幼年編8 -影の王城
丘を取り巻く建物はみな、荒れ放題だった。
かつて国が大いに栄え、王の冠に栄光の光が宿っていた頃、偉大なる王マクセン・ウレディクによって築かれた、かつては白い石組みに光り輝いていた城は、今では暗く沈みこみ、雨に濡れそぼりながら、眠っているようにも思えた。
グウィディオンの黒い馬、ヴィンドの蹄の音は、その眠りを妨げぬよう、静かに響く。――かさかさと、風のような音が建物の中から聞こえる。ただの風が、密やかに行き交う人々の足音なのか。
ぼろ布にくるまり、物陰にうずくまる宿無しがギョロリとした目を向けた。
無論、門番などではない。壁の崩れた廃墟の床の上で、細々と焚き火をしているのだ。いずこかから、家をなくして流れてきた者なのだろう。
誰も、グウィディオンに関心を抱かなかった。彼らは凍えそうになる身を暖めることと、空きっ腹をなぐさめることに精一杯で、視線はただ一瞬、ちらりと向けただけで、すぐに自分たちの手元に引き戻される。
この中庭の不法な住人に一人や二人加わったところで、何も変わりはしない。かつては輝く王都だったこの町も、今や、行き場の無い者たちの吹き溜まりとなっている。綻びだらけのマントを羽織ったグウィディオンの姿は、確かに、彼ら無宿者と大差無い。
こうして、彼は誰にも騒がれることなく、城の前庭を進んで行った。
馬が止まったのは、城壁の奥にある、固く閉ざされた門の前だった。
歴史ある門柱を飾る首の無い女神の像が寂しげに項垂れ、手入れする者のいなくなった茨の蔓は雑草とともに絡み合い、蕾を付けることも忘れている。
かつては壮麗だったであろう王城の正門前も、今や、無宿人たちに占拠されている。
スェウは、灰色に汚れた屋敷の壁を見つめた。
窓に、ちらちらと何かが走る。
「誰か…いる」
「ああ。そうだろうな。だが、気にすることはない」
グウィディオンは、馬から降りないまま、門を見上げた。そして、大音声で呼ばわった。
「イオナを受け継ぎし王、気高き姫ブランウェンの夫君、マースよ!」
ぎょっとして、門の前にたむろっていた四、五人の宿無したちが腰を浮かせた。
静まり返っていた門の向こうが、俄かに騒がしくなる。
「ここを開き、客人を受け入れよ! 貴殿に知らせをお持ちした。」
グウィディオンの、低く、太い声は空を震わせ、城の中まで響き渡る。相手を確かめるように小窓が開かれ、そして、重々しい音とともに、扉が内側から開いていく。
くすんだ色の、青い旗が揺れた。
「まあ待て。武器は向けるな」
兵士たちが槍を手にしているのを見て、グウィディオンは静かに手を振った。来訪者が腕の中に幼い子供を抱いているのを見て、彼らは慌てて敵意を隠す。
王国の威光が傾こうとも、彼らの守る古き騎士道はまだ健在のようだった。それに照らせば、年端もいかぬ子に武器を向けるなど、恥ずべきことに違いない。
「王と王妃、お二方にお伝え願いたい。ドーンの息子、グウィディオンが参ったと。」
兵士たちの間に、小さなざわめきが起こる。
その名に聞き覚えがあるからなのか、この城に正式な客人など来ることが珍しかったからなのかは、分からない。ただ、明らかに数人は知っていた――
この男が、何者であったのかを。
入り口の扉が開かれ、グウィディオンは、その中へと招き入れられた。
濡れそぼったマントからは大粒の雫がしたたり落ち、かつては真紅であった、くすんだ色の厚い絨毯の上に点々と黒い染みを落とす。
スェウは、高い天井とゆらめく無数の燭代に驚きもせず、静かに男の側に佇んでいた。この子の目は、暗がりの中に続く、廊下の先に向けられていた。明かりに照らされた白い顔は、全てが色あせた、この城の中で、はっとするほど美しかった。
「馬は厩に入れてくれたろうな」
グウィディオンは、マントを受け取るべきかどうか考えあぐねているらしい侍従をあしらいながら、ぞんざいに言った。
「荷は、どうなさいます」
「運んでくれる必要はない。マース公はいずこにおられる」
無言の視線が、廊下の奥を指していた。
「そうか。」
男は、ちらとスェウに目をやり、ついてくるのを確認して、ゆっくりと歩き出した。
それは、奇妙な光景だった。
髪も髭も伸び放題で、黒い眉の下に目を爛々と光らせた、まるで悪魔のような黒い布を引きずる男の傍らに、光ように美しく光り輝く金の髪をした、静かな青い目の子供が立っている。そして子供は、見れば人が怯えるだろう風体の男に、親しげに、そっと寄り添っているのだった。
