第6話 泥棒
王様からもらった指輪を母親に預け、アルウは家族を飢え死にから守るため、農家や市場から毎日のように食物を盗んだ。パシェド一家の虐待で心も体も傷つけられ、不眠や幻覚や偏頭痛で苦しむムテムイアの介護のため、ヘヌトミラは一日中娘の傍にいてやらねばならなかったのだ。
市場や農家の人は子供だからと、アルウを最初は大目にみていたが、毎日盗みに来られると、ほっとくわけにもいかず、とうとう警察と連携してアルウを捕まえることにした。
ヘヌトミラもアルウが盗みをしていることに薄々気づいていたが、生きるために息子の盗みを止めることが出来ず苦しんでいた。
その日アルウはいつものように、
「かあさん、市場に行ってくるよ」
そう言って足早に出かけた。
大勢の人で賑わうテーベの市場に近づくと、アルウは少し離れたところから周囲の様子を観察した。いつもこうして、警察やそれらしい人間がいないか警戒しながら市場に乗り込んでいたのだ。
「よし。今なら警察はいない」
安全を確認したアルウは、いつもどおり親のお使いに来たふりをして、市場の中へ入っていった。
「ガキが来たぞ」
以前からアルウに目をつけていた果物屋のおやじが私服の警察に目配せすると、
「品物に手を出すまで泳がせるぞ」
そう言って少し距離を開けながらアルウを尾行した。
アルウは罠が仕掛けられているとは思いもせず、買い物に来たふりをしながら、パン屋に近づいた。
「ああ、いいにおい」
アルウはパンを盗むことにした。
パン屋にはでっぷり太った中年の女と男がいた。女は店の奥でパン生地をこね、男はパンを焼いたので、二人とも軒先に並べた沢山のパンに注意が向いていないように思えた。
「今だ」
アルウはそっと店の軒先に近づいて、店の人間をちらとみながらパンを一つ手に取り、その場から駆け出そうとした。
その瞬間、
「小僧!」
突然大きな声がした。
「放せ!」
アルウの右手が捻りあげられ、彼はなんなく警察に捕まってしまった。
「ちくしょう!」
必死に暴れたが大人の力にかなうはずもなく、アルウは警察署に連行された。
息子の帰りが遅いので心配したヘヌトミラは、ムテムイアを連れて市場に様子を見に行くと、
「あんたのお子さん、盗みを働いて警察に捕まったよ」
同じ市場で野菜売りをしていた女が教えてくれた。
「警察に……」
「あんたが万引きさせてたんだろ」
女は蔑むようにヘヌトミラを睨み去って行った。
「ああ、あたしは何てことを」
ヘヌトミラがさめざめ涙を流していると、虐待であまり口をきかなくなっていたムテムイアが、
「お兄ちゃんに会いたい、会いたい」
と騒ぎはじめた。
繊細なムテムイアは兄のアルウが家族のために無理をしていると気づいていたので、彼女は幼い心をひどく痛めていたのだ。
ヘヌトミラはムテムイアを抱きかかえたまま警察署に行って掛け合ったが我が子に会うことは許されなかった。そして翌日、急な裁判が行われた。ヘヌトミラは我が子の代わりに罰を受けると強く訴えた。ところが親族として呼び出されたパシェド夫婦は名誉を傷つけられたと激しく怒り、アルウに死刑を要求した。
判決は略式で下され、アルウは子供ということで死刑は免れたが、盗みを働いた右手を切断されることになった。本来なら百叩きの刑ぐらいで許されるところだが、パシェド夫婦の強い要望で重刑となったのだ。
パシェド夫婦は我が子パロイの将来のライバルとなりうるアルウを早いうちに潰しておくべきだと考えていた。だから右手の切断はアルウの職人としての将来を完全に潰す絶好のチャンスだと思った。
刑を執行するためアルウは広場に連れ出された。
「小僧、おとなしくしてろよ」
大がらの刑の執行人がアルウの腕を強く掴む。
「お願いです。どうか息子を赦して下さい!」
ヘヌトミラの抗議も虚しく警察の敷地内の円形広場で、今まさに我が子の右手が切り落とされようとしていた。
「その子に罪はありません。裁くならあたしを裁いて下さい」
斧を持つ刑の執行人がヘヌトミラを一瞥した。
「ならどうしてこうなる前にこの子を止めなかったんだ。確かにおまえにも罪がある。だがその罪でさえこの子が背負うのだ。その罪の重さを思い知るがいい」
「どんな裁きでも受けます。どうか、どうか、その子を赦して下さい」
