいていくことには気がついてない様子だった。


 「アラン」

 若い職員は声をかけた。恐れと怒気と緊張が混じった声色だった。


 「アラン……聞いているか? お前、あの子に一体何を……」


 途端、男はハッと息を呑んだ。遅れて喉元に胃液がこみ上げてくるのを感じた。そして間も無く、吐いた。足元に小さな液だまりができた。アランはそれでも振り向かなかった。


 アランはコガネムシやゴキブリを手にしていた。そのどちらもが、まだ生きていた。そして彼の目の前には、小ぶりな木があった。太くはないながら頑丈な幹が中央に走り、そこから派生するように枝が伸びている。その枝の先端には何かが止まっていた。実を付けているようにも見えた。職員は初めその正体を正しく認識できなかった。しかし、すぐに全てを了解した。枝の先には虫が突き刺されていた。ほとんどすべての枝にそれぞれ、毛虫やバッタ、イナゴ、カマキリ、ミミズ、カエル、さらにはトカゲなどの爬虫類さえが一匹ずつ、まるで整序分類を忘れた標本図鑑のように止められていた。限られた数の枝先だけでは足りなかったようで、小ぶりな木の奥にあるフェンスにも死んだ虫が集められていた。そちらにはトンボや、蛾、蝶などの虫が並んでいた。アランは楽しそうな表情などは見せずに、それらを収集していた。


 養護施設の所長はアランを呼びつけ、事態の説明を求めた。アランは何も言わなかった。所長は、教育という大義の元ならば暴力を振るうことに抵抗などは感じない人間だった。それゆえに、アランはその日から執拗な暴力を受け続けることになった。所長はそれによって、アランが更生してくれるものだろうと本気で考えていた。その思いは向こう何十年も、そしておそらくは今でも変わっていない。


 アランは何か自分の心に感ずるところがあると、動物へのサディズムへ走った。その動因はときに職員からの暴力であったし、ときにお気に入りの食事メニューにありつけたことでもあった。そこに共通性といえるものはなかった。昆虫を集めていた木は、例の事件以来取り払われてしまったので、アランは新しい仕事を見つけるために、しばしば施設を抜け出し、町の方へ出かけていった。施設内の誰もが—たとえアランがいないことに気がついていたとしても、それを止めようとしなかった。誰もが彼とは関わり合いになりたくなかった。


 アランは裏路地に入り、小動物を引き寄せた。最初はどこかの飼い犬だった。それから、ネズミや野生の猫を手にかけた。心が昂ることも、心的快楽の発現を見ることもなかった。ただ無情に殺した。死骸を保管しておく場所はなかったので、街の中の目についた場所へ持っていき、遺棄した。人がごった返すカフェの店先がアランのお気に入りだった。


 所長はアランが街へ出かけていくことを黙認していた。しかしある日、地方議員の友人から物騒な噂話を耳にした。アランにまつわる話だった。所長はその噂の真偽を確かめるため—十中八九それは真実だと考えていたが、街へ出かけていくアランを尾行した。所長は街の裏路地で一連の出来事を目にした。そして、全てを見届ける前に引き返した。それ以降は、アランへの暴力をやめた。彼を視界に入れることさえも可能な限り避けるようになった。アランはしばらくして、所長から暴力を受けることがなくなったのを認識した。それを嬉しいと感じる心は、アランのなかには備わっていなかった。





   ○

 同じ頃、レヴ・テイラーは酒浸りの両親のもとに生まれた。


 夏には座っているだけでも吐き気を催すほどの暑さが、冬には肌へ痛みを感じさせるほどの寒さが襲ってくるアパートメントの一室だった。エレベーターは何年も昔に動かなくなっており、三階と二階の中途半端な位置で停止したままだった。そこからはアンモニアとアルコールの混じり合った、目の痛くなるような臭気が広がっていた。


 レヴが二歳の頃、酒に酔った父親が屋上に上り、そこから転落した。舗装されていないコンクリートの地面に彼は真っ直ぐ叩きつけられた。地面には暗赤の大きな花が咲いたようだった。その夜に響いた破裂音で、眠っていたレヴは目を覚ました。そして、生まれてから一番の音声で泣いた。だが、あやしてくれる人間など一人もいなかった。当夜、母親は中心街の路地で酒に酔って眠っていた。


