第63話 呂賢宇は皇后にお茶に誘われる
呂賢宇の付き人が突然、倒れた。
見回りの宦官に見つかった時にはすでに意識はなく、そのまま医務室に連れて行かれた。
医官は手を尽くしたが、数日後には息を引き取った。
死因は明らかにされていない。
そう報告を受けた呂賢宇は盛大に嘆いてみせた。
大粒の涙を流し、若い命が失われたことを悼んだ。
彼のあまりの落胆ぶりに、誰もが彼に同情の視線を送った。中には励ましの言葉を送った者もいる。
呂賢宇は、宮中にいる者達の感心を集めることに成功していた。
それからしばらくして呂賢宇の嘆きが落ち着いた頃、皇帝から打診され、保留にしていた軍旗副大臣の役を引き受けた。
そして呂賢宇は、国の軍備の不足を悟ると神妙な顔で、道湖省に残してきた自分の私兵をこちらに呼び寄せると提案。皇帝も二つ返事で同意した。
そうして呂賢宇は今、焦りと期待と希望に満ちた面持ちで、一人外廷の西門の前にいた。
先日先ぶれがあり、今日には道湖省に残してきた私兵、テト族の騎馬兵と呂賢宇が金で雇った男達が、都に到着する予定になっていた。
時は早朝、呂賢宇は徐々に白んでくる空を見上げて、思わず笑みが溢れた。
今日から世界が変わるのだ。
今まで呂賢宇を取り巻いていた世界は間違っていた。
だが、今日からは正しい方向へ変わる。
呂賢宇中心の世界に変わる。
「テト族の騎馬兵がきたら、早速に皇帝の首を取るべきか。……いやいや、待てよ、まずは信用させてから屠るのはどうだろうか。皇后や皇太后の首を先にとって見せつけたら、あの生意気な若造はどんな顔をするだろうか……」
いつも顔に張り付けている人の良さそうな笑みは消えていた。
あるのは人を痛ぶることを愉しむ醜い男の顔だった。
世の人民は若い皇帝に夢を馳せているが、呂賢宇は違う。
皇帝はただただ運に助けられただけの、屑だと思っている。
皇子時代は出涸らし皇子などと揶揄された、放蕩息子。
それなのに、民の期待は一心に皇帝に集まり、尊敬されている。
それが、気に食わない。
あんな馬鹿者が皇帝であることが許されるのなら、己でもいいはずだ。
多くの者が、若い皇帝の政変劇に胸を高鳴らせたあの時、呂賢宇はむくむくと沸き起こった欲に支配された。簒奪と言う欲に。
呂賢宇は北州を治める一族に生まれた。恵まれた家に生まれ、尊ばれて育てられたが、本人は努力を嫌い、勉学も武芸も今一つ。
結果として、当時の北州長であった父親から任されたのは道湖省という小さな地域のみ。
呂賢宇は自分こそがもっとも尊いのだという現実に伴わない自信に満ちていた呂賢宇にとって、あの時ほど惨めな思いを味わったことはない。
貴い身分であるはずの己が何故これ程までに不遇に扱われるのか。己を評価しない親戚連中を恨み、世間を恨んだ。
自分を評価しない世界は間違っている。故にこの世界は間違っているのだ。
だから正さねばならない。自分こそが、皇帝の地位にふさわしい。皇帝になり、己を不遇に扱った者達をすべて、貶めてやる必要がある……。
呂賢宇の身の丈に合わない自尊心は膨れるところまで膨れ上がった。己よりも上位の者として存在している全てのものが許せない。
その最たるものが、現皇帝、黒瑛だ。
この世で最も尊いのは自分であると思っているに違いないあの男が、地べたに這いつくばりみっともなく命ごいする様が見たくてしょうがなかった。
「ふ、ふふふ、ふふふ」
思わず口の端から堪えきれない笑い声が溢れる。
「まあ、呂賢宇様、このようなところにいらしたのですね」
暗い妄想に囚われていた呂賢宇の耳に凛とした声が響いた。
ハッとして顔を向けると、柔らかい笑みを浮かべた女がいた。
皇后采夏だ。
何故後宮にいるはずの皇后がいるのだろうか。
他の妃は後宮からは基本出れないが、皇后や皇太后は別格。政に関わることができる。
そのため他の官吏と同じように、外廷に行き来できる権利があるにはある。だが……。
「皇后様が、外廷にいらっしゃるとは珍しいですな」
皇后が茶道楽で、茶にばかり傾倒していて政には無関心だという話は有名だ。
実際、各大臣達との朝議の際も、皇后がいたことはない。
何故、今日に限って外廷にいるのだろうか。
