第62話 ウルジャ、倒れる

 ウルジャは窓枠に腰掛けて、空を見上げた。

 雲ひとつない晴天で、眩しいほどの青がウルジャの目に映る。

 済んだ青は、草原の空と変わらないはずなのに、何かが違うと感じさせた。

 ここの空は狭苦しく感じる。

 それは周囲に並び立つ煌びやかな建物がそうさせるのか、それともただ単に郷愁の思いが募る故か。

 いや、もしかしたらと、ウルジャは顔を室内に向けて、昼間っから酒を酌み交わして顔を赤くしてる大柄な男達を見た。

 狭苦しく感じるのは、彼らのせいかもしれない。

 粗暴にすぎる見た目に、昼間から酒を煽る姿はどこかの賊と言われた方が得心がいくが、これでも一応呂賢宇の家臣。とは言え、呂賢宇が金で雇った傭兵のようなものではあるが。

 皇帝に引き止められて宮廷に長らく止まっている呂賢宇は、道湖省に残してきた家臣の一部を呼び寄せていた。

 そしてウルジャの見張りを彼らに任せたらしい呂賢宇は、最近姿を見せない。

 帝位の簒奪を狙っているらしい呂賢宇が、どこで何をしているのか分かったものではないが、それを気にする義理はウルジャにはない。

 それに、もともと何もするなとも言われている。

 ウルジャはただひたすらにその時を待つだけだ。


「しかし、今の皇帝は変わり者だな。後宮にいた美女達のほとんどを解き放っちまうんだからよぉ」

「もったいねぇよなぁ。……たっくよ。ことを起こした時の俺達の楽しみがへっちまったぜ」

 酒で出来上がった顔を顰めて男が口を吐くと、向かい合わせていた男がニヤリとげびた笑みを浮かべた。

 ウルジャはふと聞こえてきた彼らの会話が不快な方向に進み始めたのを認めて、眉根を寄せる。


「だがよ、皇帝が一人残した女……皇后は相当な美人らしい」

「本当か? おれは、皇后は相当な変人でやばいって話をきいたぜ?」

「いやそれがな、性格はかなり変わり者らしいが、見た目は良いらしい。皇帝が他の妃を解き放ったのは、その女の心を射止めるためだとか」

「へえ、それが本当だとしたら、なるほど……。そいつぁ、楽しみだなぁ……」

「おい」

 ニヤついて話す男が不快に過ぎて、ウルジャの口から怒りを滲ませた声が出た。

 彼らの話している美女というのは、采夏のことだ。不快に思わないわけがなかった。

 舌なめずりをするような男達二人を睨みつける。


「なんだ、なんか用か?」

 二人も不快そうにウルジャを睨みつけた。

 彼らは、テト族を見下している。

 道湖省にいる時からたびたび衝突していた。


「……なんの話をしてる?」

 ウルジャがそう口にすると男たちは戯けたように肩をすくめた。


「なんの話っていわれてもなぁ。お前に話す義理はねえよな」

 人を見下したような笑み浮かべて、嘲笑うように男の一人がそう答えた。

 何も聞かされていないお前には関係ないと言いたげで、自分達が知っているということに優越感を抱いているようだった。

 彼らの態度に再びウルジャは不快そうに目を細める。

 確かに、ウルジャは呂賢宇から何も聞いてない。

 だが、呂賢宇の目的については承知している。


(愚かな……)


 ウルジャは、内心で嘆いた。

 慎重を期さねばならぬのに、宮中で簒奪の計画を仄めかす会話を堂々としている彼らの愚かさに呆れた。

 それと同時に、ことを急ぎ過ぎて彼らのようなものを宮中に招く呂賢宇についても。


「ウルジャ、いるか」

 男達二人とにらみ合うようにしていたあその時、扉が開いた。

 声をかけていたのは、呂賢宇その人だった。


「お前たち、昼から酒か? まったく……」

 呂賢宇はお酒を飲んでいる二人組をみて不満そうに小言を言うと、男達はおどけたように笑う。

 呂賢于はその二人を手振りで部屋から追い出した。

 どうやら密かに話し合いたいことがあるらしい。

 ウルジャはあまり乗り気にはなれなかったが、窓枠から降りて呂賢宇の方まで歩み寄った。


「ウルジャよ。折り入って頼みがあるのだ」

「頼み?」

「覚悟を決めたのだよ。この国はもうだめだ。皇帝は能なしで、その上平気で他部族や小国を見下している。私はもうこの国の在り方に耐えられないのだ」

 心底国の行く末を嘆いているとでも言うように、大げさに嘆いて見せた。

 その芝居がかった動きが、事情を知るウルジャを余計に白けさせた。


「なんでそんな話を俺にするんだ」

「それはもちろん、ウルジャの、いやテト族の力を借りたいからだとも」

 協力してくれるのが当たり前だとでも言うように自身に満ちた笑顔で呂賢宇は言う。

 その様をウルジャは複雑な思いで見つめた。


「俺たちの力を? どういうことだ。他国の戦に、俺達をまきこむということか?」

「まあ、そうだな。そうとも言える。だがな、聞いてくれウルジャ! これはテト族のためでもあるのだ。知っている通り、皇帝は他国を侮り、見下している。故に、皇帝はテト族との茶の交易にすら応じようとしない! 私が、内密に手を差し伸べねば君たちは今頃どうなっていたか……!」

