009. 林檎と蜂蜜とチョコレート
甘い香りと温かさを感じて、私は目を覚ます。
横たわる私の頬の下には、スカートに包まれた義妹の太ももがあった。
いつの間に入り込んでいたのか、彼女はソファに腰掛け、私に膝枕していたのだ。義妹がすごいのか、私が鈍感なのか……。
「おはようございます、姉さま。と言っても、もうそろそろ夜ですね」
「……あなた」
「私、姉さまに名前を呼ばれるのも好きですけど、『あなた』って言われるのも
「なら……私も、呼び方を『いもうと』にでも変えようかしら」
「なんですかそれ。そんなに私に嫌われたいんですか?」
「そう呼べば、貴女は私を嫌いになるの?」
「いえ、なりませんよ」
「……そう」
彼女は私の頭を撫で、さらに額や頬にまで手を伸ばす。愛おしげに触れてくる手を、私はそっと掴んで邪魔した。
「やめて、イラリア」
「はい、姉さま。もう起きれますか?」
「ええ」
彼女に支えられ、私はソファから起き上がる。ぼんやり座っていると、彼女がマグカップを持って隣にやってきた。クラッとくるような甘い匂いが漂う。
「なに、これ?」
「姉さまがさっき作ってた薬です。ジェームズ先生に飲ませたら苦かったみたいなので、姉さまのは私がアレンジしておきました。ホットチョコレートに混ぜたので、カフェオレっぽくて飲みやすくなってると思いますよ」
「……ありがとう」
マグカップを受け取り、私はゆっくりとそれを口に含む。たしかに苦味は残っていたけれど、温かくて甘かった。心がほっと癒やされるような感じがする。
以前、これと似ているけれど違う匂いを、どこかで嗅いだような気がして……。でも、はっきりとは思い出せなかった。
「美味しいですか?」
「ええ。果物のような香りもするわね」
「あっ、わかります? 林檎ジャムと蜂蜜が入ってるんです」
「あら、そうなのね」
「姉さま、知ってますか?」
「なにを?」
「林檎と蜂蜜は、惚れ薬にも使われる。って。あと、昔はチョコレートにも媚薬効果があると言われていたらしいですね」
義妹が妙に蠱惑的な声で囁き、私はマグカップをテーブルの上にことりと置く。
「私を、惚れさせたいの?」
「ええ、もちろん。まあ、私は自分の力だけで姉さまに愛される自信がありますけどね!」
こういうことを平気で言えるあたり、彼女はとても自信家なのだろう。私と違って、人に愛されることに慣れているのだろうな、とも思う。
「貴女は……バルトロメオ殿下のことが、好きなのだと、思っていたわ」
その呟きに、義妹が息を呑む音が聞こえた。ああ、やっぱり……。自分から切り出したくせに胸が痛む。
空色の瞳をまんまるにして、彼女は私を真っ直ぐに見つめている。なぜバレたのか、とでも言いたそうな顔に見えた。
「貴女は、殿下のことが好きなのでしょう」
「フィフィ姉さま、なぜそんなこと――」
「みんな見ていたわ。貴女が殿下の傷を魔法で癒やしたのを。今や誰もが、貴女は殿下を愛しているのだと思っているはず」
一度目の人生でのことを、私はよく覚えている。この日から、彼女と彼の間に漂う空気が明らかに変わったことを。
彼が彼女を見つめる時の熱っぽい視線も、彼女に触れる繊細な手つきも、彼が彼女にキスする姿も。
愛しあう恋人のように過ごしていたふたりを、私は知っている。
「貴女が殿下のことを好きなのだとしても、私は咎めないわ。正直に言ってごらんなさい」
「私……私、は――」
彼女が、ふっくらとした桃色の唇を震わせる。空色の瞳から、綺麗な雫がほろりと落ちた。
はらはらと白い花びらが散るように、彼女の美しい涙は流れていく。
こんなにも可憐に泣く人を、私は前の人生を含めても初めて見た。
「イラリア」
名を呼ぶと、彼女は私の胸元に抱きついた。
いつもより抵抗感なく受け止められたのは、きっと、この関係性の終わりを予感したから。
今なら彼女のことを、妹だと思える気がした。
妹としてなら、彼女がそばにいることを許せるような気がした。
「私っ、フィフィ姉さまのことが、大好きなんです」
「ええ、ありがとう」
「でも……でも、バルトロメオ、殿下と……結ばれ……っ、ないと、聖女の、力が……姉さまが……」
