第66話 エピローグ
「良かったのか? ウルジャとは……あのようにあっさりと別れて」
采夏の宮に来ていた黒瑛が、采夏の膝の上に頭を乗せて寛ぎながらそう尋ねてきた。
茶交易の件や呂賢宇の後始末で奔走していた黒瑛が、采夏の宮に訪れるは実に久しぶりである。
膝に黒瑛の温もりを感じながら、縁側でぼーっと秋の澄んだ夜空に浮かぶ月を眺めていた采夏は、少し不思議そうに目を瞬いた。
「え? ええ、別に、大丈夫ですよ。陛下のご厚意で最後にお見送りもできましたし」
黒瑛が何を気にしてそう声をかけたのか、真意が見えずに采夏はそう答えた。
青国との正式な茶馬交易を結んだウルジャは、先日テト高原へと帰っていった。
しかも早速皇宮にくるまでにテト族達が乗ってきていた馬を一部黒瑛に献上したので、その見返りとして茶葉をもらい受けていた。
なので、帰るときのウルジャは背中に自身の体積よりもずっと大きい茶葉の塊を背負うことになった。
重さも相当量あるはずだが、ウルジャ達テト族達は疲れた顔を見せず、むしろ誇らしげにその茶を堂々と背負っていたのが印象的だ。
ウルジャが背負っている茶葉は、何を隠そう後宮で采夏達が育てた茶葉だった。
「そうか、采夏がそれでいいのなら、それでいいんだ……」
と少しそわそわした様子の黒瑛を改めて采夏は見た。
どこか嬉しそうでもある。
何故嬉しそうなのか、不思議に思いつつも黒瑛が納得した風なので、采夏は何も言わないことにした。
今日、こうやって黒瑛とのんびり過ごすのは本当に久しぶりなのだ。
その時間を大切にしたい。
「そういえば、采夏、三道茶のことなのだが……」
「三道茶がいかがしましたか? お飲みになりますか?」
お茶の話をふられて思わず食い気味に采夏が聞き返すと、黒瑛が相変わらずだなといって小さく笑う。
そして黒瑛は起き上がると采夏と向き合った。
「そうだな。一緒に三道茶が飲みたい。用意してくれるか?」
黒瑛の言葉に、ちょうど次の茶を飲みたいと思っていた采夏は笑顔で頷いた。
ウキウキと采夏は茶を用意する。
茶葉を煮込むようにして作る三道茶は通常の茶と比べると、多少調理に時間がかかる。
だがその待った分、美味しく感じられる。
早速三道茶の一服目、苦茶を淹れた。
黒瑛が少し渋そうに口に含むのを見ながら、采夏も頂いた。
しっかりとした茶葉の苦味が口いっぱいに広がる。
采夏としては、紅糖などが入っていない苦茶の方が、いつも飲んでいる茶に近いため味わいとしては好ましい。
そしてその苦味に誘われるようにして、采夏は過去を思い返す。
采夏とて今までの人生において苦々しい経験はいくつもある。
欲しい茶葉が手に入らなかった時、自分で植えた茶木がうまく育たなかった時、殺青に失敗して茶葉をダメにしてしまった時。
そのどれもが茶に関することだったが、ふと、何故か最近の記憶が蘇る。
(何故、あの時のことを思い出したのかしら……)
ふと浮かんだ記憶。その時、確かに采夏は笑顔を浮かべてさえいたはずだ。
なのに、何故、今更苦い思いとなって思い返すのだろうか。
かちゃりと茶器の音がして、采夏ははっと顔をあげる。
黒瑛が丁度碗を卓に置いたところだった。
それを見て、采夏は甜茶の用意に取り掛かった。
先ほど感じた疑問についてはとりあえず脇におく。
紅糖と塩、クルミを入れて。
甘く煮込んだ茶にチーズを浮かべると茶の茶色が淡く濁った。
甜茶の完成だ。
甜茶を出すと黒瑛は嬉しそうに顔を綻ばした。
甘党の黒瑛は特に甜茶を気に入っているのを采夏は知っている。
采夏もなんだか嬉しく思いながら、甜茶を口に含んだ。
先ほどの苦茶の渋みや苦味を吹き飛ばすほどの甘さとまろやかさが一気に広がる。
普段何も入れずに茶を飲むことを習慣にしている采夏にとって、甜茶は少々甘すぎる。
紅糖の甘味が強過ぎて茶本来の甘味が感じにくい。だが、紅糖の甘味とチーズのコクの合間をぬって、茶本来の味わいを探りながら飲むのはそれはそれで面白い。
甜茶を味わっていると、やはりと言うべきか、とある記憶がふと頭に浮かぶ。
「そういえば、甜茶の意味をまだ聞いてなかったな」
黒瑛のその言葉にハッとして視線を彼に移す。
イタズラを思いついたような少年のような顔をしていた。
「……甜茶の意味は忘れてしまって」
そう言って、思わず顔を伏せようとすると、顎に手を添えられ、そのまま上に引っ張られる。
「嘘だろ。采夏が茶についてのことを忘れるはずがない」
