Honey trapper

i.q

Honey trapper


この小説はフィクションです。実在する人物、国や団体などとは一切関係ありません。







「先生、愛は世界を救うって本当?」


 沢山の教材を抱えた金髪碧眼の少女の目を見返して、女講師は答えた。


「ええ勿論。貴方が人を愛し愛された分だけ、世界に平和が訪れるわ」


 まるで女神の囁きのような優しく甘美な返答をした女講師。しかし、その表情は慈しみ深い母親のような表情は一片もなく、ただ平坦だった。その顔にはこう書いてある。


 ――――何故そんな当たり前な事を問うの?







 A国首都にある大統領官邸周辺の木々は美しい紅葉の季節を迎えていた。秋のカラリとした風に吹かれて木々の枝先から葉が離れ、地面の上は色鮮やかな絨毯が敷かれる。それを美しいと感じるか、鬱陶しいと感じるかは人それぞれ。ジェイス・トンプソンは普段は後者だった。しかし、この日だけは例外。彼の目には車窓に移る景色がどれもこれも美しく輝いて見えた。それほどまでに彼は高揚していたのだ。


「やりましたね、国務長官! 大統領は貴方の意見を尊重し、エミリア・ペレスを跳ね除けて国家の重大な決定を下された。貴方は我が国の、いや、世界の救世主といっても過言ではないでしょう!」


 車に同乗していた専属秘書の興奮した台詞はそのままジェイスの内心の叫びと同じだった。しかし、ジェイスは落ち着き払った振りをする。威厳は彼にとって大切だった。国を、否、世界を背負って立つ男には威厳がなくてはならない、彼はそう考えていた。


「落ち着きたまえ。正式な発表は夜だ。今日はこれから忙しくなる。気を引き締めるんだ」


 鷹揚に言えば、専属秘書は羨望の眼差しをジェイスに向けた。その視線を受け、彼の心の奥底は興奮で震えた。この視線が今夜以降、世界中の人々から大統領を介して自分に注がれる。そう思うと、口角を上げずにはいられなかった。その表情を秘書に見られまいと、ジェイスは視線を再び車窓の外に投げた。


 ――ここまで長かった。


 ジェイスは流れる風景の美しさと重ねて、一人の女に思いを馳せた。


 ――俺がこれから成す偉業を知れば、きっとミランダは大喜びではしゃぎ回るだろうな。


 アジア系移民をルーツに持つミランダは長く艶のある黒髪とエキゾチックでセクシーな目元がチャームポイントの女だった。その美貌を脳裏に描いたジェイスの笑顔は締まりのないものに変化する。


 ミランダは数年前からのジェイスの愛人である。彼女は外資系企業に勤める一般人女性だ。ジェイスはその愛人に嵌っていた。


 車での移動を終え、ジェイスは自らの執務室に辿り着く。デスクに鞄とスーツのジャケットを放り投げ、首元のネクタイを緩める。朝一からの会議が長引いたのでこれから遅めの昼食を摂る予定だ。つまり、束の間の休憩時間。ジェイスは応接用の革張りソファーに脱力して腰を下ろし、長い脚を組んだ。それから車内に居るときからずっと握りしめていたスマートフォンを操作し、電話を掛けた。


 数コールの後、愛しい女の声が耳に入ってきて四十をとうに過ぎたジェイスの胸は年甲斐もなく高鳴る。ただ、普段はシャンパンのように芳醇で弾けた女の声を予想していたジェイスの耳に届いたのは、蜂蜜のようにとろりと気だるげな声だった。予想外の声に男の脳裏にはベッドの中で触れた艶めかしい女の肌の感触が蘇る。しかし、すぐに自分の仕出かした失態に気が付き、ジェイスは受話器越しに女のご機嫌を窺った。