途切れ途切れの言葉だけれど、概ね内容はわかっている。
彼女はバルトロメオ殿下と結ばれることを望んでいて、けれど私が彼の婚約者だからと遠慮しているのだろう。
節々から感じた違和感には見ないふりをして、私は理解できた気になってしまう。
彼女はバルトロメオ殿下を想っているのだと、私は思い込んでいたから。
「ええ、わかっているわ」
「うぅっ、フィフィ姉さまぁ……っ」
思えば、彼女がこうして泣いて縋りついてきたのは、これが初めてだった。
私が彼女の頭を自ら撫でるのも、今までには、したことがなかった。
めそめそと泣く彼女を抱きしめて、涙が止まる時を待つ。
こんなに泣いていると、まるで赤ちゃんみたいだ。純真無垢な赤ん坊だと思えば、私も彼女を気兼ねなく可愛がれるかもしれない。
よしよしと背中を撫でてみる。温もりや感触が心地よかった。あの小さなイラリアが、こんなに大きくなって。なんて、変な感慨深さをおぼえてしまう。
どうせ離れることがわかっていたなら、幼い頃から、もっと可愛がってやればよかった……。いや、そんなことはできないか。近づきすぎたら私は、彼女を憎んでしまう。
彼女はしだいに泣き止んで、おとなしくなった。本当の赤ちゃんだったなら、泣き疲れて寝てしまうところだろうか。一緒に眠ったあの日が懐かしい。
「姉さま」
「なぁに」
「私、姉さまにお渡ししたいものがありました」
彼女はそう言って、先ほどまで私に掛けてくれていた上着のポケットをまさぐる。取り出されたのは、手のひらにすっぽり収まるくらいの小さな巾着袋だった。
「これを、姉さまに。入学式の日に私が捕まえた花びらを、ネックレスにしたものです」
しなやかな指が巾着袋のリボンを引っ張り、中から銀色のネックレスを取り出す。
細いチェーンの先には小さな
「私は、姉さまに捕まえてもらったのを持ってるんです。おそろいですよ」
彼女はにこりと笑って「姉さまに、つけてもいいですか?」と聞いてきた。
私はこくりと頷き、邪魔にならないよう、朽葉色の髪をまとめて前に寄せた。
彼女が私の顔の前にネックレスを通し、後ろで金具を留めようとする。ときどき彼女の指がうなじを掠めるのが、くすぐったくて、どこか心地良くもあった。
「はい、できました」
「ありがとう」
自分の胸元にある硝子の中を、花びらを見て、私は微笑む。
空を舞うところを捕まえると幸せになれるという、春の木に咲く薄紅色の花びら。
あの日の帰り道で花びらを捕まえるのに、私はなかなか苦戦した。彼女はそれを楽しそうに見て、ケラケラと笑っていた。
「貴女のも、見せてくれる?」
「はい、良いですよ」
彼女の胸に触れてしまわないよう、硝子だけに触れるように気をつけて、私は彼女の方へと手を伸ばす。こちらの花びらが、私が捕まえたものだ。
私たちは互いの幸せを願うように、自分の捕まえた花びらを相手に身に着けさせている。
「綺麗ね」
「姉さまにそう言われると、なんかむず痒いですね」
「どうしてよ」
「フィフィ姉さまなら、『この私の胸元を飾るのが、こんなつまらない硝子だなんて!』とか言いそうじゃないですか」
「あら、心外だわ。貴女がくれたものに、そんなこと言うはずないじゃない」
義妹を殺すほどに憎んでいたかつての私ならいざ知らず、今の私ならこんな言葉は言えないだろう。義妹は、えへへっと嬉しそうに笑った。
私は彼女のネックレスから手を離し、彼女の瞳を見つめる。
かつては羨ましくて大嫌いだった、晴れた日の空の色を見る。
「フィフィ姉さま」
「なぁに、イラリア」
「キスしたいです」
「駄目よ」
「え~~?」
いつまでも、私が彼女とキスするような関係であってはいけない。
バルトロメオ殿下と結ばれるはずの彼女の唇は、私のものであってはいけない。
いじける姿に見ないふりをして、私は彼女のおねだりを拒絶した。もどかしい、数秒の空白。
静寂を壊すように、義妹はマグカップを手に取った。先ほど私は飲み途中で置いたから、まだいくらか残っているだろう。
「これ、私も飲んでみても良いですか」
「ええ、どうぞ」
「ありがとうございます」
彼女はコクコクと、薬入りのホットチョコレートを飲んでいく。カップが大きく傾けられて、その口に、最後の一滴が含まれたであろう時。