黒瑛の黒檀の瞳が真っ直ぐ采夏に注がれていた。距離も近い。
思わず息が止まる。
「采夏は先ほど、甜茶を飲んだ時、何が浮かんだ?」
そう問われて采夏はゴクリと唾を飲む。
何故だかわからないがずるいと思った。
それでも、問われた事には答えねばと、采夏は口を開く。
「美味しいお茶を飲めた、時。そして、初めて育てた茶木に芽が出た、時、采夏岩茶の可能性に気づいた、時、それと……」
そう言って、つらつらと言われるがまま甜茶を飲んだ時に浮かんだ景色をそのまま口にしていたが、途中で言葉に詰まってしまった。
気恥ずかしい思いが次から次へと溢れてきて、顔が信じられないほど熱い。
今にも倒れてしまいそうなのに、目の前の黒瑛は許してくれないようで、微かに首を傾げて余裕の笑みを浮かべた。
「それと、何が浮かんだんだ?」
「……そ、それは……」
采夏はしばらく言葉にできずにいたが、黒瑛が言うまで解放してくれなさそうな雰囲気を感じ取って、意を決した。
「へ、陛下が、私と一緒にいたいと言ってくださったあの時のことです……!」
消え入りそうな声でどうにかそうこぼすと、黒瑛は満足そうに微笑んだ。
なんだか全てお見通しだと言わんばかりの顔である。
黒瑛は采夏の顎に添えていた手を離した。
そして色気を帯びた瞳を細めて笑う。
「采夏、甜茶の意味がわかったぞ。人生における、喜びや……愛だろう?」
黒瑛に正解を突きつけられた。
そうとわかった上での先程の黒瑛の行動だと思うと、やはりなんとなく悔しい。
しかし、何も答えられず、采夏はコクコクと頷いた。
もういっぱいいっぱいだった。
「陛下は意外と意地悪です」
「甜茶の意味を忘れたなどと言って、先に意地悪をしてきたのは采夏のほうだろう?」
そう言われると何も言えない。
「だが、良かった。采夏も俺のことを想ってくれてはいるのだな」
心底ホッとしたような声で黒瑛が言うので、采夏は目を丸くした。
不思議そうに見つめる采夏を見て、黒瑛は罰が悪そうな顔をする。
「たまに、たまにだが……采夏は別に俺のことなどどうでもよくて、茶のためだけに一緒にいるんじゃないかと思う時があってな」
「そんなこと、あり得ません」
びっくりして思わず強い口調で采夏は答えた。
確かに後宮に入れば高価な茶も珍しい茶も飲める。
だがそれは、実家である南州にいても同じだ。未婚のままであればむしろ、自由度は後宮にいない方が高い。
それなのに、たまにだとしても、茶のためだけに黒瑛と一緒にいるのだと思われていたというのが、自分でも意外だが許せない。
「……苦茶を飲んだ時、茶とは関係のない思い出が浮かびました」
采夏がそう語り出すと、黒瑛は眉を上げた。
「それは陛下が私の他に四大州からも妃を娶ると仰せになったあの時の記憶でした」
采夏がそういうと黒瑛は大きく目を見開いた。
そして恐る恐ると言ったように口を開く。
「苦茶を……? 苦茶は確かに、人生における、苦く辛かった時の記憶……」
そうこぼすと黒瑛は信じられないとでも言いたいような瞳で采夏を見る。
「あの時私は、確かに、嫉妬したのです。陛下と二人でいられないことを辛くも感じておりました……」
ぽつりぽつり自分で言葉を噛みしめるように采夏が言う。
先ほどから時が止まったように目を見開いていた黒瑛は、眉根を寄せて口を開く。
「は? 今、なんと……? 嫉妬……?」
訝しげに尋ねられて采夏は頷いた。
「いや、いやいやいや、いいんだ。采夏。そこまで気を使わなくてもいい。采夏が俺との日々を喜びだと感じてくれるだけでいいんだ」
「別に気を使って言ったわけではありませんけど……」
「だが、そんな普通の娘のような感情を采夏が? 俄には信じがたいが。それに……采夏はあの時平気そうな顔をしてたじゃないか」
「だって、平気な顔をするしかないではありませんか。私はこれでも、陛下の正妃。皇后なのですから」
そう、采夏は皇后だ。
そして采夏は茶が絡まなければ、基本的には意外にも常識的な娘だ。
皇后の立場というものをわかってはいる。
皇后は皇族の血筋を絶やさぬように、後宮をまとめ上げる立場の者。そうやって皇帝を支え、強いては国を支える。
自分以外の人を妃に据えないで欲しいなどとどの口が言えようか。そう思うことですら、罪なように感じられた。
「采夏……」
采夏の告白に黒瑛は言葉を失ったようにして呆然とした。そして顔色を青白くさせる。
黒瑛のその顔を見て、采夏はハッとした。
(怒っていらっしゃる……?)
