012. いっそ、この目を
ときどき、私のいないときに顔を出すという義妹が進めているホムンクルス研究のため、先生の方で調べておきたいことがあったらしい。私は彼の指示に従って作業を進めた。
何かの血を煮たり、濾したり、薬品と混ぜたり。なかなか怪しいことをする。しばらくすると、液体の分離を待つ時間、無言の時間が訪れた。
――今かもしれない。
「ねえ、先生。お聞きしてもいいですか?」
意を決して話を切り出す。この春から秋まで、ずっと気になり続けていたことを聞くために。
「あー。なんだー?」
「……持出禁止の本のことで」
「…………それが、どうかしたのか」
先生は、私の方を見なかった。それでも私は彼を見ていたから、その表情の変化に気づける。慎重に言葉を選んで、話を続けた。
「持出禁止本の利用者リストに、先生のお名前を見つけました。十二年前――先生が学院の三年生だった頃からの記録です。どうして先生は、これらの本を読んでいたのだろう、と。とても気になりました」
「それを言うなら、お前こそ。なんであんな本を読んでんだ。レポートにゃ、うまく取り繕って書いてるようだが……」
先生には、私の読書歴はもうバレている、と。
「んまあ、そうだな。そっちが〝本当の理由〟を話すっていうなら、こっちも教えてやらんでもない。予想はついているが。――母親だろ?」
「…………母親?」
はて、と私は首を傾げる。母親? どういうことだろう?
先生はようやくこちらを向いて「は?」と「違うのか?」と。目を丸くした。
「えっと、継母は、まったく関係ありませんよ??」
「違う、そっちじゃない。お前の母親を――リアーナ様を。蘇らせたいのだとばかり、俺は。お前の気持ちに整理がつくまで、そっとしておこうと思っていたが」
「ああ……そうだったんですか」
――母さまのこと、ね。そういえば、考えたこともなかったわ。時間を巻き戻す研究のことを読んでも、死者を蘇らせる研究のことを読んでも。頭にあるのは、ずっと――
その時だ。まるで雷が落ちたように、はっとした。数瞬のうちに、いろいろなことに気づいてしまう。思い出してしまう。線と線とが繋がるように。
私の心の変化。私という存在の異質性。そして……。
「国王陛下も、同じようにお考えだぞ。きっと。でなきゃ、とっくに止められてる。婚約破棄秒読みだなんて、ふざけたことを昼間は言っていたが」
「ふざけたこと、ではありません。……私はっ」
――言えないわ。これが二度目の人生だなんて。
彼の前では、とても言えない。もう聞けない。頼れない。だって彼の〝理由〟を、今ので察してしまったから。一度は死んだのに、今も生きているなんて。私は過去に戻れたなんて。
「悪夢を、よく見るのです。そのせいです」
今はいない、誰かに生きていてほしくて。やり直したくて。帰ってきてほしくて。それでも叶わなかったひとの前では、言えない。
「……悪夢?」
「ひとつは、私が
「オフィーリア」
「もうひとつは、彼に、殿下に婚約を破棄される夢。ずっと、ずっと、王妃になるために生きてきたのに。小さい頃から一緒だったのに。殿下は他の女性を選ぶの。私を捨てるの。こっちは、どうしたってもう変えられない。あのひとは私を愛していないもの。真実の愛を知ってしまったもの。だからっ、今のうちに、覚悟を決めておかなくてはならないの。自虐でもしていないと、押しつぶされてしまうの。あの子が私から離れていく。ずっとキスしてたのに、愛を吐いてくれたのに」
「オフィーリア! ――ちょっと落ち着け」
「っ、すみません」
――今のは、どこまでが嘘だった? どこからが、心の底からの叫びだった?