イラリアは、私の唇を奪った。
「ふぇっ――ん?!」
ぬるくて甘くてほろ苦い液体が、口の中にゆっくりと流し込まれる。
ともすれば室内で溺れてしまいそうなキスだった。
彼女の唇が離れ、ホットチョコレートを無事に飲み干すと、私は大きく息を吸う。
酸素が足りなくて、頭がクラクラふわふわとしていた。
「イラリアったら……なにするのよ?」
「あれは口移しです。キスじゃありません」
「もう、言い訳ばっかり」
頬が火照って、心臓がトクトクとうるさいのは。
惚れ薬にも使われる林檎と蜂蜜のせいなのか。
それとも昔は媚薬だったチョコレートのせいなのか。
彼女の手に頬を包まれ、ふたりの顔が再び近づいていく。もうホットチョコレートはないから、これは口移しではない。
駄目なのに、嫌なはずなのに、私は顔を逸らせなかった。
そのまま目を瞑り、彼女を受け入れる準備をする。
唇に彼女の吐息がかかって、もうすぐ触れてしまう。そんな時――。
準備室の扉が、ギィイと気味の悪い声で鳴いて、開かれた。
「姉、いい加減に起きねえと――って、おや」
ジェームズ先生は目を丸くし、次いで気まずそうに頬をぽりぽりと掻く。
先ほど実験室で義妹にキスされたところを見られた時よりも、なんだか悪いところを見られてしまった気がした。
「妹。『そろそろ門限まずいので起こしてきます』じゃなかったっけか?」
「……あっ」
義妹が、まずい、という顔をした。
私がうたた寝から目を覚ましてから、もうかなりの時間が経っているだろう。
もうすぐ夜になりそうな夕暮れ時は、とうに終わった。窓の向こうには、ブルーブラックのインクをこぼして小さなダイヤモンドを散りばめたような美しい闇夜の空がひろがっている。
これは門限を大幅に過ぎてしまっていることだろう。やらかした……。
「仕方ねえから、俺が送ってやるわ。どうせハイエレクタム公爵邸は、こっから大した距離はねえだろう。少しは俺が責任を取ってやるから、あとはお前らでどうにかしろな」
「わぁ、ジェームズ先生ったら優しいー」
「ありがとうございます。……先生」
私たちはジェームズ先生のお言葉に甘えて、屋敷まで馬車に乗せてもらった。普段はふたりで徒歩通学できている距離だ。本当に大した時間はかからなかった。
ジェームズ先生は父にネチネチと嫌味を言われ、私は先生が去った後に父と継母のふたりからネチネチ口撃を食らったけれど、いつも通り義妹が間に立ってどうにかしてくれた。
今度の義妹と私は一度目の人生とは違って、彼女が聖女の力を発現させてからも、姉妹仲が特に悪化することはなかった。
ただ、前の人生と同じようになったことも、ないわけではない。
同じようになった、というよりは、元に戻った、の方が適切かもしれないけれど。
あの日の夜から、義妹は私にキスしてこなくなった。〝おやすみのキス〟も〝おはようのキス〟もない。他のキスも、もちろんない。
キスしないで、と言ったのは私だ。
それなのに彼女がキスしに来なくなると、どこか物足りなさを感じていた。
彼女のキスを求めているのだろうかと自らを疑ったこともあったが、結局これは、ただ今までと習慣が変わったことによる喪失感だ。そういうふうに脳内処理しておいた。
癒やしの力の発現の件で登城した日、義妹は正式に〝聖女〟であると認められた。
彼女の力を発現させた〝愛〟の相手は、バルトロメオ王太子殿下である旨が、公式文書に記された。
国中の人々が――いや、大陸中の人々が義妹に注目した。
家には、彼女と関係を持とうという下心丸出しの文書が国内外から送られ、私はそれにお断りの連絡をする雑用を父にさせられた。
学院では、彼女に近づこうとする不埒な男と彼女に取り入ろうとする狡猾な女から彼女を守れとバルトロメオ殿下に命じられ、私は過去の人生で培ったあらゆる脅しの術を使って彼らから彼女を守る羽目になった。
そうして時は過ぎて、季節は夏になった。
一度目の人生で彼女を殺し、私が処刑された日まで――あと半年だ。
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