少年編4 -忘却の女王
こずえから雪の塊が滑り落ちる音が響き、森の中の小川が、大きな音を立て、森の奥からの雪溶けの水を勢い良く押し流していた。
日の当たる場所に早春の花が芽を出し、昼間の空気は、息を白くさせはするものの、身を切るほどの残酷な冷たさを失っていた。
ヴィンドが子を産んだのは、他の馬たちからひと月以上も早く、まだ、寒さの残る季節だった。
それは、ほとんど人の手のかからない安産で、グウィディオンをほっとさせた。だが、生まれた仔馬を一目見たとき、村の誰もが驚いた。
全身が輝くような金の毛を持った、見事な仔馬だった。月の光を全身に浴びたように光り輝く雄の仔馬で、瞳は黒かったが、角度によって青くも見えた。
生まれたばかりの仔馬は、何度かよろめきながらも、生まれてすぐに確りと立った。ヴィンドは満足そうに我が子の首筋をなめ、誇るように主人の顔を見た。
「そうか。そういうことか」
グウィディオンは笑った。月の光は、獣の母親にも雫をたらすのだ。月の雫から生まれた仔馬は、きょうだいであるスェウと運命を供にするだろう。
「この馬には何と名づけるかね。」
出産を手伝った農夫に聞かれ、男は、即座に答えた。
「母には
漆黒の母馬に、輝くような毛並みの仔馬が寄り添う様は、とても美しく、また、めずらしかった。この奇跡を、小さな村の人々は、大いに舌の上で楽しんだのだった。
だが、エイディルは沈んでいた。仔馬が生まれたということは、スェウの出立も、そう遠くはないことだからである。
グウィディオンは、荷物の整理を始めていた。雪が溶け、冬が開けて最初の人々の行き来が始まれば、この村で起こった一冬の間の出来事は、すぐに風にのって広まるだろう。
噂とは、そういうものだと良く知っていた。
ここはイオナから近すぎた。ブランウェンの怒りが届かぬとも限らない。
そうなる前に、村を出なければならなかった。
男は、村長のもとを訪れ、一冬の宿に感謝し、立派な靴を幾つか、宿代として託していった。村長は快くうなづき、ふてくされたような孫を脇に抱き寄せながら、スェウと、別れの挨拶をさせたのだった。
春の最初の突風が吹く頃、彼らは、森を抜けて、目覚めたばかりの草原へと旅立って行った。
生まれたばかりの仔馬は、まだそれほど速く走れず、荷物を載せることも出来なかったが、すぐに他の仔馬たちより大きくなるだろうと思われた。
「リドランへ行こうと思う」
草原で過ごした最初の晩、グウィディオンは言った。
「父さんの生まれたところ?」
「そうだ。リドランに反乱の兆しがあるというのは、やはり、聞き逃してはおれん。あそこは、かつて俺がルヴァインへ旅立った場所、弟に任せて来た領地だ。二度と戻るつもりは無かったが、弟の子らには、会わねばならん」
グウィディオンは、冷たく澄んだ空を見上げた。それから、立ち上がって、スェウを傍らに呼び寄せた。
崖の下に、きらきらと輝く水が流れていた。
「スェウ、よく見ておくがいい」
彼は、流れを指差して、言った。
「ティレ河というのは、この、銀に泡立つ流れのことだ。イオナの国の真ん中を貫き、リドランを経て海へと至る。あらゆる山々は、この河の父であり、あらゆる森は、この河の母であるという。どの領地にも、この河から分かれた水が流れる」
スェウは、すぐに、その意味を理解した。
運命付けられた死の条件である河の水は、この国の、何処にもありふれたものなのだと。
――死の運命を免れることは、容易なことではないのだと。
冬の濃い霧が晴れ、春は、静かに、だが浮き立つような足取りで、国中を歩き回った。
野には瞬く間に緑が萌え、春が素足を下ろした場所には、黄色い、小さな花が咲き誇った。生まれたばかりの仔馬は鼻をひくつかせ、物珍しそうに、澄んだ青い空と、柔らかな地面とを眺めた。
金の仔馬、ヌウィブレは、不思議と人を恐れなかった。特にスェウにはすぐに懐いてしまい、どこに行くにも、必ずついていくようになった。まだ人を乗せて走ることは出来なかったが、母馬とともに旅をすることには、抵抗が無いようだった。
仔馬の金の鬣は、絹糸のように美しく輝いていた。
深い青い瞳は、色の濃さから黒く見え、時おり、話しかけるようにじっと人の目を見つめていた。
ヌウィブレは、生まれてすぐにスェウの馬となった。
普通の仔馬たちの何倍もの早さで成長し、多くの仔馬たちの生まれてくる季節には、既に、スェウを背に乗せることも、出来るようになっていた。