一気に喋ったせいか呼吸が荒い。額に汗も滲んでいる。胸が、苦しい……。
先生は「ちょっと待ってろ」と言って、準備室へと姿を消した。程なくして帰ってくると、透明なゴブレットを私に差し出す。
「水だ。飲め」
「ありがとう、ございます」
「それと、そうだな。悪かった。勝手な解釈をしていたことも、お前の精いっぱいの強がりを『ふざけたこと』なんて言ったことも。すまなかった」
「いえ。私こそ、取り乱して、すみませんでした……。本当に、お恥ずかしい限りです。どうか、今日の醜態のことはご内密に」
「ああ。誰にも言わん」
ちびちびと水を飲みながら私は彼の方を見やり、放置していた試験管の方にも目を向ける。液体は、透き通った赤色の液体と、黒い固形物との二層に分かれていた。
先生も、分離が終わっていることに気づいたのだろう。次の作業の準備を始めた。手を動かしながら、彼は言う。
「さて――これでも俺は教師だ。悩める学生のために、ちょいとばかしアドバイスをくれてやろう」
「その言い方、ふざけてます? それとも、気まずさを隠すための空元気?」
カチャカチャと鳴る実験器具。その手付きだけでも、彼の調子が狂っているのだろうことがよくわかる。
私のせいで悲しい過去を思い出したはずなのに、私のために平気そうにしてくれている。そう振る舞っていてくれる。ジェームズ先生は、大人だった。
「さあな。何から言おうか……。まあ、お前が持出禁止本を読んでいる理由には納得した。悪夢の件も承知した。だがな、誰が何と言おうと、お前は〝極悪令嬢〟なんかじゃない。俺がそう思ってるってのは、わかっていてくれ。婚約者と妹の件は、下手なことは言えないが……。なんにせよ、どっちのことも、妹が救いになってくれるだろうよ」
「イラリアが、どうして。あれもこれも、あの子のせいで悩んでいるようなものなのに」
「血の繋がりがあるかわからない、とか。母親たちと公爵のこととか。いろいろあっても、お前らは姉妹だったじゃねぇか。結婚だ何だとあっても、それは変わらない。何があっても、あいつならお前を諦めない。そういう感じがする。命ある限り、お前らなら家族でいられると」
「そういう……ものですかね」
「あくまでも俺の意見だがな。あと、ひとつめの悪夢のことも。お前が誰かを殺しちまったとしたら、あいつがすっ飛んできて魔法を使うだろうよ。姉さまを罪人にしないためにって。刺し傷なんて、かわいいもんだ。あいつならすぐ治せる」
「そうです……ね?」
頷きかけて、でも何かがおかしい、と思考がつっかえる。原因はすぐにわかった。
――刺し傷なんて、すぐ治せる? あの子なら? なら、どうして……。
「そういや――」
「ねえ、先生。もしも、仮に、万が一にも、ですよ。私があの子を殺したくなって、急所を一突きしたとします。あの子は死ぬと思いますか?」
「ははっ、物騒な例え話だな」
彼が例え話として聞いてくれるそれは、私が真実としては語れないそれは、紛れもなく私の過去。
一度目の人生で、私は彼女を刺し殺した。
それなのに、
「まあ、死なねえだろう。すぐに力を使えばな。あの子は並の聖女じゃない。そんくらいじゃ死にゃあせん。何百回も魔法を乱発したり、自分が瀕死のときに誰かに力を使ったり、自ら命を絶とうとしたり。そうでもしなけりゃな。そう、この血も言っている」
「でも――……ええ、そうですか。ところで、血が言っているって?」
「血を解析していたら、わかるってことだ。血中魔素の量や、性質なんかがな」
「解析、血中魔素……。えっ? え、まさか、これってイラリアの血だったんですか?」
試験管や鍋に入った赤、褐色、黒。慌てて視線を向ける。イラリアのものだとも、ヒトのものだとも……。
「ああ、そうだ。言ってなかったか? あの子の研究のためってのもあるけど、王立研究所からも頼まれて解析してるんだよ。詳細は極秘な」
「へえ……。聖女の件で、ですか?」
「そうそう。神学研究のやつらも、いろいろ調べてるみてえだ。聖女イラリア様って心酔しててな。そっちの視点から考えると、あいつが刺されただけで死ぬってことが起きるんなら、それは女神様に嫌われたときかもしれん。
神の愛し子の力は、神様の思し召しによって奪われもするし与えられもするからなぁ。どちらも滅多にないことだとは言うが。詳しいことは知らん。俺は医薬学の研究班で、その中でも血が専門分野っつーか……」
「先生は、第三魔毒血症の治療法を生み出した方ですものね」
「おう、知っていたか」
「ええ。一年生の時に聞いた自己紹介も覚えていますし、図書室でも調べましたから」
「さすが、