 転落事故から二日か三日を数える前に母親は失踪した。息子の訃報を聞いた夫婦はすぐさま、息子夫婦の住んでいたアパートを訪れた。部屋には絶え絶えの寝息を立てている赤ん坊が、ひとりカウチの上に横たわっていた。老夫婦はそこで初めて、自分の息子が子供を設けていたことを知った。赤ん坊の身体は恐ろしくなるくらいに冷え、死にかけていた。


 病院に連れていかれたレヴはすんでのところで命を繋がれた。順調に回復していったが、右眼の視界は日を追うごとに霞んでいった。レヴはそのことを自ら口することがなかった。そしてそのまま医者の診察も受けずに、七つの頃に右眼の視力を完全に失った。レヴの右の黒目が一点に定まらず、各所へ彷徨っているのを見て老夫婦はその悲劇を悟った。二人はいたく悲しんだ。レヴはなんとも思わなかった。


 レヴは、彼女を引き取った父がたの老夫婦のもとで生活を送った。基礎体温が他の子よりも一度ほど低かった。そのせいか、よく風邪を引いた。流行の病には欠かさず罹った。それでも食事はしっかりと摂った。少しずつ背を伸ばし、社会一般の基礎知識も身につけていった。


 老夫婦の家の周りには住民が少なかった。老人が多く、子供はレヴ以外に一人もいなかった。レヴはよく一人で川へ赴き、淡水魚が行き交う澄んだ水流を眺めていた。決してその中に入っていこうとはしなかった。ただ、水の起こす波紋や魚類の泳ぎをぼんやりと眺めていた。祖父が釣り竿をプレゼントすると、レヴは一応、それを受け取った。だが実際に使おうとはしなかった。それでも、川へ行く時には必ず身の丈以上の釣り竿を持参していった。


 やがて、レヴはキリスト教の神学校へと入学した。学業成績はその代で一番優秀だった。しかし、そのことは他の生徒からすれば面白くない話であった。レヴはいじめを受けた。焦点の定まらない右眼は格好の中傷の的となった。ある日はリュックの中身を全てくず箱に捨てられていた。ある日は無理やりに服を裂かれ、またある日は靴箱に虫を忍ばされたりした。始業前に学校から配られる紙パックのぶどうジュースは、それが当たり前であるかのように、毎朝特定の生徒に持っていかれた。


 レヴはいじめられていることにすら気がつかない、愚鈍な子供を演じた。白痴のように思われる行動を心がけた。しばらくして、レヴをいじめていた子供たちは張り合いをなくし、一人の子供を虐げることに飽きていった。暴力など直接的な行為には及ばなくなり、ただ無視をし続けた。レヴはその変化にも気がつかない鈍感な少女を装いつづけた。


 レヴは学校の授業で扱われていた新約聖書の内容を全て暗記していた。それでもキリスト教を心から信仰しているわけではなかった。何も信じていなかった。キリスト教の他にも様々な宗教の教義や聖典を学んでいった。多くの書物がレヴの娯楽的な興味を引いた。とりわけ、旧約聖書に記されたある一節は、彼女の心を強く引き付けた。「目には目を、歯には歯を」。世間ではそれを復讐法と呼んでいるらしかった。自分でも復讐を行なってみたいと思うようになった。楽しみだけが先行した思いつきだった。


 生徒が全員帰宅した後の教室に、レヴは一人居残った。もちろん秘密裏に。彼女は、いじめ主犯格の女が使っている椅子の脚に、毎日少しずつナイフで切れ込みをいれていった。「復讐」という体をなすために、いじめっ子の彼女の椅子を選択した。それ以外の動機—例えば怒りや報復の感情などというものたちは、無に等しい程度だった。作業は日に十分の一ミリほどの進捗しか得られなかった。それでも、毎日放課に彼女は教室に残った。


 ある日、積み重ねてきた復讐がついに目に見えた形を成した。授業中の軽い弾みで、女生徒の座った椅子がグラっと揺らついた。椅子を支えていた四脚のうちの一つが折れ、彼女は大きく体勢を崩した。後頭部を強く打ちつけた。彼女の頭からは真っ赤な血がダラダラと流れ出た。女生徒はすぐに病院へ運ばれた。九針を縫った。


 レヴはこの一件を受けて、ひどく心を痛めた。自分の行なったことを激しく後悔した。自分の「復讐」を自分の目で見届けることは、彼女にとっては耐えかねる事態だった。次からは別の教室の椅子に細工をするようになった。卒業の日まで、授業中にどこかの教室からガタンという大きな物音が聞こえないかと、それだけを楽しみに時間を過ごした。