西の地を目指す旅の途中のこと、――それは、暖かな風が吹く、月の綺麗な夜だった。
グウィディオンは、町外れにスェウを待たせて、町に出かけて行った。一晩帰らぬかもしれないという用事で、スェウは、二頭の馬とともに、森の木陰で夜を過ごしていた。
以前は、どんなことがあっても必ず町に連れていったものだが、今は、グウィディオンだけで為さねばならぬ秘密の用事があるらしかった。
ことによっては、剣に関わることなのかもしれなかった。スェウは、まだ一度も、グウィディオンが、あの重々しい剣を抜いて振るうところを見たことが無い。それどころか戦う人々を見たことも無かったのだった。
武器というものが、何をするものなのかを、知らなかった。
それが人の命を奪うものであるという実感を持たなかったのだ。
夜半過ぎた頃だったろうか。いつしか、うとうととしかかっていたスェウの袖を引いたのは、金色の仔馬だった。
ヌウィブレは、深い色の瞳でスェウの顔を覗き込み、軽く鼻を鳴らし、森の奥を振り返った。そこに何かが感じられた。
スェウは、立ったまま眠っているヴィンドの鼻面をそっと撫で、耳元に出かけてくることを囁き、仔馬を連れて歩き出した。
闇は薄く、森はかすかに輝いて見えた。どこからともなく良い香りがして、くすくすと笑いあう少女たちの声を聞いた気がした。
スェウは、何か、自分のよく知る光を見たような気がした。
顔に金の縁取りで飾った薄いヴェールを下ろし、青白く輝く大きな馬に乗った貴婦人が、そこにいた。
森の奥は、盛り上がった小高い丘となっており、彼女は、その周りをゆっくりと回りながら、金の杖を空に向かって振るっていた。
「さあ。おいで。おいで。わたしの子供たち」
馬上にある貴婦人が鈴の鳴るような声で歌うと、杖の先に、小さな輝きが生まれ、それが小さな子供になった。
馬の周りについて周る絹のドレスを来た少女たちは、虚空に両手を差し伸べる。赤ん坊は次々とその手の中に落ちてきて、彼女たちが胸に下げた籠の中に収められた。
スェウは、驚いて、その杖の動きを眺めた。どう見ても宙にくるくると円を描いているようにしか見えないのに、そこから赤ん坊が落ちてくるとは、どういうことだろう。そして、落ちてくる子供たちの、なんと小さいことか。みな、ようやっと人の形を成したばかりのように見えた。
しゃん、しゃんと、青白い馬の足にくくりつけられた鈴が鳴る。
「さあ。おいで。月の国へ行く子供たちよ。わたしの子供たちよ」
たまらず、スェウは一歩、進み出て、口を開いた。
「あなたは、どなたですか?」
ぴたりと馬が歩みを止めた。少女たちは慌ててくるりと身を翻し、花びらを残して、宙に掻き消えた。
振り返った貴婦人は、片手で、ゆっくりと頭飾りのついた覆いの一方を上げた。白い美しい
「どこかで会った気がするのです――ここで、何をしているのですか?」
「わたしは、黄金色に輝く三つの国の女王、リアンノン。スェウ、お前こそ、ここで何をしているのです?」
スェウは、その女性が、かつて自分の前に現れた運命を告げる老婆の主であることを知った。そして、自分の来た元の国の女王であることに気がついた。
「僕は、僕の選んだつとめを果たしています」
「そうですか。それは、良いことです。わたしも、ここで自分のつとめを果たしているのです」
女神とも、妖精ともつかぬ美しい女王は、馬を降りずに、スェウに近づいた。ヌウィブレは怯えて後退り、青白く輝く馬を睨み付けた。
「さきほど、子供が宙から出てくるのが見えました。」
「ええ。そうです」
「あれは、どこから湧き出てくるのですか? どんな魔法でしょうか。」
リアンノンは、金の杖をスェウの頭に向けた。
「運命が定めた、生まれてくるべき子供たちを、わたしが貰うのです。親たちは、子供が授かったことを忘れる。その喜びも、いとわしさも、あるいは出産の恐れさえも。そして何事もなかったように、また明日を暮らしてゆくのです。」
スェウは驚いて、思わず問うた。
「何故、そんなことを?」
「この地上には希望が無いからです。喜びは失われ、光はみな消えようとしています。子供たちは決して幸せにはなれないでしょう。だから、わたしが貰うのです。わたしの国には苦しみも悲しみもなく、穢れなき子らは、永遠に幸せに暮らせるのですから。」
言葉は、神々が人に与えたものだった。知恵は、この世の武器ではなかった。
この世の武器は何も持たぬスェウが、ただ一つ、自由に扱えたもの、それは、言葉だった。
