オシリスに愛されし少年
あきちか
第1話 誕生
エジプトの首都テーベに春の砂嵐の季節がおとずれるころ、ハレムイアの妻、ヘヌトミラは初めての出産をむかえていた。
「神よ来たれ、神よ来たれ……」
ヘヌトミラの出産を手伝うために訪れた三人の助産婦は、ベッドで苦しそうに横たわる彼女のまえで激しく踊り、神に捧げる歌を歌いながら、お産の無事を祈った。
「神よ、神よ、悪霊から母と子を守り給え……」
ヘヌトミラが強い産気に襲われると、それまで踊っていた三人の助産婦たちは、急いでベッドに駆けつけ、彼女の両脇を抱きかかえた。
ヘヌトミラは助産婦たちに助け起こされ、ベッドを降りたところの土床に肩幅より幅広く敷かれた二枚の赤煉瓦、お産の神メスケネトの化身〝誕生の煉瓦〟に大股で跨がり、ゆっくりしゃがんだ。
「余は汝の授かり物を……」
三人の助産婦は儀式に従って再び踊り始め、子供が早く生まれヘヌトミラが苦しまないようにと、頭の上に巻いた長い黒髪をほどき、狂ったように髪を振り乱し歌い踊った。
パチン
へヌトミラの股からツーッとあたたかな水が床に流れ落ちた。
「破水したわ」
助産婦たちは踊るのをすぐにやめ、ヘヌトミラの傍に駆けつけた。
「もうすぐよ!」
二人の助産婦が素早くヘヌトミラの両脇に立ち、彼女の両腕を支える。残る一人は生まれ落ちる赤ん坊を受け止めるため、母親の正面に座り、待ち構えた。
「力んじゃダメ。短く呼吸して」
助産婦がヘヌトミラの呼吸を整えさせた。
「ハッハッハッハッ」
ヘヌトミラの顔は苦痛に歪み、両目をきつく閉じた。
「頑張って! 頭が出てきた。生まれるわ!」
助産婦が赤ん坊の頭を片手でささえながら、ゆっくり滑り落ちる子どもの体を母胎から引っぱり出した。
「おめでとうございます!」
助産婦は受け止めた赤ん坊から、手際よくナイフで臍の緒を切ると、途端に赤ん坊の元気な鳴き声が部屋中に響き渡った。
「……」
ぐったりしたヘヌトミラは二人の助産婦に抱きかかえられ、ベッドに寝かされた。
「とても元気な男の子ですよ」
助産婦が赤ん坊の汚れを柔らかな布で拭き取り、ヘヌトミラの真横にゆっくり寝かせた。
「ヘヌトミラ、頑張ったな」
ハレムイアは妻と我が子を目の前にし涙ぐんだ。
「はい……」
ヘヌトミラは慈しみ深い眼差しで我が子を見つめた。
「息子よ、私たちの元に来てくれてありがとう」
ハレムイアは嬉しさのあまり目を細めた。
狭い部屋の小さな窓枠には出産の神であるハトホル、タウェレト、ヘケトを奉る祭壇が設けられていた。父親となったハレムイアはその祭壇の前まで来て跪くと、目を瞑って頭を下げ、神々に感謝の祈りを捧げた。
「息子を無事授かりました。妻も子も元気にしています。本当に有り難うございました」
身繕いを済ませた三人の助産婦は、もう一度、母子が寝ているベッドの所まで来て祈りを捧げた。
「神々の愛が母と子を包み、祝福の光が永遠にこの家族に降り注ぎますように」
三人の助産婦が玄関に向かうと、ハレムイアは慌てて棚から小麦を入れた袋を取り、彼女らに手渡しながら「ありがとうございました」と一人一人に丁寧に労いの言葉を添えた。
「神々がいつもご家族の傍におられ、家族を助けて下さりますように」
助産婦たちは帰り際にもう一度家族の為に祈り、微笑みながら帰って行った。
ハレムイアが妻と赤ん坊の寝ている部屋に戻ると、妻がベッドの上に左膝を立てて腰掛け、左手を赤ん坊の頭に優しく添えながら乳をあたえていた。
「もう乳を……」
ハレムイアはとても驚き感激した。
「はい」
母と子の姿が、まるでホルスに乳を与えるイシスのように神聖に思える。
「まるで聖母と天の子のようだ」
「この子を見ているとじっとしていられないのです」
ヘヌトミラは微笑み、母の慈愛に満ちた眼差しで赤ん坊を見つめ乳を与えつづける。
「アルウだ。アルウにしよう。千年に一度、オシリス座の三つ星の頂点に輝くという幻の星、アルウー星にちなんで」
そう言ってハレムイアは我が子を見つめた。
「アルウ、オシリスに愛されし我が子よ」
ヘヌトミラは小さく呟いて、優しくアルウを抱きしめた。
「お父様にアルウのこと知らせないのですか?」
