第3話 運命の少女
アルウが十歳の時のある夏の午後。学校の授業が終わると、アルウはいつも遊びにいくナイルの辺に行って川魚を獲って遊んでいた。すると、そんな彼の姿を土手の上から面白そうに見つめる、丸顔に黒髪で大きな黒い瞳の可愛らしい少女がいた。衣装や身につけているアクセサリーからして裕福な家庭の子供なのはあきらかだった。
「そこでなにしてるの?」
「なにって、魚を獲ってるんだ」
「見せて」
「いまから獲るんだよ」
「なぁんだ」
「……」
「お魚を獲るの得意?」
「得意だよ」
「じゃ早く獲って見せてよ」
(なんだこのガキは……)
「そんな目でみないで。あたしにも手伝わせて」
少女は土手を用心深く降りて来て、スカートのまま、ジャバ、ジャバと川に入ってきた。
「君、名前は?」
「あら、失礼よ。名前を訊ねる時は男性から名乗るのがマナーでしょ」
(いちいちうるさい奴だなぁ)
アルウはおませな少女にだんだん腹が立ってきた。
「アルウだよ」
「ティアよ。よろしくね」
ティアがにっこり笑う。
アルウはティアの笑顔をみると、なぜかさっきまでの腹立たしさはなくなり、思わず笑顔になった。
「じゃこの網を持って」
アルウは魚がびっくりして逃げないように、ティアを水草が沢山生えているところから少し川下のところにそっと誘導した。
「僕が水草を足でどんどん蹴るから、魚が逃げ出したら網で捕まえるんだよ」
「わかったわ」
両手に掴んだ網をティアが静かに川に沈め、真剣な眼差しで構えると、
「いくよ」
アルウは水草が生い茂っているところを足でバシャバシャと踏んだり蹴ったりして魚をびっくりさせた。すると驚いた魚達はアルウの作戦通り、網を持って待ち構えているティアのところに物凄い勢いで逃げていった。
ティアはあまり沢山の魚が逃げてきたので「キャキャ」と叫び声を上げながら網を強く握りしめた。
「獲れたわ!」
その時ティアの歓声が上がった。
「やったね!」
アルウが急いで駆けつけると、ティアの網の中に、大人の両手に乗るぐらいの大きな魚が一匹掛かっていた。
「ティラピアだ」
アルウとティアは顔を見合って大喜びした。
「魚、ティラピアって言うのね」
「そうだよ。焼いたり、スープにしたりすると美味しいんだ」
「美味しそうね」
「持ってかえれよ」
「いいわ。あなたにあげる」
「そっか。じゃ僕がもらうよ」
「うん」
すっかり仲良しになった二人は、それからしばらく無我夢中で魚を獲りながら夕方まで過ごした。
「大漁だ」
アルウがニコニコしながら、沢山の魚で膨れ上がった網を持ち上げた。
「ほんとすごいわ」
ティアは上気して頬をピンクに染めた。
「魚はもういいや」
「楽しかったわ」
二人は泥で汚れたお互いのおでこや頬を指でさして笑った。
「あの一番高い椰子の木の木陰で休もう」
「うん」
アルウが魚を入れたパピルスの籠を右手にぶら下げ、川辺に向かって歩き出すと、ティアもスカートの裾を両手で膝頭まで捲り上げすぐに後を追った。
「足下に用心して。川底はでこぼこなんだ」
アルウは川底に転がる大きな石にティアがつまずきやしないかと気が気でなかった。
「大丈夫よ」
そう言いつつティアは濡れたスカートが脛やふくらはぎに絡みついて動きにくかった。
「つかまって」
見かねたアルウが左手を伸ばすと、
「ありがとう」
ティアは左手だけでスカートの裾を捲り上げ、右手で彼の手をとった。それから二人は川の水に足を取られることなく無事に土手に上がり、一緒に椰子の木めざしてスタスタと砂地を歩いた。
「スカートびしょ濡れだね」
気の毒そうにアルウが見つめた。
「すぐに乾くわ」
ティアは気にもとめずスカートの裾を両手で強く絞ると、水が塊となって滴り落ち、瞬く間に砂地に吸い込まれていった。
「いろんなお魚が沢山ね!」
ティアがにっこり笑う。
アルウも笑顔になる。
二人は椰子の木を背にして砂地に腰をおろした。
太陽が沈み行く。
目の前のナイルや対岸の砂漠がそれに伴いピンク、ゴールド、赤と様々に変化しながら染まった。
「きれいね」
「……」
アルウは無言で頷くと、ティアを横目でチラと見た。
細くて長い黒髪、透き通るほど白い肌、大きな瞳に長い睫、小さく整った鼻、ピンクに染まった頬。ティアは少女ながら大人のような美しさと気品に満ちあふれていた。
「じろじろ見ないで」
ティアは恥ずかしくて頬を赤く染めた。
アルウも頬を真っ赤にして慌てて目を逸らした。
照れながら二人が一緒にナイルに目を移すと、金色に煌めく雄大なナイルの流れの中で、鳥たちが空腹を満たすために魚の群れをめがけ狩りをしているのが見えた。
「半分持って帰れよ」
「いいの。それにしてもあなたの指、細くて綺麗。まるで女の子の手みたい」
ティアは嫌がるアルウにかまわず彼の右手をとり、自分の手と並べて指先を比べた。
「よせよ!」
「素敵なことだからいいじゃない」
「なんで素敵なんだよ」
