第68話 ふたりの妃

青国の後宮に新しい妃が二人入ってから三月が経過した。

季節にして春。

まだ冬の冷たい空気を感じられる日もあるが、概ね暖かい日が続く。

日の出ているうちは後宮内にある東屋で茶を嗜むのが、采夏の日課だった。

今日も今日とて、東家で茶を淹れる

茶杯の数は四つ。だが、薄黄色のお茶が入っているのはそのうちのニつのみ。

お茶が入っている茶杯は采夏と、本日一緒にお茶を飲むことに快く応じてくれた冬梅の分である。

「……相変わらず皇后様のお茶は美味しい」

 お茶を味わった冬梅が、しみじみとそう言った。

 今日も今日とて、相変わらずの男装姿である。青色の泡を華麗に着こなし、背筋を伸ばして椅子に座るその様は、どこからどう見ても麗しい青年だった。

 皇后と年若い美青年が二人でお茶を飲む姿は、皇帝以外の男性と皇后がいちゃついているようにも見えて、一目見た宦官や宮女達を一瞬ギョッとさせる。

「本日のお茶は、北州のお茶、碧螺春です。今年の新茶ですよ。……ご存知とは思いますが、昨年は生産地にて色々とありまして一時はどうなることかと思いましたが、今年の碧螺春の出来は悪くありません。例年に比べて、果物のような甘い香りが薄れているようにも感じられますがその分力強い青青しさがあります。柔らかな果物風味と程よい青さが調和した味……できは上々で申し分ない仕上がりです」

 お茶を飲みつつ恍惚とした表情で親を味わう采夏が、絶妙な早口で今年の碧螺春を評価していた。

 昨年、北州の族長一族の一人、呂賢于が金に目が眩んでよくも知りもしないで碧螺春の茶畑に介入したことで、お茶の品質が大いに落ちた。しかものその上、落ちた品質の茶葉を用いて密かに遊牧民と取引をし、武力を増強させていた。

 呂賢于の目的は、帝位の簒奪。秘密裏に進められていた計画だったが、お茶の品質が落ちたことをきっかけにして采夏が気付き、彼の悪事を暴くことに繋がった。

 しかも、皇后が手ずから後宮内でお茶を育てていたことが、青国の財政難を救った。

 まるで今の苦しい現状を見越していたかのような皇后の行いを目の当たりにし、それまで茶道楽の変わり者の皇后と思っていた宮中の者達の見方が変わった。

 もう彼女をただの茶道楽だと馬鹿にするものは、宮中にはいない。

「ああ、これが例の北州の碧螺春なのですか。……聞いた話によればひどい有様だったらしいですが、今はもう、これほどのお茶を生み出せる状態に戻っているのですね」

「ええ、碧螺春はお茶の中でも、とりわけ銘茶ですし、周辺の商人たちも碧螺春の復興に向けて尽力してくださいました。今の青国はお茶の交易で経済を支えていると言っても過言ではありませんので」