重く、閉ざされた扉が開かれ、晩餐用の長机の向こうに、陰鬱な面持ちをした男が一人、料理の皿を前にして、椅子に腰を下ろしていた。
「よく戻った、グウィディオン。そなたが、まだ生きておったとは、驚きだ。」
マース公は、億劫そうに気の進まぬ口を開き、そして、ひとつ溜め息をついた。
机の上には、二人分の食事が用意され、給仕たちが控えていた。不思議なことに、それは、予定されていた来客を待っていた風景だった。
「何ゆえに私が参ることを?」
「塔の占い師が言ったのだ。望ましからざる報せを持って、死の色を纏った、呪われた男が帰還すると」
グウィディオンは、ちらと部屋の中を見回した。武器を持つ兵士の姿は何処にも無く、隠れているような気配も伺えなかった。いるのは、ただ形ばかりの歓迎の色を浮かべた、召使たちばかり。
「奇妙なことです。この町を追放されて、十と余年。帰還すれば命は亡いものと申しつけられておりましたが。」
「それだけの年月が流れれば、人の思いも変わるだろう。」
グウィディオンに座るよう、マース公は促した。一礼し、グウィディオンは長机の向かいに腰を下ろす。
「…占い師は、こうも言っておった」
男が傍らの椅子を引き寄せ、子供を座らせているのに目を留めて、マース公は言った。
「その男が、光を連れてくると。それは人の形をしているが、人ではないものだそうだ。――貴殿の息子か?」
「いかにも。名は、スェウと与えました。光とは、その名のことでしょう」
スェウは、青く澄んだ瞳で、じっとマース公を見、それから、手元に視線を落とした。いかにも子供らしい仕草だったが、その瞳には、計り知れない静けさがある。
「…して、食事を始める前に、そなたに伺っておこう。そなたが運んできた報せ、とは?」
グウィディオンは荷物の中から包みを取り出し、召使を側に呼んで、マース公のもとへ運ばせた。
包みは細長く、ずしりと重い。受け取ったマース公の表情が、かすかに歪んだ。
「ご子息のものと思われます。」
「…これを、どこで」
「ハスィルの谷の出口にて。ご存知の通り、街道からは外れた平野、私が通りかからねば、何ヶ月も発見されることは無かったでしょう」
マースの口から、深く、低い絶望の唸りが発せられた。
「息子は、殺されたのか」
「そのようです。」
「おお…。」
震える指先で剣を撫で、髭を歪めて、男は片手で顔を覆った。
「悪い予言は当たるものだ。あれが出て行くとき、母親のブランウェンは何度も十字を切ったものだ。安全を祈祷したのに叶わなんだ。祈りは通じなんだ。やはり、一人で行かせるべきではなかったのだ」
「何処へ行かせたのです」
「リドランだ」
グウィディオンが反応するのを見、マースは、唇の端を釣り上げた。
「…そうだ。そなたのもう一つの故郷だ、グウィディオンよ。リドランで今、何が起きつつあるか、知っておるか」
「ある程度は。風に乗る人のささやき声と、森の獣たちの感じ取る、不吉な足音が教えてくれます」
「それで十分だ。息子は斥候に行かせた。おそらく、リドランの者に殺されたのであろう」
グウィディオンは驚きもしなかった。無表情にじっと虚空を見据える。
その胸に去来するものが皆無であるはずは無かった。平静でいられるものではない。
暗い燭台の炎が揺れ、広間は沈黙に覆われた。
「我が弟、ギルヴァエスウィはどうしたのです?」
ややあって、彼は口を開いた。
「死んだ。もう、七年にもなる。知らなんだのか」
グウィディオンは沈黙を守った。無骨な男の顔は影になり、いつもよりも暗く沈んでいた。
「今はその息子たちが治めておる。リドランの主たちだ」
「では、やはり私は、ここでは忌まわれし者ですな。同じ腹より生まれた者の息子らが、貴殿の息子を殺し、この国を奪おうとしているのだから」
「そういうことになる。だが、料理に毒などは入れておらぬよ」
陰鬱な笑みを浮かべたまま、館の主は食事の始まりを告げた。途端に、時を留めていた給仕と召使たちが、決められた動作のままに、くるくると動き始める。杯にワインを注ぎ、暖かいスープを取り分ける。
スェウの前にも皿が置かれたが、子供は、きょとんとしてそれを見ているばかりだ。