 大ぶりな動作で語る呂賢宇の姿をウルジャは黙って見ていた。

 ウルジャが口を挟まないことを言いことに、呂賢宇は話し続ける。


「だが、安心してくれ。私はもう決めたのだ。君たちのために、そして民のために立ち上がろうと思う。当然力を貸してくれるだろう?」

「それは……」

 何事か言い淀むウルジャをたたみかけるように呂賢宇は顔を寄せる。


「それに何より、もし私に何かがあれば、茶馬交易は行えない。わかるな? 君達は、私に従うしかないんだ」

「なんだと……?」

 呂賢宇の口から出た脅し文句に、ウルジャは思わず眉を吊り上げた。

「そう怖い顔をしないでくれ。私だってこんなこと言いたくないんだ。さあ、私の手を取って。ともに悪の根源を退治しようじゃないか」

「何故、今頃になって、そんなことを言い始める? ……今の皇帝が実権を握る前に宮中を牛耳っていたやつの方が、相当悪どいことをしていたんじゃないのか? 何故その時は立ち上がらずに、今なんだ」

「しかたない。秦漱石は抜け目がなかった。力を認めた者には、貢物を欠かさなかった」

「貢物? 賄賂というやつか? ……まさか、お前もそれをもらっていたのか?」

 ウルジャがそう追求すると、善人の面で笑っていた呂賢宇の口角がニヤリと上がる。

 彼が心の奥底にしまい込んでいた悪辣さが滲み出始めている。


「秦漱石は、人を見る目だけはあったからな。私のような有能な官吏にはきちんとそれ相応の礼儀を払ってくれていたんだ」

 つまりは、賄賂を受け取っていたということだろう。

 ウルジャは思わず目を細めた。心底軽蔑した目で呂賢于を見る。


「お前は、私たちのことを同情していると嘆いた裏で、テト族を追い詰めていた諸悪と繋がっていたということか!?」

「そう声を荒げないでくれ。私は本当に君たちのことを不憫に思っているんだ。だからこそ力を貸した。そうだろう? そうだ、まずは何か飲もう。一度落ち着いた方がいい」

 そう言って、呂賢宇は懐から竹でできた水筒を取り出した。

 そして、先ほどの男達が使っていた酒杯の中身を捨てて、そこに水筒の中のものを注ぐ。

 コポコポと注がれたのは、茶色の液体で、微かに香った芳ばしさに茶であることが分かった。


「まずはいっぱい飲んで落ち着こう。そうしたらまた落ち着いて話し合おうじゃないか。私の本心を伝えよう」

 胡散臭い笑みを浮かべた男から、ウルジャは酒杯をうけとる。

 中身は酒ではなく薄緑色をしたお茶だ。

 ウルジャが呂賢宇とお茶を交互に見てから、煽るように茶を飲んだ。

 そして……。


「グ! ゲハ! ガ……!」

 口から茶を吐き出した。

 堪えがたい不快感に立っていられず膝を床につく。

ウルジャは自分が何をされたのかを悟った。


「お、お前、何を、何を飲ませた……!」

 苦しげに喉元に手をやりながら、恨めしい気持ちで呂賢宇を仰ぎ見る。

 愉悦を滲ませた歪んだ笑みを浮かべる呂賢宇と目があった。


「馬鹿な男だッ! 大人しく私のいうことを聞いておればいいものを! 下等な蛮族が!」

 呂賢宇からの罵倒にウルジャは目を見開く。

 遊牧の民の生活を尊重するだの不憫でならないなどと言っていたその口で、堂々とウルジャたちを貶める言葉が放たれた。

 一時でも、彼を信じてしまった己をウルジャは強く恨んだ。

 自分の過ちで、仲間達を巻き込んでしまった。遥かな高原の空の下ではない場所へと、しばりつけてしまった。

 ウルジャが悔しさに唇をかみしめていると、頭上に強い痛みが走る。

 気づけば、呂賢宇の顔が近い。

 呂賢于がウルジャの髪を引っ張りあげて、無理やり顔をあげさせていた。


「ほう、確かに燕春の言っていた通りの強力な毒のようだな。大人しく死んでくれ、ウルジャ。お前が死ねば、全てうまくいく!」

「どういう、意味だ……」

 息も絶え絶えに尋ねるウルジャに呂賢宇は機嫌良さそうに口を開く。


「お前が宮中で死ねば……お前を慕うテト族の男達がどう思う?」

 ウルジャは目を見開く。


「お前、まさか……」

「そうだ! 皇帝に殺されたと嘆く! 同族のものを殺され、悲しみに暮れるテト族の男達は、さぞや勇敢であろうな!! 手薄な皇宮を落とすことなどたわいもない!」

「やめろ……仲間を、巻き込む、な……」

「安心しろ、ウルジャ。お前が寂しくないように、事がうまくいけばすぐに仲間達もお前の元に送ってやるからな。私が収める地に、野蛮で汚らわしいお前達の血は要らぬ」

「……ッ!」

 呂賢宇の下劣さに、ウルジャはもう言葉にすることもできなかった。

 今までいいように使われていたことに気づかなかった己を、そして他のテト族のものたちをそれに巻こんでしまった愚かさをただただ呪う。

 ウルジャは目を瞑った。

硬く固く瞼を閉じる。そしてウルジャはそのまま闇の中に身を委ねた。

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