「子供は希望なのだと、僕は聞きました。忘却の貴婦人、あなたのしていることは、母たちから喜びを奪い、父たちから誇りを奪うことです。地上から希望を消し去っているのは、あなたなのです」
饒舌な返事に、馬はよろめき、貴婦人は苦しげに呟いた。優しさを装おうとした言葉は、割れていた。
「誰が、そのようなことを」
「僕の父です。かつて、あなたがその身に呪いをかけた人です。」
「あの男が。」
女王は、美しい唇を歪めた。
「お前は、最も称賛されるべき月の子でした。わたしの国の最高の誉れとなるはずだった」
「それは、まことでしょうか? あなたは今、地上の子供たちを奪っていると告白したばかりなのに」
「奪うのではありません。貰うのです、親たちが苦しみ、この世に産み落とすことを拒んだ子供を。つらいことばかりの溢れる、この地上に生まれることを拒んだ子供たちが、わたしの声に答えるのです。楽しく、暖かな永遠の園へいらっしゃいと呼びかけると、子供たちは、自分からわたしの子になるのです。」
スェウは、かぶりを振った。
「僕は望んだことはない――覚えていないとしても、望むはずがない。運命を知る女王、どうか仰ってください。運命は、僕の本当の母を誰に定めていたのですか?」
「わたくしは、知りません。」
リアンノンは、きっぱりと言って杖を一振りした。先ほどの少女たちが、花を振りまきながら現れて、女王の周りを取り囲んだ。もはや、去ろうとしているようだった。
スェウは慌てて、女王に向かって言葉を次いだ。
「待ってください! どうか、父にかけた呪いを解いてください。もう十分なはずでしょう?」
「いいえ、いいえ。まだよ。あらゆる運命を自在にするわたしにも、出来ないことはある。それは、運命によって人を殺すこと。出来ることなら、思い上がったあの男、わたくしを拒絶した、あの傲慢な男を殺してやりたかった。あるいは、あの男の寵愛を受けた女を殺してやりたかった。けれどそれは出来なかった――だから、死よりも辛い苦しみを与えてあげたのよ。その呪いは、わたくしにも解くことは出来ず、運命がどんな方向に向かうのかを指示することも出来ません。
ああ、あの男が絶望のまま死んでくれたら、どんなに良かったことか。絶望にとらわれた者ならば、生きたまま、わたくしの腕の中に落ちてくるはずなのに。」
「あなたは――」
スェウが口を開こうとしたとき、少女たちが白い絹のドレスをいっせいに翻し、羽根に変えて、大きく羽ばたかせた。強い風が吹き付けたので、スェウは仔馬と一緒に地面にしがみ付かなくてはならなかった。
そうして、鳥になった少女たちに取り囲まれて、空に駆け上がってゆく青白い馬を仰いだとき、彼はそこに、嫉妬にかられた女の、美しく、激しい怒りの横顔を見たのだった。
グウィディオンが戻ってきたのは、月の傾く頃、すなわち夜明けが近くなってからだった。
「リアンノンに会いました」
眠らずに待っていたスェウは、その訳を尋ねた男に、囁くように告げた。
「あの
「そうか。――」
グウィディオンは、月を仰ぎ見た。そして、スェウに、リアンノンに会ったという森の奥の丘に案内するよう言った。
夜の最後の暗がりが、盛り上がった小山の周りを埋めていた。丘の上には、まだ、鳥たちの飛び立った痕、白い燐光のような光が、ちらちらと彷徨っていた。
そこはまさに、若き日のグウィディオンが、妖精の女王に会った場所だった。そして、彼女を拒絶し、恐ろしい運命を背負わされた場所なのだった。
男は、燐光に手を伸ばし、掴み取り、手の中で消えていく羽根を眺めた。
「忘却は、優しく、美しい。身をゆだねれば、あらゆる苦難を免れることが出来る。…だが、人々が夢の国に消えようとするときにも、目覚めている人々は地上を支配するだろう。」
「リドランの人々ですか?」
「そうだ。暖かな西の海に住まう彼らは、深い霧に包まれて眠る冬を知らぬ、忘却の否定者だ。ギルヴァエスウィの三人の息子たち、ブレイドゥン、ヘドゥン、ヘッフドゥン。彼らに会わねばならぬ、イヴァルドとの約束を違えるけにはいかんのでな。」
閃く炎が、男の暗い瞳を過ぎった。
それは、運命に決して屈せぬ者の強い目。霧を引き裂き、波の馬に乗って略奪の旅をするという、海の向こうの国に住む人々にも似た眼差しだった。
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