午後4時から6時
日が傾き始めてドアにぶら下がった鈴が、キラキラと輝く。もうすぐ夕方、一日の暮れが近づきつつある。
それは、この店の終わりが迫っていることを知らせるようだった。
その鈴がなった。一人の老人が入ってくる。草臥れた黒いジャンパーに、裾の余った黒いズボン、店主と同じくらいの老人は椅子を引いた。力が足りないせいで椅子が音を立てる。店の椅子は古くて重い。それを静かに引くのは結構力がいる。
老人の一見粗雑に見える動作は、筋力の衰えが原因だったりする。老人になってから分かった。
「いらっしゃいませ。
「すいません。あ、えっと野菜スープお願いします」
鶏ガラのスープに、キャベツとにんじんとネギを加えただけのもの。店で一番安いのが、この野菜スープだ。殿乃召さんはいつもこれだ。よく来てくれるからと思い、一度野菜スープに茹でた鶏肉をサービスしたことがある。でもその時は
「私にこんな事しちゃだめです。このお店に迷惑をかけたくないんです。すいません」
と言われた。浅はかな事だと反省した。妻にも後から怒られた。でも自分と同じくらいの人が、いつも一人で、野菜スープだけを食べて帰っていく様には言いようのないものがあった。
今日も一人で黙々とスープだけでお腹を張らしている。300円の一杯の野菜スープ。
殿乃召さんの言葉には続きがある。
「すいません。私にこんな事しちゃダメです。このお店に迷惑をかけたくないです。私みたいなヤクザ者にこんな事しちゃダメです」
この町にも昔はヤクザと呼ばれる人達がいた。
ただの茹でた鶏肉だ。たったそれだけなのに暴力団追放の条例を気にする。もう殿乃召さんは違うのに。確かに若い頃はそうだった。地元の暴力団にいた。でもその組織も、今はもうない。
「すいません。ご馳走さまでした。今日で最後なんですよね。今までありがとうございました。私に普通に接してくれるこのこのお店だけでした。失礼します」
そうして店を出ていった。
昔、この町の暴力団の幹部が大きな事件を起こした。その罪を代わり被ったのが殿乃召さんだ。昔はそんな話沢山あった。ヤクザではそんな身代わりがよくあったらしい。身代わりには相応の報酬があるはずだった。
しかし彼にはなかった。言い渡された懲役は13年、その13年の間に暴力団は解体され、そして身代わりになった幹部も別の事件で捕まり、今も刑務所にいる。
ただ人生の13年間を失っただけ。
まともな職にはつけず、年金はほとんどなく、町の人からは排外される。それが彼の歩んだ人生の結果だ。
「大丈夫だろうか。殿乃召くん」
「私は、ヤクザなんて嫌いですよ。それにこの店の評判もありますから。でもそれも、もう気にする必要はありませんよ。だから見かけたら声を掛ければいいんじゃないですか」
「ああ」
口癖のように謝る殿乃召くん、同じ中学に行っていたのに、どこで間違えたんだろう。何かできることはなかったのか。傲慢かもしれないけど、そんな風に考えてしまう。もう私も彼も人生の末にあるのに。せめてすいませんなんて言わないでほしい。
この店がなくなったら彼はどこで野菜スープを食べればいいんだろうか。そんな風に思った。
草臥れた黒いジャンパーの後ろ姿は、忘れられそうにない。同じ人生の終わりにいるのに。
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