「すまない、ミランダ。そちらは今深夜だったか?」


「ええ、外も部屋の中も真っ暗よ。フフッ。どうしたの、ジェイス? 貴方の方から電話なんて珍しいわね。声が聞けて嬉しいわ」


 気だるげな声が綻んだのが分かるとジェイスはほっと肩の力を抜いた。ミランダが昨日から海外出張だということをすっかり忘れていたのだ。


「あぁ、ミランダ。一つ大きな仕事を終えたところでね。どうにも君の声が聞きたくなってしまったんだ」


「時差を忘れるくらい衝動的に私を求めてくれたってこと?」


「そういうことだ。美容に悪いと言って電話を切ってくれるなよ?」


「うふふ、どうしようかしら」


 まるで幼い少女のように悪戯に笑むミランダの声にジェイスは心底癒された。彼は彼女と交わす中身のない会話が好きなのだ。


 ジェイスは若くして国の中枢たるポストに就いた異才の男。仕事は常に緊張感を持ち続けなければならないし、職場や家に居る身近な女は鉄の様にお堅い者ばかりでそこに癒しなどなかった。その点ミランダは語学が堪能でコミュニケーション能力は高い割におつむが弱く、小賢しくなかった。そんなミランダはジェイスにとってとても魅力的だった。


 下手に頭の回る女は一緒に居て疲れる。ジェイスは自らの妻を思い浮かべて内心で溜息を吐き、直ぐに受話器越しのミランダに集中した。


「そちらに居る友人とその家族に会う予定だと言っていたが、もう会ったのか?」


「ええ。数時間前まで一緒にディナーを食べていたわ。貴方が選んでくれたお土産、みんなとても喜んでくれたの。流石の見立てだったわ」


 ミランダのはしゃいだ声にジェイスは心の中で自慢気に呟く。


 ――君とその家族の幸せな交流は俺のお陰で保たれたんだぞ。でなければ、今回の交流を最後にもう二度と会えなかったかもしれない。


 つい先ほど、ジェイスの進言によって大統領が国の運命を左右する決定を内々で下した。


 それは、今ミランダが滞在しているB国との二国間条約締結に向けて動くという国家方針の決定だった。因みにもう一つの選択肢は、軍事力を投入しB国と全面対立するという対極の方針。もし後者が選ばれた場合、B国との平和な国交はなくなる。となればミランダには愛する友人とその家族と会いないどころか、敵対するという未来が待っていたのだ。


 ジェイスは元々過激派だった。B国が世界の覇権を狙っている事が許せなかった。国際法を無視して我が物顔で他国の領土を脅かすB国の外交手法が吐き気を催すほど嫌いでもあった。政府の過激派に属す高官だった父親の影響も有り、ジェイスは物心ついた頃からアンチB国だった。


 ジェイスは、二十年ほど前に発見された新エネルギー資源を自国とB国の共同で採掘し精製をすると聞いた時は耳を疑った。同時にいつかその資源を巡って二国間で争いが起こる可能性を危惧した。そして、いざ争いとなった時に絶対に軍事面で遅れを取るまいと、彼は政治に携わる前から軍事強化を主張してきた。当然、数年前にB国が新資源を独占するために秘密裏に軍事的準備をしているという情報を当局が掴んだ時、彼は構えられた銃口に対して大砲を向けてやるくらいの気持ちでいた。


 しかし、そんなジェイスは今朝から穏健派の筆頭になった。


 元々、副大統領のエミリアが穏健派の筆頭だった。世間一般の認識もそうだ。ジェイスは過激派代表としてずっと世間にこう訴えてきたのだ。


『我が国と世界に“確実な利と平和”が約束されぬ限り、武器を持ち有事に備えるべきだ』

 

 ジェイスの支持者はその主張に全面的に賛同していた。


 しかし、ジェイスはその主張は今朝になって急にひっくり返した。否、ひっくり返したのではなく、正しく有言実行したのだ。“確実な利と平和”がジェイスの手の中にあり、それを提示し、それまでの軍事主義を捨てた。ジェイスはB国外交トップと秘密裏に作り上げた二国間条約案を満を持して大統領に公開したのだ。その内容は両国に利がありつつも、恒久的な二国間の平和を謳うものだった。自国が世界の覇権を握るという点に関しては意に介さない内容だったが、ジェイスはそれを受け入れていた。民主主義国家が他国に権威を振りかざそうなどという考えはナンセンス。時代遅れだと言うのがジェイスの現在の思想なのだ。