 国庫の乏しい青国が、茶畑の大規模な修繕に早急に手を打てたのは、周辺の商人達の力のおかげでもあった。

 碧螺春のお茶は銘茶中の銘茶。お茶を喫する金持ちは、極上の碧螺春を得るためには金に糸目をつけない。

 つまり、お茶は金になる。

 実際、件の問題を起こした呂賢于も、お茶が金になると知って愚かな野望に囚われた。

 お金のために荒らされた茶畑を救うのもまた、金のために動く商人達というのは皮肉なものだが、采夏は商人達に対して悪印象はない。

 商人達のおかげでお茶が市場に出回り、求める者にお茶が運ばれていく。感謝さえしている。

 まあ、金のために茶葉に混ぜ物をする商人は別だが。

 采夏が、元の状態に戻った碧螺春の産地のことについて思い返していると、冬梅の顔が曇った。

「羨ましいな……」

 ぽつりと冬梅の口からこぼれた言葉には、苦しさが垣間見えた。

 采夏は、彼女の物悲しげな顔を見て先日の災害についてを思いを馳せた。

 冬梅の出身地である東州は、季節外れの嵐に見舞われたのだ。

「……東州の安吉村のことをお考えでしょうか?」

 采夏は気遣わしげにそう声をかける。

 東州で起こった嵐は酷いものだった。特に雨量がすさまじく、川が氾濫し土砂災害も起こった。

 その災害のために、一つの村が潰れた。

「ああ……。ひどい水害だった。とくに安吉村の被害がひどい。早々に避難できたことで人の被害は少なかったが、村の家屋の多くは土砂に流された。……未だ村の復興のめどはたっていない。碧螺春のような主要な特産物でもあれば、良かったのだろうが……」

 安吉村に土石流が襲った。家屋の大半が大破し、それでも人々が早々に避難して生きているだけでも奇跡といえよう。

 だが、大雨が止み、しばらくたった今でも村は放置されたままだ。

 青国からも復興のために数人の役人を寄越したが、あまりにも広範囲な被害を前にして二の足を踏んでいる。しかも、この村に行く途中の道にも、土砂で潰された場所がある。人ひとりぐらいなら足場の悪いところを踏み越えてなんとか通れるが、土砂を取り除くのに必要な道具類を運び込むのは困難だった。

 国の役人達だけではどうしようもできない状態だ。

 土砂を取り除くのは骨が折れる作業。復興には人手はもちろん金もいる。小さな村のために人手や金を出せるものがいなかった。

「冬梅様。私も、陛下に改めて安吉村のこと申し上げておきますわ」

「感謝いたします、皇后様。ですが……やはり難しいでしょう。碧螺春のような特産品のない安吉村を復興するために力を割ける余裕は、今の青国には正直ない。伯父である東州長も、そのまま村を捨てるつもりでおられる」

 冬梅の疲れ切った声には諦めの色があった。思わず采夏も顔を曇らせる。

 そんなことはないと言いたかったが、それを口にすれば嘘になる。

 冬梅のいう通り、現状、小さい村の土砂をきれいに取り除いて元通りの生活をさせる余裕はまだ青国にはなかった。

 顔を曇らせた采夏を気遣ってか、冬梅は軽く笑ってみせた。

「申し訳ない、皇后様にそのようなお顔をさせるつもりではなかった。笑ってください。あなたのような愛らしい人には笑顔がよく似合う」

 そう言って、冬梅は采夏の頬に手を伸ばす。その手に誘導されて、采夏は顔を上げると、非常に近いところに冬梅の顔があった。完全に、側から見たら美男子が皇后を口説いているの図だった。

