第10話 葡萄

 教会の古ぼけた鐘楼が泣きたくなるような重々しい音を立てて九時を告げた。

 この時代、平民で食事は2回が良いところ。朝、陽が差す前には起き出してひと仕事を終え、朝九時と夕方の五時の鐘で皆食事を摂り、日が暮れればそのまま眠る。 そんな日々を一年中繰り返してそして死んでいく。

 華々しさも優雅さもそれは貴族のもので、正に市井の生活は、抱えている仕事と切っても切り離せないものだった。


「全くいい気なもんだ」とジーノは思った。

 ジーノ・ロッセリーニ自身は、自分が九時の食事前に這う這うの体で起き出して、食事を摂ることをさほど不思議にも思っていなかったが、佐藤素一としての意識がそれを自嘲する。


 家族の居間に入ると、暖炉に少し火が焚かれていて暖かくなっている。

 それを背にしてアルフレッド・ロッセリーニ伯その人が座っていた。大柄な体をした五十歳前後の壮年の男。さすがに白いものが髭に交じっているが、肌つやもよく、張った顎が意志の強さを表していた。子供のように輝く緑色の瞳が印象的だった。


「おはようございます。父上」

 ジーノは父の前に膝をついて、祈りをささげる。父が黙って左手を差し出したので、軽く口づけをして忠節を誓う。


 儀式めいたやりとりだと思うがこれがこの時代の普通だ。

 商人の家だって強い家長主義で、父親が封建的な絶対的な力を持っている。ただアルフレッドは珍しくもそう細かな事の拘る性質ではなく、おおらかに子供を養育したし、養子たるジーノについても、実の子供とそう変わらない付き合い方をしている。


 それどころか街に出てふらふらと遊びまわるジーノに親近感を感じるのか、よく街の出来事を聞き出そうとし、できれば付いていき、暗がりの居酒屋で一杯やりたいものだと漏らす有様だった。


 実際そんな事をすれば、店も営業どころではないだろうからそうはしないが、本来はそんな気軽な暮らしを求めているのかもしれないとジーノは思う。

 都市国家フィレンツェとジェノヴァ。そしてロンバルディアのミラノ公国に挟まれている小都市を運営するのは、並大抵のことではないはずで、アルフレッドは、どちらにもつかずの対応を取って、この厳しい時代を生き抜こうとしていた。


「わが弟はどうやら昨晩も街で騒ぎを起こしていたと聞きます。父上、さすがに我が家の一員としては如何なものか」

 父アフルレッドの隣にいた、まだ年若々しい黒髪の男が言った。長兄アルベルトだった。ジーノはあまり目を合わさないように、胸元辺りを見ていた。

 

 とにかく背が高い。そしてあざ黒い肌が印象的だ。四肢が長く、そして肉付き良く筋肉が付いている。父アルフレッドの隣に立ちあからさまに父の後を継ぐのは私だと言いたげな顔をしていた。


「アルベルト。まぁいいではないか。ジーノはこの街が好きなのだ。私の代わりに街の隅々まで歩き、そしてその生活を私に伝えてくれる。市井について知るには最も良い私の目なのだ。大目に見よ」

 父アルフレッドは、野太い声で優しく言うが、実際は娼館や、居酒屋を周回しているだけの、生活で全く恥じ入るばかりだった。


 とにかく席について、フィンガーボールで指を洗う。

 良く焼けたパンがバスケットに入って回ってくるが、隣に腰を掛けたピッポが、ジーノにパンを回す前に、誰にも見えないように唾を吐きかける。ジーノは汚されたパンを器用に避けて一つ取った。


 皿に乗った食事はサーブされるので問題ないが、あの兄弟の持ってきたものは、まったく信用が出来ない。

 去年だったかジーノはピッポに季節の葡萄を房で受け取った。好物だったのでジーノは疑いなく口にしたが、途端に眩暈を起こして三、四日寝込んだまま動くことが出来なくなった。今なら確信するがいくつか毒が込められていたのだ。


 白ワインを銀の器で受けて軽く口を付ける。

 口当たりのいい味がして、腹が空いてきた。アルベルトとピッポの兄弟は、出てきた羊肉に口を付けている。ビスケットもあるので、なかなかに豪勢と言ってもいい。


「そういえば」とアルベルトが言った。

「狩りの季節になりますよ。父上。そろそろいかがですか?」

「確かにのう。ただ、近々フィレンツェまで行く所要がある。秋の狩りはお前に任せよう、アルベルト」

それを聞いた長兄は嬉しそうに「確かに承りました」と言った。

「ジーノにも少し手伝っていただきましょう」と続けて言う。

「いや、私は……」と口を開こうとしたら、アルフレッドが大きな手を広げて、それを差し止めた。

「いかんぞ、ジーノ。たまにはアルベルトを手伝ってやりなさい。狩りは……まぁ苦手というのも分かるが、嗜みというものだ。たまには野外で遊んで来なさい」


 ジーノは去年の狩りの季節のことを思い出す。

 すべての客が居なくなった夕方だった。あの兄弟は面白半分にジーノに矢を射かけて犬を連れて追い回した。「遊びだ」と言いながら追い回されたので、父に告げ口してやると言ったら、その時は必ず殺してやると言われたものだ。


「得手ではありませんが、勉強をしたいと思います」

 ジーノは小さく答えた。アルフレッドへの遠慮なのだろうか。それともそのアルフレッドと結婚した母の為なのだろうか。ジーノは、自分がなぜここまで我慢を重ねるのか、自分自身が少し分からない。


 アルベルトが口元を吊り上げるような顔をして笑ったのが見えたので、顔を伏せる。ジーノ・ロッセリーニだけであれば泣き出したかもしれない。ただ、佐藤素一が、それを許さなかった。

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