 それまで過激派だったジェイスの突然の掌返しに大統領もエミリアも大いに驚いた。次いで、エミリアは自身が穏健派であるにもかかわらず、覇権争いを放棄する内容の条約にすぐさま反対した。エミリアとジェイスは何年にも渡って意見を対立させてきた。今更、同じ方向を向いて手を取り合うなどという事は有り得なかったのだ。


 常時だったら大統領は突然意見をつく返したジェイスではなく、エミリアの意見に耳を傾けていただろう。しかし、運はジェイスに味方した。あろう事か、この日エミリアは重要な会議に遅刻したのだ。普段は時間厳守だのなんだのと小うるさい彼女の常ならぬ失態はジェイスに有利に働いた。


 大統領は良く言えば慎重、悪く言えば優柔不断な男だった。そんな彼は、ジェイスの説得と既にB国外交トップと話をつけている事実、更には「世界平和に大いに貢献した大統領として、後の世に名を残す」という甘言に完全に乗っかった。


 斯くして、ジェイスの主張が国の方針として全面的に採用されたのだ。


 そう、ジェイスはここ数年で変わった。彼自身は誰に影響を受けたつもりもないと思っていた。しかし、ここにきて感慨深く振り返ると、電話の向こうで話をする愛しい愛人の存在が大きかったと言わざるを得なかった。


 政治家の愛人だというのに政治に全く興味を持たないミランダ。好きなものは流行りのスイーツと派手なスーパーヒーロー映画。ヒーローが世界を救う類の話が大好きな彼女はジェイスにその良さを滔々と語ってくることもしばしば。妙齢の女性にしては単純で幼い思考力しかもたないミランダがジェイスは愛しくて仕方がなかった。


 ジェイスの妻であるクロエは恋愛結婚した昔の可愛らしさを失い、今となっては筆頭秘書なのではないかと思えるほど仕事に関して口うるさかった。ジェイスはそんなクロエにうんざりし、その分、ミランダへの愛情が募ったというわけだ。


 ミランダは正義のヒーローと世界平和が好で、B国に親友とその家族が居る。たったそれだけのことがジェイスの様々な選択時に脳裏を掠めた。それを繰り返す内にジェイムスの思想は過激派から穏健派にチェンジしていったというわけだ。ジェイスだって人間だ。国の重要な決定を行うにしても、迷いに迷った局面では自らの愛する者が望む未来に重きを置く。自らにそれを許す程度にジェイスはミランダを愛していた。


「ああ、俺の愛しいミランダ。俺は君の事を心から愛している」


 ミランダが楽しげにB国での滞在話をする声を遮ってジェイスは思いの丈を吐露する。すると受話器越しに、ふふっと気の抜けた笑みが響いた。


「あら、どうしたの? 今日はとても情熱的ね。私が遠くにいるのが寂しいの?」


「寂しいよ。出来る事なら今から迎えに行きたい」


 本心からの言葉だったが、ミランダは声を上げて笑った。


「この時間だと今そっちはお仕事中の時間でしょ? 抜け出して来てくれるのかしら? 飛行機は? チャーターする?」


 ミランダの軽口にジェイスは感情の高まった胸からゆっくりと空気を吐き出し、苦笑を浮かべた。


「そうしたいのは山々だが、今日ばかりはそうはいかない。ここ数年で、いや、私の人生で、最も重要で大きな仕事の正念場だからな」


「うふふっ、そんな時に私の声を聞きたくなってくれてありがとう。愛する貴方のお仕事が上手くいくことを心の底から祈っているわ。でもって、そっちに帰ったらうんと褒めて、甘やかしてあげるわ、マイダーリン」


 砂糖掛けのドーナツや蜂蜜入りのカフェオレと比べても遜色ないほど、ジェイスにとってミランダの言葉は甘かった。彼は名残惜しく思いながらも「愛している」と囁いて電話を切った。そして、早く直接会って言葉以上に甘い時間を過ごしたいと強く願う。


 そんな惚けたジェイスを現実に引き戻したのは無機質なノック音だった。瞬時に自らが執務室にいる事を自覚し、仕事用の顔を作る。ジェイスは秘書が昼食を持って来たのだと思って入室の許可を出した。しかし、部屋に入って来たのは秘書ではなかった。