ヘヌトミラは死にものぐるいで嘆願した。だがどんなにヘヌトミラが懇願しようとも判決は変えられることなく、刑は目の前で執行されようとしていた。
「小僧、恨むならおまえの親を恨め」
刑の執行人はアルウを地面に跪かせ、灰色の石で作られた長方形の台の上に彼の右腕を乗せると、動かないようにロープできつく縛り固定した。
「すぐに終わる」
そう言うと、ゆっくり大きな斧を振り上げた。
「ああ」
ヘヌトミラは顔面蒼白になり、ムテムイアの目と耳をふさぎ胸に抱きしめた。
「いくぞ!」
そう言うと男は思いっきり斧を握りしめた。
その時、監視台から、
「待て!」
大声でストップがかかった。
テーベの警察署長の声だった。
「罪は赦された」
「赦された……」
パシェド夫婦が怪訝そうな顔をして監視台を振り返った。
「レクミラ市長からの通達だ。賠償金が支払われた」
警察署長はアルウの腕のロープを刑の執行人に切らせ、彼を立たせた。
「命拾いしたな、神に感謝しとけ」
そう言ってアルウをヘヌトミラに引き渡した。
「お母さんのせいで、こんなに辛い思いをさせてご免なさい、ご免なさい」
ヘヌトミラは跪き我が子を強く抱きしめた。そして涙を流しながら謝ると、アルウも母の胸の中で激しく泣いた。
「赦して欲しいのはわたしのほうだ」
抱き合って泣く親子の後ろから声がした。
「お祖父様」
行方がわからなくなっていたアメンナクテだった。
「市長は古い友人なのだ」
「ではお祖父様が市長に」
「そうだ。息子ハレムイアが戦死した知らせは、わしの耳にも入った。私は酷く後悔した。そして息子の忘れ形見がいると知って、ずっと探していたのだ。せめてもの罪滅ぼしにその子の成長を見届けたいと」
「お祖父様」
こうしてアルウは危機を祖父アメンナクテに救われ、その日から母子三人と一匹の猫はアメンナクテの家に身を寄せることになった。
アメンナクテのもとに息子ハレムイアの忘れ形見であるアルウとムテムイアが来ると、アメンナクテは再び工具を握り二人の孫のために工房を再開した。父親の死後、アルウはしばらくのあいだ、貧しくて職人の勉強をすることができずかなり遅れていた。ところがアメンナクテが石像の造り方を教えてみると、アルウは瞬く間に原石から見事な石像を制作することが出来るようになった。
感受性の豊かさ、感性の鋭さ、手先の器用さは父ハレムイア譲りだった。
大喜びしたアメンナクテだったが、もう昔のように頑固に自分のやり方を押しつけることはしなかった。息子ハレムイアの独創性を理解しようともせず、息子を頭ごなしに否定し才能を潰してしまった愚かな過ちは繰り返すまいと誓ったのだ。
アメンナクテはエジプトの緻密な計画と設計にもとづいて制作される伝統芸術の技法をアルウに学ばせつつも、その中にアルウの独創性を織り込んでいくような制作手法を教えていくことにした。
アルウの才能を出来るだけ多く見つけ、多く引き出し、大切に育て伸ばす。小さな芽は大切に育み、大きな芽はさらに大きく伸ばす。やがてどの才能も見事な大輪の花を咲かすように。
再び王宮付属の職人学校に通い始めたアルウは、生まれ変わったように猛勉した。彼はエジプトの伝統的な美術の技法を完璧に習得し、ヒエログリフ、ヒエロティを書記並みに自由に読み書き出来るようになった。さらに数学、物理、化学、天文学はおろか政治、歴史、宗教に至るまでの幅広い学問を身につけた。
(ティア、元気にしているかな……あのアマルナの石像をいつか作ってみたいな)
ティアのことを思い出す度に胸がドキンとする。アルウはどんな時でも彼女のことを忘れたことはなかった。
一方、妹のムテムイアは、とても優しくて思いやりのある娘だったので、いつも母親の野菜売りや、祖父と兄の仕事の手伝いを一生懸命した。もちろんアメンナクテは時間が許す限り、ムテムイアの心が癒えるようにと緑のオアシスに連れ出したり、神殿のハープや笛の演奏会に連れ出したりした。そしてアルウと同じように、読み書き算術を教え、世の中を生き抜くために必要な知識と教養を身につけさせた。それは孫娘に知性と教養が高く、愛が大きい、思いやりの深い人間になってほしいという、アメンナクテの強い思いのあらわれだった。
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