「あなたの指は神様の指よ」
「神様の?」
「そう、神の指、神の手、だわ」
「……」
「あなたきっとすごい芸術家になるわ」
「芸術家」
「そうよ。職人じゃなく芸術家よ」
「……」
「お父さん職人さん?」
「兵隊だよ」
「そう……これから仕事を選ぶんだったら芸術家になりなさいよ」
「芸術家……」
「あなたは神様に愛されているわ」
「神様にだって!」
「芸術家になることそれがあなたの使命よ」
「勝手に決めつけないでほしいよ」
「あなたは普通の職人じゃ駄目! 芸術家よ」
「また芸術家か」
アルウはティアの親切な助言を有り難いと思ったが、他人から自分のことを決めつけられるのが嫌なたちだったので、彼女の言葉を素直に喜べなかった。
「じゃ、あたしこれで失礼するわ」
スカートの川に浸かって濡れたところはきれいに乾いていた。
ティアはすっと立ち上がり、両手で純白のスカートや透き通るカラシリスに付いた砂埃を手際よくはらう。
アルウも立ち上がり、リネンでつくられた白い腰布の砂をはらった。
「また遊びましょう」
ティアは微笑み走り去った。
「あの子、いったい……」
ティアを見送ったアルウは、真っ赤に染まるナイルを背にすると、魚を入れた籠を肩からぶら下げ急ぎ足で家に帰った。
その頃アルウの家では、
「おやじも老けただろうな」
ハレムイアはしみじみと頑固だったアメンナクテの姿を思い出しては苦笑いしていた。
「お元気にされていると思いますよ」
ヘヌトミラは夫の隣に腰掛けて彼の手をとった。
「そうだろうな。今頃パシェドが工房を仕切って王様や神官のオーダーに精力的に応えているだろう」
ハレムイアが妻の細くて柔らかな手を握り返すと、
「いいえ、あなたがいないので、お父様はさぞお困りでしょう」
ヘヌトミラは夫の目を見つめ、職人として復帰してほしいと心の中で祈った。彼女は夫の才能を認めていたので、このまま才能が埋もれてしまうのが残念でならなかった。しかしそれ以上に、戦争で夫がいつかは戦死してしまうのではないかと恐れた。
「次の兵役を最後にしようと思っているよ」
「次の兵役?」
「うん。実は昨日、召集がかかったんだ」
「え、いつからですか?」
「明後日だ」
「そんな急に……今度はどちらに?」
「ヌビア方面らしい」
ヘヌトミラは心配そうにハレムイアを見つめた。
「大きな戦争じゃないからすぐに帰れるさ」
ハレムイアが妻の手を両手で握りしめた。
「オシリスのご加護がありますように」
ヘヌトミラは祈り、夫の手をとり自分の頬に押しつけた。
「戦争から帰ったら父に会うつもりだ」
「無事を祈ってます」
その時玄関の戸が開く音がして、
「ただいま!」
アルウの元気な声が響いた。
「おかえり!」
「父さん、かあさん、これ見て!」
アルウは魚が沢山入ったパピルスの籠を片手で持ち上げた。
「凄いな!」
「沢山スープや干物が出来るわね」
「ティアに手伝ってもらったんだ」
「ティア?」
「きっと兄ちゃんのガールフレンドよ」
騒ぎを聞きつけたムテムイアが、最近保護したばかりの茶虎の子猫ダイアンを抱いて居間にやってきた。
「ちがうよ」
アルウは顔を真っ赤にして否定した。
「今日たまたまナイルの辺で知り合ったんだ」
「そんな隠さなくてもいいのに」
ムテムイアはしつこくからかった。
「こら!」
顔を真っ赤にしてアルウが怒る。
「にいちゃん顔が真っ赤よ」
ムテムイアがアルウをからかい逃げる。二人はテーブルの周りを追いかけっこした。
「ムテムイアは兄ちゃんと遊びたかったのよ」
母親はムテムイアの気持ちを察した。
「そう素直に言えばいいんだ」
アルウはムテムイアを追いかけるの止めた。
「つまんないの」
ムテムイアがほっぺたを膨らませむくれる。
「お兄ちゃんに遊んで欲しかったら素直にお願いするのよ」
母親はムテムイアよりもアルウの方を見ながら言った。こういう時の母の態度は、ムテムイアと遊んであげなさいという意味合いが込められているのだ。
「こんどはあたしも魚獲りに連れて行って」
ムテムイアが兄に素直に甘える。
「うん! 今度は連れて行ってやるよ」
アルウは快く承諾し妹の頭を優しく撫でた。
「お兄ちゃんありがとう」
ムテムイアは嬉しそうに飛びはね、アルウの手を両手で引っ張り、兄の周りをスキップしながら回った。
さっそくヘヌトミラは、アルウが持ち帰った沢山の魚を、種類や大きさで細かく分類した。それから、一番大きな魚は背開きにして天日干しに、中くらいの魚は晩ご飯の焼き魚と魚スープ用に、最後に残った小ぶりの魚は全て塩漬けにして保存食にした。
晩ご飯は思いがけないご馳走になったので、親子四人と猫一匹の家族は、久しぶりにお腹が満腹になった。特に日頃、虫やトカゲやネズミばかり食べている飼い猫ダイアンは嬉しそうに魚にかぶりつき喉を鳴らした。
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