「……何の用だ?」


「何の用とはご挨拶ね。貴方の忘れ物を届けに来てあげたのに」


 ジェイスは金髪を頭上高く纏めた化粧の濃い女――妻のクロエに反射的に仏頂面を向ける。昔は今のミランダのように愛した女だったはずなのに、いつの間にか妻ではあっても女には見えなくなった事実上のパートナー。その手にはスーツバックが握られていた。


「スーツを忘れた覚えはないが」


「馬鹿を言わないで頂戴。今日は夜に重要な会見が控えているのでしょう? そのスーツではあまりカメラ映えしないわ。貴方は未来の大統領候補なのだから見た目も細部まで拘らなくては駄目よ」


 クロエはスーツバッグから以前に記者会見用にオーダーメイドしたスーツを取り出し、勝手知ったる顔で執務室内にあるクローゼットを開きそれを掛けた。


「今日の会見は大統領がお話になる。私は横に控えているだけだ。喋る機会があっても、記者からの質問に答えるときだけだぞ」


「そうであっても、このスーツは今日の貴方に必要です」


 ジェイスは見た目や喋り方などに拘るクロエの細かな政治戦略に何度も助けられたことがあった。昔はそんな妻のサポートを献身的だと好んでいたが、いつしかそれが鬱陶しくなった。何故なら、クロエがより深く政治的な事に口出しするようになったからだ。


 クロエはここ数年は口を開けば「最近の政治家は口ばっかりで実が伴っていない。何かを主張するなり批判をするのなら具体的な解決策を同時に提供しなければならない。でなけでば、有象無象と変わらない」と評論家のような事を言う。しかし、そんな彼女自体が何の具体策を持たない口だけの女だということをジェイスは知っていた。クロエにはその自覚がなく、時々ジェイスの仕事ぶりにまで文句を言って来る。こっちの苦労も知らないで、と思わずにはいられなかった。


 家庭の事だけ言えばクロエは申し分ない妻であり母親だった。家庭の管理は完璧。美味い手料理を振る舞い、子どもの教育にも熱心。息子はジェイスが卒業したハイスクールへの入学が決まり、まだ十歳になったばかりの娘のソフィアはクロエの独特の教育方針に従い、世界各国に語学や文化を学ぶ留学を繰り返している。仕事に忙しいジェイスは子どもの教育にはほぼノータッチだったが、二人ともどこへ出しても恥ずかしくない自慢の子どもだと思っていた。これらの点はクロエに感謝している。


 しかし、仕事に口出しされるのだけは許せない。そして、クロエがあれこれと口を挟むようになって後、天から舞い降りる天使の如くジェイスの前に現れたのがミランダというわけだ。ミランダという癒しを得たお陰でジェイスはクロエへの怒りを鎮めることが出来た。そうでなければいつ離婚してもおかしくなかった。


「それで、今朝の会議で満足の行く結果は出せたのかしら? 私はその内、ファーストレディーになれそう?」


 クローゼットからジェイスに振り向いたクロエの言葉に、ジェイスは欲深い女だと内心深く溜息を吐いた。しかし表情には出さない。


 今のジェイスには出世欲はそこまでなかった。大統領のポストになど興味はない。その代わりにミランダと共に居る時間と、世界を平和に導いた影の立役者という如何にもミランダが好みそうな名声は欲しい。ただそれらを得るためにはクロエの機嫌を損ねるわけにはいかなかった。この妻には甘い汁を吸わせてそれを目くらましにしつつ、少しばかり今までの余計な口出しを反省させる。そうして、大人しく家庭に収まって貰うのが丁度良い。ミランダはジェイスの愛さえあれば既婚者だろうがなんだろうが構わないと言ってくれている。同時に国を引っ張る仕事をしているのがカッコイイとも。よって離婚騒動で余計な波風を立てるのはジェイスにとって得策ではないのだ。


「ああ、今回の問題が解決すれば、お前が求めている椅子はいつか必ず手に入るだろう」


 ジェイスの返事に満足したクロエは軽い足取りで執務室を後にした。その背中を見送ったジェイスは皮肉な笑みを浮かべた。


 今回の自らの仕事を知ればクロエは確実にジェイスに文句を言えなくなる。何せ、口だけではなく実際に世界的にも大きな偉業をやってのけるのだから。その上で、満足のいく椅子の存在をチラつかせてやれば、妻はもうジェイスの掌の上に乗るも同然。後はミランダとの逢瀬を楽しむために上手く転がしてやれば良い。