先生は、ゆっくりと――今はいない妹君への想いをすべて乗せるように、長い息を吐く。悲しい過去を教えてくれる。
「あいつを治すために、学生時代から必死だった。医学書や薬学書だけじゃなく、ああいう本も読んだのは、奇跡が欲しかったからだ。何が何でも救われたかったからだ。未来に行って治療法を知るとか。過去の第二魔毒血症の治療法を生み出した学者を連れてきて、今の魔毒血症の治療法も生み出させるとか。妹が軽症だった時まで戻って、どうにかできねえかとか。もうあいつと会えなくなってからは、死者の復活の本も読みはじめて。
魔毒関係の病っつーことで、王族や上級貴族も患者だったろう? 大学院を卒業した後、第二妃様を治すために王立研究所に引き抜かれて、治療法を確立したけどよ。結局、王宮に生える超希少な薬草がなきゃ駄目なんだ。あの治療法。あれがなきゃ根治できねえんだ。
俺の家の地位や財力じゃ、あの薬草は手に入らねえ。上のやつらしか治せねえ。他の治療法も見つかってねえから。どうやったって妹は助けられなかった。ああ、でも、今でも何かあるんじゃねえかってまだ思う。まだ夢見る。〝真の不可能〟を求めてんだよ。俺も――」
先生は、私と真反対だった。義妹を殺した私と違って、心から妹君を愛し、彼女を救おうとした、素敵なお兄さんだった。
彼に、死に戻りのことは、相談できない。絶対に相談しない。けれども話を切り出して、得られるものはあった。学びはあった。
ひょっとすると、今の私が抱いているような、この想いを。人は敬愛と呼ぶのかもしれない。
「オフィーリア。お前らは、会える間に。ふたりとも生きている間に、仲良くしておけよ」
「…………はい」
彼の言葉は、重く、深く、胸に刺さった――。
夜遅くなってくると、先生は「お前はもう寝とけ」と私を準備室に行かせた。朝になるまで、彼は隣の部屋で実験を続けるつもりらしい。
私はジェームズ先生のお言葉に素直に甘え、いつかのように準備室のソファで寝ることにした。流星祭の日に放り投げてから放置されている巨大ウサギのぬいぐるみを枕にして、眠りにつく。
――私は……今度の私は。何があっても、絶対に、イラリアを――
比較的、穏やかに眠れていた――けれど、夜中にふと目が覚めてしまった。
そうっと扉に近づいて向こうを見てみると、先生はまだ実験中。真剣な顔だった。手伝いに行こうかとも思ったけれど、夜なんだから寝ていろと
おとなしくまた眠ればいいのだろう。でも目が冴えてしまって寝つけそうにない……。しばらくぼんやりしていると、はっと良いことを思いついた。わくわくする、素敵な、悪いこと。
音を立てないように気をつけて、窓を開ける。ここは二階だから、慎重におりれば怪我はしないだろう。体格が細身であったことに珍しく感謝して、私は窓から外へと抜け出す。
――ごめんなさい。先生。身勝手なことをします。
バレたら叱られるだろう。それでも好奇心がはたらいてしまった。夜の薔薇を、見てみたくなった。
いつか――母さまとも、見たことのある花だから。あの子のことを、思い出せる花だから。
この大切な夜の姿を、目に焼き付けたい。って。
あの薔薇の木は、月夜の中で凛とした花を咲かせていた。ペンペン草はいつも通りだ。
この花壇が、私は好きになっていた。薔薇とペンペン草が一緒に生えている、この場所が好きだった。
ただ、花を眺める。月明かりに照らされる、まばゆい花を見る。胸元にあるネックレスの硝子ドームを指先で撫でて、ちょっと笑う。
外は少しばかり寒いせいか、先程まで冴えていた目が、だんだんとぼやけてきた。
眠いな、と思っても、なんとなく薔薇の花から離れる気になれなくて、そのままそこに居続けた。
眠気に負けて閉じそうになる瞼をどうにか開けて、できるだけ長く花を見ようと努力した。
「――さま……姉さま……フィフィ姉さまっ!」
「ぅん……?」
義妹の声が聞こえた気がして、目を開ける。彼女は泣きそうな顔で私を見つめていた。
いつの間にやら寝てしまっていたらしい。なぜ、彼女がここにいるのだろう。
「もうっ! 姉さまの馬鹿! 凍死したらどうするの?!」
「今は秋だから、凍死はしないわよ」
「こんなに体冷えちゃって……また熱出たらどうするんです?」
「そうね、ごめんなさい」
私は最近、実はあまり調子が良くない。
幼い頃のように毎日何種類もの薬を飲ませられるほどの状態ではないものの、熱を出して一日、二日寝込んだり、頭痛や目眩がしたり、突然倒れてしまったり。そういうことがある。調子を崩しはじめたのは、夏の終わり頃からだったかしら……。
義妹が私の体を抱きしめて、背中をさすって、指先に吐息をかける。どうやら温めようとしてくれているらしい。お優しいこと。