 知らぬ間に、彼女の周りに浸透していた敵意の視線は恐怖の視線へと変わっていた。どこかから、レヴが放課に教室に残っていることが発覚したのだった。一部の生徒たちは彼女への暴力を再開しようとしたが、それをさせない雰囲気がレヴの周りにはすでに出来上がっていた。彼女は意識することなく、異様な冷たい空気を発するようになっていた。レヴは周囲の態度の変化になんだかやるせのない気持ちにかられ、白痴のふりをするのをやめた。口を開く回数は極端に減った。




   □

 アランは十一の頃、施設裏手の森を探索している際に、膝の裏を深く切ってしまった。血は際限なく出ていくようだった。アランは持ち合わせていた知識の範囲内での止血を済ませ、次の瞬間にはその傷のことは忘れてしまっていた。正確な手当てを受けなかったがために、彼はこの日を境に一生の間右足を引きずって生活していくことになった。


 十四歳になり、街のゴミ捨て場に放棄されていたコミックブックから性愛を学んだ。性愛はどこにでもあるらしいと知った。こっそりと忍び込んだ名画座で上映されていた映画にも性愛の場面があった。古代ギリシアでは性愛はエロースとして深く神聖なものであるとみなしていたらしい。アランはほんの探究心から、施設長の部屋から盗み出した金を使って娼婦を買った。性愛を学ぼうと思った。アランと娼婦は二時間のあいだ身体を重ねたが、ついにアランは絶頂に達することができなかった。娼婦はアランをマネキンのようだと思った。空っぽだが悪魔のような攻撃性はなく、天使のような優しさもない。たったの少しもない。彼女は次第に怖くなっていき、金を受け取るとそそくさと身を引いていった。アランは性愛と女に絶望していた。


 十六歳の誕生日を迎える時には—もちろんアラン自身は自分の誕生日などは意識していなかったが、彼の盗みはすっかりと板についていた。施設内のものでは到底満足できず、街の商店を周った。書店からは人類学や古代哲学についての書籍を持ち出した。金も盗んだが、どこで使えばいいものかわからなかった。


 やがて施設の外へ出る回数も減り、読書に耽る毎日を過ごした。すべての書物を肯定的な視線で読んでいき、読了後は書籍内の全センテンスに欠点を見出すように読み直した。自分の中で批評を完結させていた。読んだそばから大体の内容を忘れた。アランの部屋は分厚い本の山で埋まっていった。


 十八になり、誰とも深い交友を持たないまま施設を出た。誰ひとりとして彼の出立を悲しまなかったし、見送りもしなかった。アランはベッドの脇に隠しておいた自作の小動物の骨標本を置いていった。お気に入りの品であったが、ある日途端に興味を持てなくなっていたのだった。





   ○

 レヴは付属の高等学校へ進学した。ドイツ語とイタリア語を学んだ。友人はやはりできなかった。見かねた中年の女教師はレヴのことを常に気にかけた。伸びたままの前髪を切ってやることもあった。女教師はある日—煩いくらいに晴れた日だった、標識を無視した車に轢かれた。あっさりと息を引き取った。その一件はすぐさま学校中共通の悲しみの話題とされた。レヴは数ヶ月遅れて、やっと女教師が死んだことに気がついた。


 何も起きることのない生活だった。次第に活字を嫌うようになっていった。レヴは映画を好んだ。休日は老夫婦に連れられ名画座へ行った。平日にも学校の視聴覚室にある宗教色の強い映画を見漁った。映画を見ている時、彼女の左眼は、両眼分の役割を担おうとせわしなく動いた。酷使された左目の視界はわずかに霞むようになった。レヴは眼鏡をかけるようになった。


 レヴは夢の中で旅をした。映画で見た世界に自分を置いてみることもあった。しかし、その空想はすぐに霧消した。彼女は長時間ものを考え続けるということができなかった。書かれたものや放映されているものをただ呑み込むことの方が遥かに楽だった。




   □

 アランは海沿いの私立学校に職を得た。草刈りや用具の運搬などの雑用を一手に引き受けた。子供たちから声をかけられると彼は快活に応じた。足を引きずりながら日が暮れるまできっちりと働き、終業時間になるとどこにも寄り道せずにまっすぐ家に帰った。住居は赤茶けたレンガ造の古いアパートメントだった。隣人の女はいつも扉を開け放ったまま、声をあげてむせび泣いていた。