『きゃー、冬梅花妃様、なんて麗しいの〜!』

 どこからか女性の黄色い声援が聞こえてくる。宮女達だった。少し離れた低木からこちらの様子を隠れながら伺っている。どうやら冬梅を一目見たくてきたらしい。

 冬梅はその麗しい貴公子ぶりで、後宮の宮女達と一部の宦官の心を捉えていた。冬梅花妃愛好会なるものが発足しているという噂もある。

 本来、宮女が仕事をサボって妃達の茶宴を覗き見るなど許されることではないのだが、なんと言ってもここは皇后が采夏の後宮。ゆるかった。

「ちょ、ちょ、ちょ、冬梅花妃様、流石に皇后様への距離が、ち、近すぎます!」

 そう横から声をかけたのは、采夏の侍女、玉芳だ。何故か鼻を摘んでいる。

「近すぎたかな。普通のつもりなのだが」

 そう言って冬梅は采夏の頬から手を離し、肩をすくんで戯けてみせた。その様子もまた麗しい。

「まあ、玉芳、お鼻どうしたの? 鼻血? 怪我をしたの?」

 采夏がそう尋ねると、玉芳は首を横に振った。

「い、いえ、怪我はしてないのですけれど、冬梅花妃の色香にやられて……。異性を接する機会が少ない私達には、少々刺激が強すぎるのです」

 そう言って、鼻の下に流れた血を袖で拭った。興奮のあまり鼻血が出たらしい。

「ああ、分かりますわ。私も小さい頃、お母様にお茶を止められて、一日、一滴もお茶を飲ませてくれず、血反吐を吐く思いでした……」

 采夏が訳知り顔でそういうと玉芳ははげしく首を振った。

「いや、全然違いますが!? どうして今その話出てきたのでしょうね!?」

 とカッと目を見開いて鼻声で訴えた。

「はは、さすがは皇后様の侍女だ。可愛らしくも面白い」

「え、そんな、可愛いだなんて……。褒めすぎですわ」

 冬梅の言葉に、途端に玉芳は頬を染めて塩らしくなって、思わず采夏は目を見張る。

(まあ、あの玉芳が、あそこまで態度を変えるなんて。さすがは冬梅花妃だわ)

 采夏が心の中で賞賛していると、冬梅が采夏に視線を戻した。

「ふふ、皇后様の可愛らしさでつい話が逸れてしまいましたね。一つお伝えしておきたいのは、私は陛下や皇后様には感謝申し上げているということです。未だ水害の復興はされていませんが……村人達を、都に置いてくださったこと感謝しております」

 実は安吉村の者達は、現在都に移っていた。

 都の一角に簡易的な天幕を立てて住まわせて、食事も配給している。だがあまりよい環境ではないらしい。

 村人達からは早く村に戻りたいという声が届いているというのを采夏も聞いている。 

 采夏ですら聞き及んでいるのなら、おそらく冬梅も知っているのだろう。

「……安吉村の人々が安らかに暮らせるように、私も尽力しますわ」

 采夏が気遣わしげにそういうと、麗しい美青年風の冬梅が優しく目を細めて笑みを作る。

「皇后様はやはりお優しい方だ。さすがは陛下の御心をいとめただけはある」

「冬梅様は、ずいぶんと安吉村のことを気にかけている様子ですが、ご理由を伺っても?」

「私が幼少の頃に過ごしていた家と近いのだ。よく遊びに出掛けていた。それで思い入れがあってね……。ああそうだ。私の侍女の一人が、実は安吉村出身の娘なのだ。紹介したい」

