3
その日はいつものように始まり、いつものように仕事を終え、いつものように家の前につき、そしていつものようにスマートデバイスからロックを解除する。ウィーン、ガシャン。といつもの音。そしていつものようにノブに手をかけ、扉を押し、いつものようには家に入れなかった。
「あれ、開かない?」
確かにスマートロックが動く音が聞こえたのにもかかわらず、ドアは鍵がかかっているようだった。つまり、元々ドアが空いていたということ?
背筋を冷や汗が伝わる。ような気がする。朝、ドア閉め忘れたってこと、だろうか。
きっとそうだろうと思いながら、恐る恐る部屋のドアを開けて覗き込む。入り口の廊下は電気が消えているのに、リビングの部屋からは薄暗い光が漏れている。そしてそこから聞こえてくる何かの曲。子守唄のようなゆっくりとした旋律。オルゴールの音だろうか。それが照らされたリビングから暗い廊下を渡って、この玄関まで届いてきている。
私はすぐにドアを閉めて、平常心を保とうと必死に努力した。
落ち着け私。電気はいつものように私の消し忘れで、音もきっと何かの不具合でしょう。どうせまた前の住民のデータのせいだ。これだから事故物件は困っちゃうね。今までこんなことはなかったんだけど。うん、こういうこともある。
私はスマートロックのアプリを立ち上げ、施錠履歴を見てみた。そして確認すると。
12時頃に解錠操作された履歴がある。誰かが開けた証拠がそこに残っていた。
あー、これアウトだ。誰か入ったのか。それとも誤作動か。事故物件ですしね。セキュリティも弱いのでしょう。ハッキングでもされたかもしれないね。
ここにきてとうとう恐怖心が一周して怒りも感じてきた。いや、ここでビビって私の晩酌タイムを邪魔されるのもなんか癪に障る。もし誰かいるってんなら顔ぐらい見せろ。
私は少しやけになりながらも、震える手でドアを開けた。先ほどと変わらず聞こえてくる子守唄のような声に怯えながら、少しずつ廊下を進んでいく。見たところ、誰かがいる気配はないが、物音などは奥から聞こえる旋律のせいでうまく聞こえない。廊下を抜け、リビングに入る。
荒らされたような部屋が広がっているのが目に入る。でもそれはいつもの私のリビングの有様なので、平常だ。特に変わったところは見られない。キッチンの方にも回るが誰もいないようだ。誰の気配もない。ジジジと壊れたようなノイズが混じり、どこか聞いたことのあるような曲が上から流れ続けているだけだ。
結局、また亡霊さんのデータか。全くお騒がせな。
いつものように晩酌の準備を進めようと、私はとりあえずバックをソファに降ろす。
「とりあえず、この曲止めて」
天井に向かって声をかけた瞬間。
「あのー、すいません、母はどちらにいらっしゃいますか?」
いつもと違う声が返ってきた。
聞こえてきた方向、通ってきた廊下を見ると、実在感のすごい男の亡霊が立っていた。本当に顔を見せてくるとは思わなかった。いや、そもそも亡霊じゃない。実体だ。なんだかヒョロヒョロというかゆらゆらしているし?
「あああああ! あの、出ていってください? 誰ですかなんで家にいるんですか警察呼びますよ」
「あ、え、あの、すいません、というかあなたもどなたなんでしょうか……?」
「いやそれはこっちの台詞ですし、早く出ていってもらえます?」
「いや、私、家に帰ってきた所なんですが……。 なんか荒らされてるようで……」
「へ、部屋間違えてるんじゃないですか! あとこれは荒れてるんじゃありません。ありのままなだけです」
とりあえず整理できない状況にアラートが鳴り続ける頭を落ち着かせねば。落ち着け私。鎮まれ私。
「ともかく出ていってもらえますか?」
「ちょっと待ってください。あの、母はどこなんですか?」
「いや知らないですよ!」
「だって家の鍵も開いていたし、家にいるんじゃないんですか?」
え、あなたが開けたんじゃなくて?