 アランは日に二時間から三時間ほどしか睡眠を取らなくなった。夜はアパートメントの裏側にあるコンクリートの壁をじっと見つめていた。外に持ち出した簡易椅子に腰掛け、薄汚れが覗く灰色の壁に溶け込むように向かい合っていた。


 凪のような日々を過ごした。問題は何も起こらなかった。アランは善良なる一市民であり、勤勉な労働者であった。アランは本を読まなくなった。食事も最低限しか取らなくなった。抜け殻のような心で、三十三年を見送った。アランは五十一歳となった。


 ある日曜日、勤務先の近くの小ホールで講演会が開かれることになっていた。アランはその手伝いを任されていた。講演会の題は「現代アートに残る野生の感覚」というものだった。アランは会場の後ろで後ろ手を組み、じっと講義に耳を向けていた。その時、右側からか細い視線を感じた。そちらを振り向くと一人の中年女性が立っていた。


 アランはすぐにその女と自分が同じ心を持った人間であると悟った。女の貧相な頬の凹みや、振りかけたように散らばるそばかす、か細い肩、落ち窪んだ瞳、その全てが自分との共鳴を叫んでいた。そのような感覚は生まれてから初めて味わうものだった。アランと女はしばしの間、見つめ合った。


 ふたりは一言も交わさずに会場を出た。





   ○

 レヴは高等学校を卒業した。就職先を考えていなかった彼女は街に出て最初に目についた肉屋へ勤めることにした。肉屋の手伝いは二年間のみの仕事となった。女将がレヴの冷たい雰囲気を嫌に思い、解雇を言い渡したのだった。レヴは苦言の一つも呈さずにそれを受け入れた。


 その後は町の中央にある繊維工場に勤めることになった。ここでの仕事はレヴの性向に合っていた。作業員として、ひたすらに流れてくる単純作業をこなしていった。仕事はすぐに覚えた。工場での時間はあっという間に過ぎていった。仕事の後はひとりで家へ帰り、ソーセージとパン、水で薄めた黒ビールの夕食を摂って、早めに床についた。そんな生活が二十二年間続いた。その間に祖父達は死んでいった。レヴは淡々と葬儀を執り行い、二人を同じ墓に眠らせてやった。


 ある日、時代の煽りを受け、繊維工場が倒産することが決定した。噂として囁かれていたその情報は次第に真実味を増していき、ついにレヴは解雇通知を受け取ることになった。


 働く場所を探し求めたレヴは海沿いの地方へ移り、大きな屋敷の使用人になった。そこでは当たり障りのない、平凡な女でいることを努めた。屋敷の主人一家は彼女を不審に思うこともなく—かといって大切にするわけでもなく、雇用契約を更新し続けた。四年間が過ぎた。あっという間に歳をとった。四十四歳になった。


 ある晴れた日曜日。一日の休みをもらっていたレヴは、屋敷近くのホールで開催されていた講演会へ赴いた。たまたま気が向いたのだった。講演のテーマは「現代アートに残る野生の感覚」というものだった。レヴは外套に顔を潜めるようにして、会場へ入っていった。席にはつかないで後ろの方で壇上を見つめることにした。壁沿いを沿っていき、ある地点で自然と足が止まった。


 目が奪われた。視界には一人の男が捉えられていた。男の両眼下には何十年にもわたって成熟されてきた大ぶりなくまができていた。その奥の瞳はつまらなそうに壇上に向いている。レヴは瞬時に理解した。この男と自分が同じようなつくりで成り立っているということを。


 やがて男はレヴに気がついた。男もレヴと同じようにただ相手をじっと見つめて、少しのあとですべてを了解したようだった。


 ふたりは一言も交わさずに会場を出た。




   ×

 ふたりは毎週の休みを迎えると、共に時間を過ごすようになった。街や海沿いを散歩した。会話は少なかった。アランは読書を再開するようになった。レヴは、彼が本のページをたぐる姿をそろそろと眺めていた。


 共通の楽しみは映画鑑賞くらいだった。必ず一番遅い時間の上映回のチケットを購入した。ふたりして引き込まれるようにスクリーンを見つめていた。犯罪映画は何回でも見に行った。ときにはロマンスもアクションも見た。ある日に上映された映画に、ふたりの気持ちは釘付けにされた。アジア人女性を執拗に追い回す殺人鬼の話だった。偽物の鮮血が五月蝿いくらいに画面を埋める類の映画だ。世間からの評価も非常に悪く、駄作だと罵られていた。それでもふたりはその作品を気に入っていた。