 そう言って、冬梅は後ろに控えていた侍女を招き寄せた。

 するとおずおずとした様子で、頬にそばかすをつけた十四、五歳ほどの少女が前に出る。

「ご、ご挨拶申し上げます。皇后様。小鈴と申します」

 緊張で声が震えている。見た目の通り純朴そうな少女だ。

 少しでも緊張が和らいで欲しいと采夏は笑みを浮かべる、

「小鈴、大変でしたわね」

「い、いえ……」

 小鈴が緊張のあまり顔を俯かせると、冬梅が口を開いた。

「彼女は、身寄りがなくてね。私が世話をすることになり、侍女として召し上げたのだ。礼儀作法には疎いが、大目に見ていただけるとありがたい」

「私はかまいません。ああ、そうですわ。よろしければ、一緒にお茶はいかがですか? ちょうど茶杯が空いていますし。ね? 玉方も一緒に飲みましょう?」

 いいこと思いついた! とばかりに手を打って采夏は提案したが、誘われた玉芳は渋い顔をした。

「皇后様、侍女が妃様方の席に同席するなんて、それは……だめです」

「もう、玉方、良いではありませんか! 玉方が一緒にお茶を飲んでくれたらこの使われなかった茶杯が浮かばれますよ」

 と言って采夏は卓に並ぶまだ空の茶杯を二つ手で示した。しかし玉芳は当然渋い顔。

「茶杯に浮かぶも浮かばれないもありません。使わない茶杯は片付けておきますので」

「えー、でも……」

「皇后様、あの、わ、私もご遠慮いたします。流石に一緒の席につくなんて、恐れ多くて……」

 そうか細い声で訴えたのは、小鈴だ。

 采夏は思わず「そんな……」と言って悲しみに眉尻を下げる。

「そうですよ。どこの国に、侍女とお茶の席を同席させる皇后がいるのですか」

 呆れたように玉芳が言うと、采夏は唇を尖らせた。

「でも、二人だけの時は、玉方も一緒に飲んでくれ」

「あーあー! 皇后様! そういう話をしてはいけないとあれほど! 良いですか! これから他の妃様方が増えていくのです! 侍女とお茶を飲んでいたなんて知られたら、品性を疑われますからね!」

 玉芳の言葉に、采夏の目がカッと見開かれた。

「そんなことで品性を疑う方がいるのですか? いるのだとしたら、ちゃんと教えてさしあげないといけませんわ。お茶は誰と飲んでもいいのです。誰とお茶を飲んだからといって、誰の品性も損なわれないのですから」

「いや、なんかすごいいい話風に言っているけど、そう言うのじゃないから……はあもう……」

 玉芳は疲れ果てた顔で項垂れると、ははと軽やかな笑い声が響く。冬梅だ。

「確かに、誰とお茶を飲んだとしても品性は損なわれない。皇后様は、面白い方だ。直接お会いするまでに思い描いていた想像と全然違う」

 冬梅のその言葉に采夏は興味を抱いた。

「まあ、どのような印象を持たれていましたの?」

「それは……その、あまり気を悪くしないでほしいのだが、茶道楽という話を聞いていたので、もっと派手好きで我が儘な方なのかと。しかし実際は、道理をよく分かってらっしゃる方だし、宮中の者達も皇后様には一目置いているように思える。平民の者達が言うような、己の我欲のために湯水のように金を使い、恵まれない者達を見下すような愚かな皇后ではない」

 そう言って冬梅は穏やかに微笑んだ。

 平民の間では、『茶好き』というのはあまり良い印象を与えない。お茶は高級品。庶民ではなかなか手に入らない贅沢品だ。

 昔から、お茶に魅入られたものは金で身を滅ぼすとも言われるほどの金のかかる趣味なのである。

 質素倹約が尊ばれる現在の青国では、皇后が茶道楽だというのはあまり手を広げて歓迎できるものではなかった。

 皇后が茶道楽というだけで嫌な印象を受ける民がいる。

 だが、実際に采夏と話をして冬梅はその印象を払拭できたようだった。

 そんな冬梅の言葉が嬉しかった玉芳は、得意げに口を開いた。 

「皇后様は、お茶を尊び過ぎてその他の上下関係には疎いのですよ。お茶が頂点、それ以外はまずまず。だから、何かを見下すというようなことはありません」

 そう言い切った後、玉芳は渋い顔をした。

「……お茶に対する愛が強すぎなければ、本当はもっとまともな皇后になられるはずなのです……まともな……」

「やだわ、玉芳、褒めすぎよ。照れしまうわ」

 照れて顔を赤める采夏を玉芳冷めた眼差しで見た。

「いや、そこまで褒めていません」

 そんな采夏を玉芳のやりとりをしみじみと面白そうに眺めていた冬梅だったが、ふと思いついたように口を開いた。

「ところで、ずっと気になっていたのだが、なぜ茶杯が四つも?」

 そう言って、視線を卓の上にある空の二つの茶杯に向けた。

 今は采夏と冬梅で茶杯を一つずつ使っているので、もともと卓には四人分の茶杯が用意されていたことになる。

「ええ、こちらは、燕春月妃と、秋麗風妃のものと思って用意させたのです。ですが二人には振られてしまいまして……」

 采夏の言葉に意外そうに冬梅は片眉を上げた。

「高飛車な秋麗風妃がお誘いを断るのはなんとなくわかりますが、燕春月妃が来られないというのは珍しいですね」

「燕春月妃は、今書物をしたためているようなのです。なんでも恋愛小説なるものを書いているとか」

「ほう、燕春月妃にそのような趣味が?」

「ええ、もともと小説を読むことが好きな方だったのですが、先日、溢れる妄想が止まらない! とおっしゃって宮にこもりきりになりまして。何かに夢中になることは素晴らしいことです」