私は、彼女のなすがままに触れさせた。夜の空気で冷えた体が、彼女の熱で温められていく。
「……貴女は、綺麗な色をしているわね」
「へっ?」
「私と違って、貴女は綺麗」
私は義妹と目を合わす。月下美人という名の花があるが、彼女こそが文字通りの月下美人だと思った。
月に照らされて輝くローズゴールドの髪はまばゆく、空色の瞳は夜の色と対をなすように明るく澄んでいる。彼女は、とても綺麗だ。
「だから、嫌いよ」
「私は、ずっと姉さまのことが大好きですよ」
「殿下と愛し合っているのに、いったい何を言うのかしらね。聞いて呆れるわ」
「でも、本当に、姉さまのこと愛してます」
空色の瞳から涙がこぼれる。なぜ、こんなふうに泣きながら言うのだろう。
私は貴女に一番に愛される人間ではないはずなのに。
どうしたって、貴女の一番はあの男のはずなのに。
「私の色は、華がない色でしょう」
「私は姉さまの髪も瞳も好きですけど」
「私の母さまも、おばあさまも、同じ色をしていたの。ねぇ、イラリア。私のおばあさまが、なぜ先王陛下に見初められたか、知っている?」
「いいえ、知りません」
眠りにつく前に、先生の過去の話を聞いたからだろうか。私にしては珍しく、昔話をする気になった。
遠い昔、二度目の人生が始まるよりもっと前、一度目の人生の幼き日に母から聞いた話を。
眠たくって、このぬくもりが心地よくって、うまく話せる気はしないけれど。
「あのね、おばあさまは、貴女の母と同じように娼婦だったのを見初められて、後宮入りしたのだけれどね。先王陛下は、実は、お目がよくお見えにならなかったの。生まれつき、ものの色がおわかりにならなかったらしいわ」
「そうなんですか」
「ええ。おばあさまは、華やかな見目ではないことで、後宮の他の女たちからは蔑まれがちだったけれど……。先王陛下は、ぼんやりと見える、おばあさまの見た目もお好きだったけど。特に人柄を愛していらっしゃったから、ふたりはずっと仲睦まじくいられたらしいわ。この話はね、幼い頃、貴女と出会う前に、母から聞いたことなの」
「姉さまの、お母さま……ですか。私は、会ったことがないお方ですね」
義妹は、寂しそうにそう言った。私の母は、義妹がハイエレクタム家の一員になる前に亡くなっている。私と同じように、私の記憶の中にある母も、病弱な女だった。
「母さまは、凛としたひとだった。きょうだいたちに蔑ろにされても、嫁ぎ先で歓迎されなくても、体を病におかされても、いつも前向きで、よく笑うひとだった。
貴女とはまったく血の関係はないけれど、母さまの明るい性格は、どこか貴女に似ている気もするの」
「……そう、ですか」
「私は、母さまやおばあさまのようになりたかった。人柄で誰かに愛されるひとに……そして、もしも愛されなくても、強く生きていけるひとに」
一度目の私は、そんな理想と真反対の生き方をした。許されぬ罪を犯し、処刑された。
彼女を殺した時のことも、自分がバラバラにされて死んだ時のことも、未だによく覚えている。
「姉さまのことは、私が愛していますよ。何も変わらなくても、今の姉さまが私は好きです」
「あのね、イラリア」
「なんですか、フィフィ姉さま」
「いっそ、この目を潰してしまえれば……貴女が見えなければ、私は貴女をこんなにも嫌いにならなかったかもしれない。そう、今でも思うの。貴女が美しいことを知らずにいたら、私は貴女を愛せたかもしれない」
私がかつて義妹に強く嫉妬したのは、彼女があまりにも美しく善良だったからだ。
彼女と比較しては落ち込み、どうしたって勝てない差に絶望しそうになって、暴力的な手段で彼女を貶そうとした。
母や祖母が、人は見た目ではないと教えてくれたはずなのに、私は美に固執してしまう。
より美しくあることを求め、けれどいつでも私より美しい義妹がいるから、彼女に嫉妬する。
諦めたつもりでいても、完全に捨て去ることは難しい。私は、美しくて人に愛される義妹が羨ましいと、今でも思っているのだ。
「なら、私のことは見なくてもいいですよ。……目、瞑っててください」
「……ええ」
美しい彼女の姿から逃げ、私は目を瞑る。
暗闇の中、彼女の指先が頬に触れるのを、やけに敏感に感じた。
「お誕生日おめでとうございます。フィフィ姉さま」
頬に雫が伝う。ぽたりと雫が落ちる。
この雫がどちらの涙なのかは、きっと彼女にしかわからない。
唇にやわらかい熱が触れた。
秋の夜のように、長く深く。
甘美な熱に溶かされていく。
このまま夜が明けなければいいと、心から願った。
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