「そういえば、スプーンの使い方は、まだ教えていなかったな」
今までは、野原の真ん中で、食器もなく、ほとんど手づかみで食事をしていたのだ。
グウィディオンは、テーブルの上から銀のスプーンを取り、子供の手に握らせる。一度、スープを掬って口に運ばせると、子供はすぐに要領を覚え、自分からスープを飲み始めた。
マース公は、不思議そうな顔をしていた。この男に、子供を慈しむ心があるとは、かつては思っても見なかった。
「貴殿が妻を娶るとは思わなんだ。いつ、所帯を持ったのだ。その子供の母親は、いずこにおる」
「さて。それは申し上げることが出来ませぬ。これには少々事情がございまして」
「事情と?」
「ここへ参ったのには、もう一つ、この子のこともあります」
男は、真っ直ぐにマース公を見た。
「追放されたこの身では、頼るべき親戚縁者もなし。いずれ息子が成人した時、譲ってやれるものが何もないことが残念です。この子を、生まれながらに宿を持たぬ放浪の身にするわけにもいかぬと思いまして」
「なるほど、最もなこと。」
「そこで、お願いがございます。この子の髪を整え、後見人となってはいただけぬか。」
マースは、口に運びかけた杯を止め、それを、そっと下に下ろした。
「…勝手な願いだ。常時であれば、姉の息子の子を祝福するのは縁者として不思議なことではないが、そなたの子とあってはな。一つ聞かせて欲しい。その子は、人と同じものか?」
沈黙があった。
グウィディオンは、スェウに目をやり、その子の頭に手を置きながら、静かに言った。
「呪われた身に、普通の息子は授かれませぬ。人と交じり暮らしてゆけるよう、私が教えてやらねばなりませぬ。されど、この子には、人の心がございます」
「人の形でありながら人ではないものに、人の心は宿るものか?」
「不可能ではございませぬ。人の形すら無い犬や馬の如くにも、親しく長年接すれば、人に似た心が宿ります。まして人として、人の形を持って生まれた者に、それが出来ぬはずはありませぬ」
マース公は、自分のことを話されていると知って、側で発せられる低い声にじっと耳を傾ける子供の表情を、用心深く見つめていた。
姿は、確かに、どんな人間の子よりも美しい。
だが、ここへ入ってから一言も発せず、初めて見るであろう広間に驚きもせず、真夜中の湖の表面がごとき瞳をした子供に、彼は違和感を覚えはじめていたのだった。
「その子を抱いてみてもよいか。人の子ならば、暖かいであろう」
グウィディオンはうなずき、子供を抱いて席を立った。手から手へ渡される時、スェウの表情にかすかな驚きが走った。見知らぬ腕に抱かれることには、慣れていない。
「そなた、名はなんという」
僅かな兆候も見逃すまいと、マースは子供の表情を食い入るように見つめながら問うた。
「…スェウ」
「そなた、年はいくつになる」
その問いは、成された事が無かった。しばし、考えるような間があった。
ややあって、子供は、俯いて小さな声で答えた。
「わかりません」
「そうか。」
マース公は表情を緩めた。自分が抱いたものが、悪魔の子でも、妖精に取り替えられた子でもないことに、確信が持てたからだった。
「暖かいな。そして重たい。わしの息子にも、このくらいの時があった。そして、この子は…そうだ、不思議なことだが、イヴァルド殿の幼き日に、瓜二つだ」
「やはり、そう思われますか」
「妃は喜ぶだろう。子供は好きだからな。――だが、あれは、まだ、そなたのことを許してはおらんよ」
グウィディオンの表情に、暗い影が落ちた。
「当然のことです。それに、此度の報せのことも、あるでしょう。ブランウェン殿には、私はお会いするのを控えます」
「そのほうが、よいであろうな」
城の主は、給仕と召使たちに合図を出した。召使たちがいそいそと、広間を出て行く。客人の泊まる部屋を用意するためだ。
椅子に腰を下ろしながら、マースはため息とともに、こう言った。
「妃にはわしから話しておこう。今夜は、この城で休むが良い」
夜は更け、雨はいつしか、細い絹糸のようになって、音も無く天から降り注ぐ。
蔦の葉をすべった水滴が闇の中に吸い込まれていく。地面も、壁も、庭に佇む彫像も、しっとりと濡れ、町は、沈黙の中で眠りに就こうとしていた。
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