 ほのぼのと答える采夏に、少し目を丸くさせて驚いた冬梅だったが、すぐに笑みを浮かべた。

「うーん、私がいうのもなんだが、我が国の後宮は本当に……自由ですね」

「きっと陛下が寛容な方だからですね」

「うーん、陛下がというよりも皇后様が寛容……いや、似たもの同士が集まったというか……」

「そうですね! 似たもの同士! みなさん、お茶好きな方々ですものね」

「いや、はは。そういう話ではないですが、まあ、皇后様がお可愛らしいのでそういうことにしておきましょうか」

 そう言って、冬梅が爽やかに笑い声を立てた時だった。

「あら、きゃんきゃんきゃんきゃん主人に擦り寄る駄犬の媚びているような声が聞こえたと思ったら、冬梅花妃ではありませんか。皇后様のご機嫌取りですか? せいが出ますわねぇ」

 二人の侍女を引き連れて、しゃなりしゃなりとこちらに向かってまっすぐ歩いてくる秋麗がいた。

 冬梅が深いそうに眉根を寄せる。

「これはこれは、秋麗風妃。犬の媚びている声? そんな声はしないが。おかわいそうに耳が悪くていらっしゃるようだ。医官でも呼んできてやろうか?」

 そうして冬梅と秋麗の睨み合いが始まった。

 しかしこの殺伐とした空気を全く読めていない采夏が嬉しそうに手を打った。

「まあ、秋麗様、きてくださったのですね。嬉しい。お茶を飲みますか? 飲みますよね? ありがとうございます! どうしましょう、お湯が足りるかしら。玉芳、水を入れた壺を、いえ、樽ごと持ってきてくれる?」

「流石に樽はやめてください。あと多分そう言う雰囲気ではない」

 新たな茶飲み友達の登場にウキウキを隠せない、といった様子の采夏を、玉方が冷静に嗜める。

 そんな二人のやりとりを、秋麗はフンと鼻で笑った。

「まあ、皇后様、ごきげんよう。折角のお誘いですが、遠慮させていただきますわ。第一、毒味もつけずに、お茶なんて……繊細で先々のことを考えすぎてしまう私にはできそうにありませんわ。本当に、皇后様って御心が強くていらっしゃるわね。頭の中に花畑でも育てていらっしゃるのかと思うようなおおらかさで、羨ましいですわ」

「まあお花畑? 秋麗さま、お花が好きなのですか? でしたらちょうどよかったです。いま花のような華やかな香のするお茶、碧螺春を飲んでいたのですよ。一緒に楽しみましょうね」

「話が全然噛み合ってない」

 秋麗の嫌味に、お茶の紹介で返す采夏に玉芳は頭が痛くなってきた。

 嫌味が全く効いていない采夏に、秋麗の目元がピクピクと不快そうに痙攣した。

「まあ、皇后様って本当に前向きな方ですのねぇ。でも、私の分のお茶の用意は不要ですわ……皇后様が手ずからお茶を入れてくださるなんて、恐れ多くて飲めませんもの。……何が入っているかもわかりませんのに」

