第7話 都市

 もう行ったかな? 

 死ぬ気で体から力を抜くのも限界だったので、うっすらと白目を剥きだしていた目の焦点を戻して目線だけで周りを伺うと、厄介ごとはごめんだと誰の姿も見えなかった。


 でも視線を感じる。たぶん物取りだ。このままじっとしていると危ない。

 ゆっくりと体を起こして、泥に塗れた顔を袖で拭った。医者が通りかかったのは、ラッキーだったと思いながら、脇から小さなリンゴを取り出した。


 ルイスさんに渡された本を図書館でざっくりと流し読みしたら、日本だったら誰もが知っているであろう奇術のタネが掲載されてた。腋に何か、例えばゴルフボール大の物を挟んで脈拍を止めるというものだ。これだったら大した準備もいらない。そこで死んだふりをすることにした。


 拾ったリンゴを腋に挟んで、目を剥いて死んだふりをした。暗がりだったこともよかった。あのゴロツキどもが、脈を図ることを知っているかどうか怪しかったが、その場合は多少殴られても死んだふりを続けるつもりだった。


「とはいえ、あの野郎」と殴られた顔を撫でる。強く殴られたらしく酷く傷んだ。

 体を起こすと遠いところで「ヒッ、起き上がった」という声が聞こえた。

 急いで立ち上がると立ち眩みがする。頭を振って、とにかくその場から足早に立ち去った。


 裏道を選びながら城郭まで行く。石畳は濡れて滑りやすいし、酷く冷え込んできて、今が初秋であると思い出した。マント持ってくれば良かったと思った。暗い道を進みながら、あの複雑な家族の中に帰るのかと思うと気が滅入って来る。


 中世の街頭はもちろん灯りが少ないので、現代に比べればほとんど暗がりと言ってもいい。今は収穫祭の前なので、灯りがともっている所が多いが、その油も食用で出た油を固めているので異臭がする。

 火の精霊を使ったランプもあるが、それは貴族の持ち物でジーノ自身も使ったことがない。父のアフルレッド・ロッセリーニの部屋でしか見たことがない。

 でもこれがこの中世世界の普通なのだ。


 もうここが佐藤素一が知っている中世とは別物だとわかっている。多くは共通しているが細かな部分が異なっている。


 例えば、この世界には精霊がいる。

 火や風と言った精霊が実在し、この世界の人々も普通に受け容れている。ただし、誰もが使役できるわけではなく、一部のそういった才能の持ち主だけだった。

 

 あと、キリスト教はこの世界にには代わりにエクセル教という宗教があり、それが世界を席巻している。中央アジアとヨーロッパの宗教戦争、つまり十字軍はあるが、救い主は無く、代わりに理性と理念を優先とする教義のエクセル教が中央アジアの聖地奪回を目指して、派兵を繰り返している。


 ここロッセリーニ伯の都市国家は、そんな十字軍の往来とは少し離れているため、あまりそういった戦乱とは縁のない都市国家だった。僭主であり、父ロッセリーニはバランス感覚の優れた外交で、聖都ローマとも不用意に深い関係にもならず、離れもせずという距離感を保ち、更に周辺諸侯とも友好的な関係を築いている。

 

 お陰でここロッセリーニ市はまずまずの平和を享受でき、結果ジェノバやフィレンツェ、ミラノと言った大都市とまでは行かないまでも、裕福な都市を運営出来ていた。


 濡れた石畳で足を滑らしそうになりながらジーノは小走りに走った。

 真っ黒な大きな石が積み重なった城壁が見えて、小さく震えた。危険から遠ざかろうとして、更に危険に足を踏み入れている気がした。

 年老いた守衛が守る小さな扉があった。

 ジーノは滑り込むようにして、その扉の陰に消えた。

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