「父アメンナクテとは絶縁した」
「でもお父様にとってアルウは初孫。きっとお喜びになると思います」
「おまえは父と私を仲直りさせたいのだろう」
「あれから、もう五年以上経っているのですよ」
「おまえの優しい心遣いはとても有り難いのだが、父はあのとおりエジプト一の頑固者だ」
「そういうあなた様もお父様に負けないくらい頑固者だと思います」
「わかった。近いうちに父に知らせよう」
「あなた、ありがとう。この子はわたしたちの宝。きっと愛溢れる子に育つわ」
それを聞いたハレムイアは妻と息子がたまらなく愛しくなり、妻と息子の額に接吻した。
日が暮れるとハレムイアは窓から夜空を見上げた。するとオシリス座の三つ星のすぐ上に、金色に輝く大きな星、アルウー星が瞬いていた。
ハレムイアの父アメンナクテの一族は、先祖代々職人の家系で、テーベの職人長を務める名門の家柄である。アメンナクテは頑固者だが、エジプトの伝統芸術を忠実に継承する職人で、神殿の神々の石像やレリーフを数多く手がけてきたエジプトきっての名職人だ。
アメンナクテには長男のハレムイアと次男のパシェドという二人の跡取り息子がいたが、アルウの父親であるハレムイアとは芸術に対する考え方の違いでいつも対立ばかりしていた。ハレムイアは職人の家に生まれたどの子供がそうであるように、幼い頃から職人としての英才教育を受けて育てられた。ところが彼は感性が鋭く作風が革新的だったので、エジプト古来の型どおりの伝統的な制作手法を嫌い、感性の赴くままに神々や王様や王妃の像を制作した。反対にアメンナクテは、あくまでも伝統的な表現手法を守ろうとしたので、ハレムイアとの溝は深まるばかりだった。そしてある日、ハレムイアはイシス像の滑らかな体の曲線美について、アメンナクテと激しく対立し勘当された。
一方、次男のパシェドも職人として育てられたが、パシェドは兄のハレムイアとは対照的な性格だった。パシェドはとても冷徹で理屈っぽく論理的な思考を得意としたので、エジプトの伝統的手法にのっとって、型通り正確に制作することを得意とした。ところがパシェドは自分の能力を鼻にかけ、人を小馬鹿にするような言動が多く、おまけにギャンブルと女遊びが好きだったので、生真面目で頑固一徹なアメンナクテの癇に障ることが多く、事あるごとに対立していた。
ある日、パシェドはアメンナクテの工房から職人の大多数を引き連れて出て行き、独立して自分の工房をテーベに開業した。裏で職人長の座を狙う親族のパネブが大富豪の貴族ウセルケペシュをそそのかしパシェドを支援させ、アメンナクテを裏切らせたのだ。親子の内紛につけ込んだパネブの陰謀だとも気づかず、アメンナクテはこの裏切り行為に激怒してパシェドとも親子の縁を切ってしまった。
二人の跡取りの息子を勘当し、妻にも先立たれて孤独になったアメンナクテに、さらに追い打ちをかけるように不幸が襲った。テーベ職人長の座を狙っていた親族のパネブが、神官や弟子を使ってアメンナクテの作品に仕掛けをさせ、神殿に納品される神々の像が崩壊するようにしていたのだ。アメンナクテが制作した神々の像が神殿に納品されると、翌日、大神官をはじめとする神職達の目の前で神々の像は次々と崩壊。アメンナクテは責任を取らされて職人長を首にされた。パネブの陰謀はまんまと成功し職人長の座をアメンナクテから奪ったのだ。そうとは知らずアメンナクテは、失意のままテーベ郊外の人里離れた村に移り住み、ほとんど人と接しなくなった。以来、アメンナクテは、古びた小さな家で酒を飲むだけの荒れた生活をはじめ、そんな彼を町の人達は変人扱いするようになった。
ハレムイアは実家でそんなことが起きていようとは思いもせず、いずれアメンナクテにアルウの誕生を知らせ、仲直りしようと思っていた。ところがセティ一世が積極的に近隣諸国に遠征し頻繁に戦争を繰り返していたので、仕事が無く志願してエジプトの軍隊に入ったハレムイアは、国王の兵として幾度となく戦地にかり出され、なかなか父アメンナクテに会うことが出来ないでいた。
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