 ある日曜日の帰り道、ふたりは手を繋ぎ、寄り添い合うようにして帰途についた。途中にある農家の納屋に忍び込んだ。指先が痛くなるほどの寒さだった。草いきれの残り香が漂う長方形の空間でふたりは互いの身体に触れていった。激しさはなく、ゆったりとした動作だった。ぎこちなく触れ合った。ふたりはしばらくの時間そうしていた。


 ふたりは一緒に住み始めた。キッチンの他に三部屋だけの小ぶりな家だった。壁には黒い汚れがじっとりと染み付いており、それは何かの模様であるかのように見えた。家は、街から幾分離れた地所にあった。周りには田んぼや畑が広がっており、生活用水は井戸から汲んできた。周辺で農夫以外の人間を見かけることはなかった。郵便も二日に一回しかやってこなかった。それで困ることはふたりにとって一つもなかった。それなりに幸福な—客観的に観察してのことだが、生活を送っていた。毎土曜日には市場で買ってきた小ぶりな鶏をローストして白ワインと一緒に楽しんだ。性行為は何度試みてもうまくいかなかった。いつかの納屋での時間のように、相手の身体をしばしの間まさぐり、それで終わりだった。そのあとは一糸纏わぬ姿でふたり眠りについた。


 ある日、アランが仕事から帰る途中、一匹の子犬が彼の足元にじゃれついてきた。アランは意に介せず、歩を進めていった。子犬は何かを求めるような目つきで彼を見上げ、その足の進む先についていった。家に着くと、子犬は住居へ入ってきた。レヴはその頭を撫でてやった。ふたりはその犬を飼う事にした。子犬は元気に育った。雌だった。ふたりは夕餉の余りや、適当に作ったスープを彼女に与えた。数ヶ月が経つと、子犬は身ごもった。日中は家の外へ出かけていくので、どこかで子種をもらったらしかった。ふたりは出産についての知識をもたないながらに彼女を手伝った。子犬は四匹の子供を産んだ。四匹みんながプルプルと身を震わせ、ふたりはそこに生命の動きを見た。


 子犬に子供が産まれた日、ふたりはもう一度性交渉を行おうと試みた。数ヶ月ぶりだった。長い時間をかけることを意識した。しかし、やはりそこには何も生まれなかった。この日を境に、ふたりは二度と身体を重ねようとしなかった。


 その年の秋の暮れ、ふたりは計画を進めることに決めた。明確な打ち合わせの時間を持つことなどなかった。その計画は出会ったその時からふたりの中にある共通理解のようなものだった。ふたりは無言のうちにその計画を共有していたのだった。互いがそれを望んでいることは最初の時からわかっていた。


 少しずつ、一生の仕事の準備を整えていった。多大な時間を要した。寝台や必要な器具を買い揃えた。アルコールなど薬品類も一通り用意した。事後に残ったものをどう処理するかについても念入りの調査を行なった。最後に中古のビデオカメラを買った。撮影用のレンズ付きカメラも買った。すべてが整った。


 決行の前夜、ふたりはビールで乾杯をした。グラスを重ね合わせるなど初めての出来事だった。ふたりは穏やかに酔いを回した。





   ×

 レヴは街へ出て、小一時間、そこらをうろつき廻った。左眼で冷淡に、自分たちが求めるものを探した。酒屋の後ろにある公園で少年をみつけた。青縞模様のTシャツと色あせたジーンズを着ている。歳は七つか八つくらいに見えた。虫歯があるのか、片方の頬はぷっくりと膨れ上がっていた。


 レヴは彼にお菓子をあげた。少年は若干の警戒を残したまま、それを食べた。少年が食べ終えるのを見届けてから、レヴは彼を家に誘った。野球のグローブとバットをプレゼントすると言った。少年は数秒考えたのちにレヴについていくことにした。

 家につくと、アランは少年を見てわずかに眉間へシワを寄せた。想定していたよりもふくよかな体型なのが気に入らなかった。


 ふたりはじっくりと時間をかけ、真夜中の間いろいろな方法を試しながら少年を殺していった。ビデオカメラを回していた。それとは別に、フラッシュを焚いて写真を何枚も撮った。部屋は少年から流れる血と糞尿の匂いで満ち満ちていた。折に雑多な作業音が響くだけで、それ以外は不気味に静謐な空間だった。アランは生まれて初めての性的絶頂に達した。レヴも恍惚を感じ、幸福感に包まれたまま作業を続けていった。ふたりは唾液をこぼしたまま、予定されていた手順通りにことを運んだ。