「まあ、秋麗様、お茶の茶葉についてはきちんと私がご説明差し上げますのでご安心くださいませ。碧螺春と言うのは……」

「皇后様って、はっきりと申し上げないとお言葉が通じない方なのかしら!」

 と、引き続き秋麗の嫌味をお茶の話で返す采夏の言葉を遮った。そして改めて口を開く。

「でしたらはっきりと申し上げますけれど、私が言いたいのは、毒味もなしに、毒が入っているかもしれない飲み物なんて飲めないということですのよ」

「それってつまり、私が、お茶に毒を入れると……?」

 目を見開き問い返す皇后に、秋麗は肯定の意味を込めた笑みを浮かべる。

「そのような侮辱を受けたのは初めてです」

 衝撃を隠せない、と言った表情で采夏は落ち込んだ。

「いや、それよりさっき言われた頭が花畑の方が侮辱感強かったと思うますけどね」

 たまらず玉芳が突っ込む。

 秋麗の物言いは、位が上である采夏に対して無礼であるが、しかし、言っていることは比較的まともだ。

 皇后自身がお茶を淹れ、毒味もなく、肯定も含めて誰もがそのお茶を飲む現状は普通とは言い難い。

 でも、侮辱だわと落ち込む采夏を見かねて玉方は秋麗に視線を向けた。

「秋麗風妃様、ご無礼を承知で申し上げますが、その点につきましてはご安心くださいませ。皇后様がお茶に毒を淹れることはありません。何があってもです」

 秋麗の視線が玉芳に注がれる。

 侍女の分際で話しかけるな、といった冷たい眼差しだ。

 そして、秋麗は皇后に視線を戻した。

「へえ、そうですの。……でしたら一杯お茶に付き合おうかしら。皇后様がそこまで仰るのにお断りするわけにもいきませんわね。よければ一杯用意してくださるかしら」

 その言葉に采夏はパッと笑顔を輝かせた。

「……!? ええ、是非。嬉しいです。少々お待ちくださいね。今淹れますから!」

 そう言うと采夏はいそいそとお茶の準備に取り掛かった。

 道具などは全てそろった状態だったので、まもなくして茶壺の中に碧螺春のお茶ができた。

「こちら碧螺春です。一煎目のスッキリした味わいも良いですが、より深みの出た二銭目も格別なのです」

 と言いながら、采夏が茶壺から茶杯にお茶を淹れようとしたところ……。

「まってください皇后様。茶杯に注ぐのは私にやらせてくださるかしら」

 ねっとりとした口調でそう言ったのは、秋麗だ。

 采夏は意外そうに目を見開き驚いてみせたがすぐに笑顔で頷いた。

「ええ、かまいません」

 そのまま茶壺を秋麗のもとに。

 秋麗は、茶杯を手に取って引き寄せ茶壺から茶杯にお茶を流しいれた。そのあと采夏にその茶杯を渡すのだろうと思われたところで、何故か秋麗は采夏らに見えないようい茶杯の周りを片手で覆う。そしてもう片方の手で薬包のようなものを袂から取り出し、その茶杯に近づける。

 明らかに何かを入れた、そうと分かる動作だった。

 そしてその何かを入れた茶杯を皇后の前に置いた。

「皇后様、はい、どうぞ」

 秋麗はにっこりと微笑んでそう言った。

 あまりのことに冬梅が眉根を寄せる。

「何を入れた?」

「あら? 何も入れていませんけど? ねえ皇后様。私が注いだお茶、飲んでくださいますわよね? 何も怖くはないのでしょう? 大丈夫ですわよ。私、お茶に毒なんて入れませんもの。私の言葉、信用してくださいますわよね? だって、皇后様は先ほど、そう言っていたではありませんか。人が淹れたお茶を飲むのが恐ろしくないのでしょう? まあ、皇后様も己の振る舞いを改めるというのでしたら、無理して飲まなくても」