 ジェイスには自信があった。何もかも上手くいく自信だ。いつの頃からか湧いて出るようになったその自信は彼の余りある知識や政治力を刺激し、ジェイスを成功者だけが乗れる軌道に乗せた。


 ジェイスは笑みを引っ込め、顔を引き締めた。


 本当の成功者になるためにしなくてはならないことはまだまだ沢山ある。まず成すべきは、世界平和をメディアに向かって大統領に語らせること。


 そう意気込んだジェイスはスカイブルーの瞳をギラリと光らせ、クローゼットのスーツに着替えるべくソファーから立ち上がった。






 無機質なコンクリート張りの壁面に大小様々なモニターが設置され、そこには多様な映像が映し出されていた。広々とした格式ある議場、趣味の良い絵が飾られた執務室、レストランの個室、ホテルの一室、個人宅のリビング、それからこの部屋同様モニターや様々な機材で埋め尽くされた国家の軍事拠点。それらの映像は全て有人で、接続されたスピーカーから専属のスタッフが常に神経を研ぎ澄まして会話の内容に聞き耳を立てている。


 そんな独特で異様な室内の最も大きなメインスクリーンに映し出されていたのはA国大統領による記者会見の映像だった。


『我が国は今後、新エネルギー資源の平等な分配と同時に恒久的な世界平和を目指していきます。その先駆けとしてB国との二国間条約締結に向け本格的な外交を開始する』


 記者団からのおびただしいフラッシュを浴びながら、大統領が胸を張って朗々と語る。そうして、B国との平和的な外交への第一歩がその口から名言された瞬間、無機質で機械的だった室内が一気に沸いた。


「遂に、我々の悲願の第一歩が達成された!!」


「ここまで来るのに数十年、やっと私達の努力が形になったわね!!」


「世界戦争の大きな火種がやっと消えましたね! 本当に良かった!!」


 誰も彼もが興奮して声を上げ、中には涙を流して歓喜している者もいる。そうして一頻りスクリーンだらけの室内が盛り上がったところで、その空間で最も年嵩で貫禄のある男が一人の黒髪ロングヘアーの女を振り返った。


「本当に良くやったアズサ!!」


 その声に呼応するように他の者達も一斉にアズサを振り返り、彼女を労い褒め称えた。それに対してアズサは表情に喜びを滲ませながらも苦笑を浮かべた。


「みんな有難う。でも、私だけの力で成し得た訳ではないわ。チーム全員の、我らがWWDOの勝利よ」


 アズサの言葉により一層室内は沸いた。その光景を満足気に眺めるアズサの横に歩み寄ってきた年嵩の男はご機嫌な顔で軽口を叩いた。


「日本人は謙虚だな、アズサ。ミランダみたいに天真爛漫に喜びを表現しても良いんだぞ?」


 ニヤリと上がった口角を一瞥したアズサは肩を竦めた後、ガラリと表情を変えた。


「だって代表、さっきからダーリンの顔がチラチラ画面に映るのに、大統領ばっかり喋ってつまらないの。折角テレビに映るんなら喋ってるところが見たいわ」


 落ち着いていてどちらかと言えばクールな印象だったアズサが、表情だけではなく声色から仕草、放っている雰囲気まで変えて喋る。代表と呼ばれた年嵩の男はそんなアズサに対して声を上げて笑った。


「はっはっはっ、確かに政治に興味がないミランダは発表内容よりも画面の中のジェイスの事を気にするだろうな! 流石はアズサ。ミランダのキャラクターへの理解が深い。その若さで最も重大かつ繊細なミッションに派遣させられるだけはある。数時間前の電話での演技も完璧だった」


 ご機嫌な代表を前にしてミランダは「ありがとう。褒められると照れちゃう」と言った後、その姿を消した。その場にはクールなアズサだけが残る。


「彼女になりきることが私の仕事ですから。完璧でなければ今回の結果は残せませんでした」


 ジェイスの愛人であるミランダ。国籍も過去の経歴も仕事もある彼女だが、それらの全てが作り上げられた偽物。ミランダの正体は世界規模の秘密結社WWDO【世界戦争抑止機構】から派遣された工作員――――国際的ハニートラッパーのアズサだった。