 翌朝、ふたりは綺麗な服装に着替え、揃って食卓についた。季節野菜で作ったカレーと、ラズベリー数粒を朝食とした。ビデオカメラに撮った映像はアランの背中でほとんど隠れてしまっていた。カメラで撮った写真は現像してみると、おおかたは微妙にピントがずれてしまっていた。ともあれ、ふたりはそれらの写真を真新しいアルバムの中に挟んでいった。アランは比較的よく撮れている写真を焼き増しして持ち歩くことにしようと考えた。念入りな準備期間のおかげで後始末には時間がかからなかった。ふたりはその後、いつものように—まるで何事も起こらなかったかのように仕事へと向かった。


 年明け前にもう一人、今度は少女を殺した。その後の一年でもう二人殺した。毎回、新しい、尊い発見があった。そして、ふたりはそれぞれ、必ず忘我の境地へ達した。その度に、これこそが自分が求めていたものだと実感することができた。


 ふたりは焦らずに、淡々と準備を整えたのち行動に移った。ふたりを怪しむ者など、一人としていなかった。




   ×

 平凡な日常の道中に、非凡な日常の終わりがあった。


 アランは通勤のために市電に乗っていた。電車はガタガタ揺れていた。ひどい咳がこみ上げてきた。アランは風邪をひいていた。口元を抑えるためにコートの内ポケットからハンカチを取り出そうとした。その拍子に、ポケットに入っていたいくつかのスナップ写真が床に散らばった。そこに写っているものを見て、乗客はざわつき始めた。アランは落ち着いた様子で写真を拾い集めた。右足が不自由なアランは全てを拾い終えるのに長い時間を要した。その間、乗客は誰一人として彼を手伝わなかった。


 その日の夜、五名の警察官がふたりの家を訪れた。ふたりは一切の抵抗をしなかった。静かに警察車両に乗り込んだ。車は暗闇に包まれた田舎道をゆっくりと進んでいった。


 ふたりは突きつけられた全ての容疑を認め、ときには否認した。彼らが犯していない殺人事件についても容疑を認めることがあった。署内の誰もがふたりの言うことを信じなかった。


 裁判が始まった。ふたりはことの成り行きに終始無関心な様子だった。ふたりは有罪と判断された。終身刑だった。重度の精神異常があるとして、精神病院の隔離病棟へと送られることになった。


 ふたりは同じ病院へ送られた。入所の日には、病院の入り口に多くの群衆が押し寄せていた。彼らはふたりに向かって、ものを投げつけ、罵倒の言葉を繰り返した。辺りには憎悪と叫喚が渦巻いていた。多くの涙と怒りがこぼれた。被害者の遺族もいた。ふたりは顔を伏せて入り口の門をくぐっていき、別の病棟へと連れていかれた。その後ふたりは一切顔を合わせることがなかった。





   □

 入所後の三年間、アランは毎日のように「私をここから出さないでくれ」と懇願し続けた。その次の三年は「自分を早くここから出せ」と終日呟いていた。殺人については何も語らなかった。独房の小さな窓から差し込む光を避けるように、日がな部屋の片隅にうずくまっていた。ある時期は指先を噛み切り、滲み出る血を絵具として壁に異様な絵を描いていた。何の絵か、と医者が問うと、犬だ、とだけ答えた。壁には大きな円が描かれているだけだった。


 入所してから何十回目かの取り調べでアランは珍しく饒舌に言葉を発した。「あれが僕の性愛だ」、「子供を通してレヴを見ていたのだ」と言った。


 ある冬の日の朝、彼は冷たくなって死んでいた。五十八歳だった。



   ○

 レヴは、膝を抱えたまま個室の壁を眺めて日々を過ごした。まるでその壁に映画が投影されているかのようにじっと眺めているのだった。


 食事は毎食しっかりと摂った。自由時間には外を散歩した。看守らに話しかけるようになった。殺人について問うと、ニヤッと静かな笑みを見せた。笑うだけで何も言わなかった。アランのことについてはその存在すらもすっかりと忘れてしまっている様子だった。少なくとも彼についての話題には何も関心を示さなかったし、一切の反応もみせなかった。


 やがて、レヴは部屋の壁をだらんと伸ばした舌で舐めるようになった。一日中飽きることなくそうしていた。


 十九年の監獄生活の末、眠るように息を引き取った。六十四歳だった。


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