どことなく会話が噛み合わない。容量を得ない言い争いをしていると「本日、予約されているボイスメモを再生します」と、聴き慣れた声が天井のスピーカーから聞こえてきた。互いに上に目をむけたところで、突然音声が再生され始めた。
「たける、おかえり。そしてお誕生日おめでとう。私はもうここにはいないかもしれないのだけれど、帰ってきてくれて私は嬉しいよ」
お婆さんのかすれた声が聞こえてきて、そして途切れてしまった。もしかしてここの前の住民の人だろうか。こんなお婆さんだったのか。
「母さん!」
目の前の男の突然の声に驚き、私は再び視線を目の前の不審者に向ける。
母さん、ってあなたももしかして前の住民? 私は天井を指差し、恐怖心とともに目の前の男に聞いた。
「あの、とりあえず大家さんを呼ばせていただきますが、一旦、状況説明してもらってもいいですか?」
流石に素性の知れない人に近くにいられるのは怖いので、私はいつでも逃げられるように廊下を背に立ち、彼は離れて炬燵の近くに座ってもらった。大家さんが来るまでの間、説明を聞く中で私はこの不審者と亡霊の正体を知ることになった。
このヒョロヒョロとした男、守谷(もりや)たけるさんはこの家に前住んでいたお婆さんの息子らしい。
「3年ほど前、私が事業で失敗しましてね。少し借金を背負いました」
たけるさんは俯きながら、自分の手をじっと見ながら話している。
「自分の変なプライドもあって、自分でなんとかしたい、母に迷惑をかけたくないという思いで、しばらく母とは距離を置いていたんです。連絡もせず、まずは一心不乱に立て直そうと」
ということは社長さんなのか。見た目よりしっかりした人らしいことは分かったけど、流石に連絡をしないのはどうなのだろうか。
ただ、話を聞いて今までの亡霊の仕業も納得できた。家庭的な料理は、仕事で忙しい息子が久しぶりに帰ってきた時に手料理でもてなそうとしたためなのだろう。早起きで健康的だったのも納得がいく。
「で、なんで今日はここに?」
「新しい仕事を続けて、借金を返せる目処も見えてきたんです。それに今日は私の誕生日でして。それで、ふと帰ってみようと思ったんです」
頭上ではあの寂しげな曲がノイズ混じりに流れ続けている。よく聞くと、誕生日に歌うあのメロディだ。
それに耳を澄ますように懐かしそうな目を上に向けて守谷さんは続けた。
「以前は誕生日には必ず仕事を早めに切り上げて、母と過ごすようにしていたんです」
「それで、帰省するつもりでここにきてみたと」
「でも、久しぶりなんで改まって母にも連絡はできず。恐る恐る来てみていると、なぜか部屋は散らかっているし、母さんはいないし。もしかして強盗か何かに入られたんだろうかと思っていたら、いきなり知らない人が入ってきて、驚いてしまい。とっさに隠れてしまいました……」
「私もびっくりしましたよ。冗談で呼んでた亡霊が本当にいたのかと思うぐらい」
「え、亡霊?」
ちょうどいいタイミングで「再生リスト 2010年代のヒットナンバー、バラードメドレーを再生します」とスピーカーから甘ったるいバラードがいつものようにかかってきた。妙にしんみりとした青と赤が混じったような色合いで部屋が彩られ始める。
場違いな演出に彩られた部屋の天井を指差して、答える。
「これです」
「ああ、この歌のセットですか。残ったままだったんですね。よく私が仕事終わりにリラックスしたい時に使っていたセットで……」
いや、あなたの趣味だったんですか。
しばらくして大家さんがやっと来て、状況の説明をすることになった。
大家さんも事情を聞くなり驚いたが、隠していたことが露見したかのように、だんだんと顔色が悪くなっていった。
「それで、母の行方は知りませんか? ここから引っ越ししたということなんですよね?」
「守谷さんなんですがある日倒られましてね……」
「え、まさか母は……」
「あ、いえ、持病の腰痛がひどくなったしまったみたいで、その影響でそのまま近くの介護施設でお世話になることにしたみたいです。それで急にこの部屋も空けることに」
「そんな悪化していたのか。前から腰を痛そうにしてたけど……」
隣で聞きながら、一瞬本当に事故物件なのか、と冷や汗も出たが、彼の母はそのまま近くの施設に移ったらしい。それで急遽できた空き部屋の入居人を募集していたわけか。
私はついでに気になっていたことを聞いてみた。
「あの、ちなみにこの部屋の機器は直してもらえるんでしょうか?」
「もちろんホームメンテナンスを今一度行わさせていただきます。大変申し訳ないのですが、その際はどこか数日部屋を空けていただければと……」
そんな言葉を残し、大家さんはヘコヘコしながら帰っていった。
「色々とご迷惑をおかけしました」
「いえ、こちらこそ不審者みたいに扱ってしまいまして、すいません」
守谷さんもそのままお母さんのいる施設へと向かうらしい。
「でもお母さんに会えそうでよかったですね」
「はい、久しぶりなのでどんな顔して会おうかまだ不安なんですけどね。もう少し早く帰ってあげてればよかったかな」
そんな、たけるさんの後ろ姿を見送った後、部屋の中に戻った。
息子思いのお婆さん。それがこの部屋にいた亡霊の正体だった。いや、亡霊なんかではなかったけど。やっぱり私とは似ても似つかない、とてもいい人じゃないですか。
そう思うと同時に私はふと、スマートウォッチのメッセージをのぞいた。そういえば、母からのメッセージ返してなかったのを思い出した。
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