 WWDOはその名の通り、世界規模の戦争を抑止するために結成された組織。結成は国連発足直後である。当時、世界規模の戦争が二度と起こらないように、地球上に恒久的な平和をもたらすためにはどうしたらよいかを財力のある各国の要人が考えた結果、秘密裏に作り上げられた超秘密的組織がWWDOだ。


 その活動の神髄は武力を用いずに世界中で生じる戦争への火種を消化すること。その為に用いられる特殊技術がハニートラップだった。


 “人には感情があり、どんな人間でも他者から影響を受ける。そして人はその性質上人を愛し愛されることを望み、そこに幸せを見出す生き物だ”


 WWDOの創始者たる初代代表の言葉をモットーに、組織は人心掌握のプロフェッショナルを育成し、世界に派遣してきた。


 工作員は多種多様。絶世の美女もいれば、垢抜けない平凡な容姿の者もいる。年齢、性別、国籍も様々。戦争の火種となる危険な思想を持つ者、危険な思想を持つ可能性のある者、立場的に世界規模の戦争を勃発させることが可能な者、これらのターゲットにWWDOは適した相手を選出し、その懐に入り込ませる。そして、その思想と行動を平和的な方向に導くのが工作員の仕事だ。


 その任務遂行――つまりは世界平和のために、世界の最先端技術がWWDOには終結する。超小型ドローンが高性能なカメラとマイクでどんな現場からも情報を抜き取り、工作員の潜入のために様々な偽造行為が行われる。そうして、ハニートラップの英才教育を受けたその道のプロが世界各国に飛び立つのだ。


 A国で過激な思想を持ちつつ政治的な影響力が大きいジェイスの許へアズサはミランダとして派遣された。そして見事にジェイスの危険思想を平和的思想へと変換させた。


 世界の覇権を争っていたA国とB国の対立を解消し、その関係を歴史上最も友好的な状態に導いたアズサ。WWDOの悲願と言っても過言ではない世界情勢に導いた彼女だが、その姿勢はあくまで謙虚。もう少し喜んでもよいと思う代表もその謙虚さの理由を知っているから必要以上に煽ることはしない。


 興奮状態の指令室に一本の外線が入る。そのコール音にアズサは初めて表情を綻ばせた。


「きっとウィニングコールだわ。代表、早く出てあげて」


 アズサの言葉に代表は受話器を取った。


「長年のお勤めご苦労様。君の功績は世界の誰にも塗り替えることは出来ないだろう!」


 代表が興奮して褒めたたえた電話の相手が小さな画面に映し出される。そこにアズサが歩み寄り、カメラに向かって悪戯な笑みを浮かべた。


「おめでとうチームリーダー。貴方のお陰で何もかもが上手くいった。だから、ダーリンとの最初の祝杯は貴方に譲ってあげるわ」


 アズサのコメントに画面の向こうにいる女性――クロエは破顔した。


『それはどうも有難う、ミランダ。でも今週末の主人は外泊予定なの。全く接待でどこまで行くのかしらね?』


 二人のやり取りに代表は再び声を立てて笑った。


「修羅場は現地に戻ってジェイスを交えてやってくれ! とはいえ、君達にはまだまだジェイスの監視とコントロールは続けて貰いたいからな。修羅場を演じるのは当分先でお願いしたい」


 その後、この指令室には複数のウィニングコールが掛かってくる。A国副大統領エミリアの愛人が『どうにかこうにか早朝に駄々を捏ねて時間を稼いだ甲斐があった』と満面の笑みで語り、B国の外交トップの妻が『やっと長年の努力が報われた』と涙ぐんだ。





 そんな指令室の様子を部屋の隅で見守っていたのは、ハニートラップの英才教育を受けている十歳前後の子ども達。その中にいた一人の少女が近くに立っていた女講師に興奮して声を掛ける。


「愛は世界を救うって、こういうことなんですね!」


 女講師は少女の輝く瞳を見返して、自信に満ちた顔で頷いた。


「そうよ。そして、今後貴方があの人達見たいに世界を戦争のピンチから救うのよ、ソフィア」


 







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