険し顔をした黒瑛が唇をワナワナと唇を震わせてさえいる。
他の妃に嫉妬する狭量な皇后など皇帝である黒瑛は求めていないのかもしれない。
采夏が先ほど口にしたことを後悔したその時、肩をガッと掴まれた。
目の前に黒瑛の顔がある。
「わかった。やはり他の妃が娶らない事にしよう。燕春にも悪いが、実家に送り返そう」
黒瑛の目は真剣だった。
「え……」
「采夏がそのような気持ちでいたというのに、気づいてやれなくてすまなかった。よし、こうしてはおれん。早速陸翔に言って、妃を娶る件を白紙に……」
「ちょ、ちょっと落ち着いてくださいませ!」
「なんだ、采夏。私は十分に落ち着いている。今までにないほどにだ」
そう言った黒瑛の目を血走っていた。明らかに平常ではない。
「わ、私は、別に、他の妃を娶ってほしくないわけではありません! 燕春月妃もとても良い方ですし、これからやってくる方についても、少なからず楽しみにしております。ただ、私は……」
そこで一瞬言葉をつまらせると、采夏は思い切って口を開いた。
「陛下があまりにも、私のことを茶のことしか興味がないような変人だと思ってるようだったので、私だってただの女のように人を愛するのだと、知って欲しかっただけなのです!」
思い切って采夏がそう口にすると、黒瑛はまた目を見開き固まった。
采夏の顔もさっきから暑い。顔に熱が集まるのを感じる。
一体己は先ほどから何を告げているのか自分でもよくわからなくなってきた。
すると黒瑛が、采夏の肩に置いていた手を離し、フーッと長く細く息を吐き出した。
どうやら心を落ち着かせているらしい。
「すまない。あまりのことに我を忘れていた。……だが嬉しい。おそらく、次に甜茶を飲むときは今日の日のことを思い起こすような気がするよ」
「……私は、ものすごく恥ずかしい思いをしたり、怒ったり、嫌われたかもと恐れたり、気持ちがあちこちに動きましたので、どちらかというと、これから飲む回味茶を飲む時に、また思い返しそうです」
「回味茶は、確か老成した時に、人生の喜怒哀楽を思い返すような茶だったか」
黒瑛の質問に、采夏は「はい」と肯定を示すと、黒瑛はふっと優しく息を吐くように笑う。
そして、采夏を優しく見つめた。
「それはいいな。これから数十年時が経過して、ともに回味茶を飲む時に思い返す思い出が、采夏と同じものであったら……どれほど幸せだろうか」
黒瑛の言葉に采夏は目を瞬かせる。
回味茶は人生と思い返すお茶。
これから先、黒瑛と采夏が人生の喜怒哀楽を共にできたなら、思い返す思い出は同じものとなる。
つまり黒瑛が言いたいことは、これから先も、ずっと一緒に心を寄り添いながら共にいたいと言っているのだ。
采夏は、黒瑛の優しい笑顔につられて微笑んだ。
「はい、私も、そのように思います」
采夏はそういうと、どちらかともなく二人は体を寄せ合って、唇を重ねた。
今日という日のことを、きっとまた、茶を飲んで思い返す日が来るだろう確信を持ちながら。
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