 と勝ち誇った顔でとうとうと秋麗が語り出したところで、采夏は出された茶杯を口につけて傾けた。

「の、飲んだのですか!?」

 そう驚きの声をあげたのは、冬梅だ。思わず椅子から立ち上がる。

「ちょっと! 何をやっているのよ!?」

 お茶を勧めた当の本人までもが、驚愕に顔を引き攣らせた。

 こくりこくりと喉を動かし、お茶を全て飲み切った采夏が茶杯を置く。

「まあ、皆様、どうしたのですか? そんな驚いたような顔をして」

 不思議そうに二人をみやる采夏に、玉芳が呆れのため息を落とした。

「そりゃ、驚くわよ! 一体何したかわかっているの?」

 驚きのあまりすっかり侍女の振る舞いを忘れた玉芳が声を荒げた。

「え? 何って、お茶を飲んだだけですけど……?」

「いやいやいやいや、さっき見ていたでしょ! この女、茶杯に何か入れていたじゃない! それを普通に飲む馬鹿いる!?」

 侍女が風妃を『この女』、皇后を『この馬鹿』呼ばわりしていたが、采夏の振る舞いに驚きすぎて玉芳を咎めるものはいなかった。

「ふふ、秋麗様は何も入れておりませんよ。何かを入れたふりをしただけなのでしょう」

 穏やかに笑ってみせた采夏がそう言うと、玉芳と冬梅は秋麗に視線を移す。

「そうなのか?」

 冬梅が問い詰めると、采夏の行動に固まっていた秋麗はどうにか初期を取り戻してふんと鼻で笑ってみせた。

「意外と、めざとい方なのですね。まさか、見破られていたなんて」

「いいえ、『見』破ったわけではありません。私の目にも何かを入れたように見えました。でも……お茶の香を嗅いだら何も香らなかったので、何かを入れたふりをしただけなのだろうと分かりました」

「その、香りだけで分かるものなのですか?」

 采夏の言葉に、冬梅が戸惑いながらも尋ねる。

「分かりますよ。みなさまもすぐに分かるようになります。陛下から、毒味なしでお茶を楽しむ許可を頂いたのは、私が飲む前に毒の有無を嗅ぎ分けることができるからです」

 采夏は当然のようにそう言ったが、周りの反応はまちまちだった。

 付き合いの長い玉芳は、さもありなんといった具合に頷いたが、冬梅と秋麗はそんなの信じられないといった表情だ。

「……そんな嘘、誰が信用しますか」

 そう言ったのは秋麗。最終的に采夏の言葉を嘘と断じたようだ。

「嘘かどうかはともかく、皇后様の胆力には驚かされた。怖くはなかったのですか? その……明らかに何かを入れたように見えたというのに」

 冬梅は、何かを入れたかもしれないお茶を、なんの躊躇もなく飲んだ采夏に感心したようにそう言った。

「お茶の香りは嘘をつきません。何も入っていないと分かったのに、何を恐れることがあるのですか? それに……せっかく秋麗風妃が入れてくださったお茶ですもの。私、人にお茶を振る舞うのは大好きですが、振る舞われるのも好きなのです。秋麗風妃、ありがとうございます」

 采夏の心の底から感謝しているような晴れやかな顔に、秋麗は苦虫を噛み潰したような心地がした。

 正直、振る舞ったつもりはない。ただの嫌がらせだ。

 それをここまで感謝されると、やりにくい。

 どうにか采夏の鼻を明かしてやりたい。その一心だった秋麗はふと思いついた。

「皇后様、実はご相談があるのです」

「相談? なにかしら」

 お茶を飲んで、気分が高揚していた采夏は楽しそうに尋ね返す。

「陛下が、私を夜に呼んでくださらないの」

「まあ、陛下が……」

 そう答えながら、采夏は少し嫌な感じがした。

 何かが嫌なのか、まだはっきりと言葉にはできない。でもこれからきっと嫌な気持ちになる。そう思わせる予感があった。

「ええ、そうなのです。ですが、それはおかしいことだと思いませんか? この私を褥に呼ばないなんて、あり得ません。皇后様が、皇帝陛下に我が儘を申しているのではないかと私、心配なのです」

「それは、つまり、皇后様が圧力をかけて、陛下が他の妃を呼ばないようにしていると?」

 秋麗の言葉に、すかさず冬梅が不快そうに問い返した。

「あら、そうですわね。はっきりと申し上げると、そういうことですわね。初めてお会いした時、陛下から熱い視線を感じましたわ。まあ、私を一眼見た男の方は皆様同じような顔をなさるけれど」

「ハッ、笑わせないでくれ。熱い視線? そんなものを送っているようには見えなかったが、軽くあしらわれていたではないか。もう忘れたのか?」

 冬梅の反論に、余裕の笑みを浮かべていた秋麗の表情が変わった。

「な、なんですって!?」

「陛下も男だ。好みというものがある。褥に呼ばれないのは、自身の魅力のせいではないのかな」

「まあ、お前、冬梅花妃! よくもそのようなことを! 私の魅力が足りないと言うの!?」

「足りないとまでは言っていない。ただ、陛下のお好みではなかったということ。実際、褥に呼ばれていないわけだしね」

 秋麗はぐぬぬぬとばかりに唇を噛んで強く冬梅を睨みつけた。

「あ、あの、お二人とも落ち着きましょう。陛下には私の方からお話しておきますから」

 おろおろと采夏が横から口にだした。

「お話? 一体なんの話をするつもりなのかしら。有る事無い事吹き込んでもらっては困るのですわ、皇后様」

「皇后様はそのようなことをする方ではない。秋麗風妃の違ってね」

「お前……!」

「お二人とも……!」

 そう言って、采夏が手を伸ばそうとした時だった。ちょうどその手が茶杯に当たり……。

――ガチャン

 乾いた音を鳴らして茶杯が卓から落ちた。

 そしてその衝撃で茶杯は綺麗に二つに割れてしまった。

 硬いものが割れる硬質な音に、言い争いをしていた二人も静まり返る。

 采夏は、割れた茶杯を呆然と見下ろした。

 自分の不注意で、茶器を割るのは久しぶりのことだった。

 お茶や茶器、お茶に関するものが近くにあるときは、いつでもそれらに集中できた。不注意で落とすことなど、あり得ないのだ。

 しかし、黒瑛の話題が登った時、采夏は確かに冷静ではいられなかった。

 黒瑛は、采夏にとって特別だ。今までお茶にばかりかまけていた采夏の人生に、突如としてやってきた特別な男性なのだ。

「ああ、皇后様、大丈夫ですか? お怪我は?」

 玉芳の言葉に采夏はにこりと笑ってみせた。

「……怪我はありません」

 顔は笑っているが、采夏の声に力はない。そして顔を上げて二人の妃を見た。

「秋麗様のお話はわかりました。陛下が、他の妃を褥に呼ばないのは問題ですね。ここは後宮。皇帝の血筋を生み育てる場所。普通の女のように、夫を縛ることはできないのですから」

 采夏は静かにそう言った。そして視線をついと冬梅に移す。

「もしかして冬梅様のことも、陛下はお呼びにならないのでしょうか?」

 心配そうに采夏が尋ねると、冬梅は困ったような笑みを浮かべてから頷いた。

「ええ、まあ、そうですね。ですが、私の場合は、この格好のせいかと思っていますし、べつに呼ばれなくても問題はないので」

「いいえ、いけないわ。陛下が他の妃を呼ばないという事態を、皇后として放置してはいけない問題です。私の配慮が足りませんでした。……他の妃様方をお呼びするように陛下には私の方からお伝えします」

 采夏は努めて冷静に、穏やかに聞こえるようにそう言った。

「……まあ、それなら良いですけれど」

 なんとなく決まりが悪そうに、秋麗は答える。

 采夏は割れた茶杯を再び見下ろした。

 普通の女のように、夫を独占することはできない。そんなこと、分かっていたつもりだったのに。

(……自分で口にして自分で傷つくなんて、おかしいわね)

 玉芳が、われた茶杯のかけらを集めている様を、なんとも言えない複雑な思いで見下ろしていた。

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