「今日はどうしても、呂賢宇様と一緒にお茶を飲みたくて、外廷にきていたのです。朝議の始まる前にお会いできてよかった」
「お、お茶? 私とですか?」
何故、何のために。
皇后の突然の申し入れに呂賢宇はかろうじて張り付けた笑顔をこわばらせた。
その様をみた皇后つきの侍女が、口を開いた。
「皇后様は付き人の方を亡くして悲しみに暮れる呂賢宇様の身を案じ、お心が安らぐようにお茶をお淹れしたいと思っておいでなのです」
意味不明な皇后の申し出に戸惑うばかりだった呂賢宇だったが、ブスッとした表情の侍女の話を聞いてやっと合点がいった。
呂賢宇は大袈裟にウルジャの死を嘆いてみせた。多くのものが、呂賢宇に同情の念を抱いている。
皇后も呂賢宇の嘘の嘆きに騙されて励まそうとしているのだろう。
お優しいことだと内心でほくそ笑む。
「おお、なんと皇后陛下の慈悲深きことでしょう! しかし、お気遣いは無用でございます。皇后様のそのお優しいお気持ちだけで、どれだけ私の心が救われたか……!」
大袈裟に感動した風を演じてみせて、軽く辞退の旨を伝えた。
正直なところ、これから茶に付き合う余裕はない。
なにせ、今日は特別に大事な日。テト族の騎馬兵達の到着を待ちたかった。
「まあ、そのように仰らないでくださいませ。私はただ……呂賢宇様に飲んでもらいたいお茶があるだけなのです」
皇后が悲しそうにそういうと、隣にいた侍女の女が目を細める。
「皇后様は、呂賢宇様とお茶を飲むためにここまできたのですよ。そのお気持ちを無碍になさるおつもりですか? このことを皇帝陛下が聞いたら、どのように思われるか」
侍女は冷たくそう言った。
侍女の言葉は軽い脅しだ。
皇后の誘いを断れば皇帝の不興を買うと暗に言っている。
今日滅ぶ王朝の皇帝の不興などどうでも良いように思えたが、しかし、今日は、今日だけは慎重に行きたい。
呂賢宇は面倒なことになったと思いながら、あたりを軽く見渡す。
ちょうど東屋のような卓と椅子が設置されている場所が見えた。
あそこなら、門が見えるので、テト族の騎馬兵が来たらわかる。
見張りの兵士達が使う簡単な休憩所のようで、あまり綺麗とは言えないが、わがままは言ってられない。
「そこまで熱心にお誘いいただいて、お断りするわけには参りませんね。しかし、少々取りこんでまして、よろしければあちらでしたら、お付き合いできそうなのですがいかがでしょう」
そう言って、卓のある場所を示すと、皇后は大きく頷いた。
「まあ、素敵な場所。私はかまいません」
「それは良かった。皇后様の入れるお茶は大変に美味しいですから、楽しみでございます」
呂賢宇は嘘の笑みを浮かべてそう言うと、皇后の誘いにおうじて茶席に着くことになった。
「お時間がいただけて良かった」
皇后はそういいながら、鉄瓶を傾けて碗に湯を注ぎ入れた。
呂賢宇が皇宮にやってきたのは、雨季の終わった夏。それからしばらく宮中で過ごし、気づけば夏の盛りは終わりを迎え、秋に差し掛かろうかという季節になっていた。
早朝ということもあり空気はひんやりと冷たく、柔らかく差し込む朝日の暖かさが心地よい。
ふと鼻腔に茶独特の芳しい香りがふれる。
「こちらの茶は、碧螺春でございます」
「おお、碧螺春、我が道湖省の茶でしたか」
軽く会話をしながら、皇后から差し出された碗を手に取った。
顔には笑顔を張り付けて入るが、疑問が尽きない。
もっと特別な茶でも淹れるのかと思いきや、何故碧螺春なのだろうか。
「失礼ながら、呂賢宇様は、碧螺春をお飲みになったことはありますか?」
「もちろんでございます」
そう言って大きく頷いて見せながら、呂賢宇は碧螺春を最後に飲んだ時のことを思い出す。
飲んだことはある。飲んだことはあるが、最後に飲んだのは一年以上前だ。
この碧螺春というただの木の葉っぱが金や力になると気づいてからというもの、自分では飲まなくなった。
自分で飲むぐらいなら、他国に渡して馬や剣を手に入れる方が有意義であるし、茶葉を売って金子に変えたほうがいい。
ただの木の葉っぱを求めて、右往左往する者達を見下してさえいる。
「そう、碧螺春をのんだことがあるのですね。それは良かった」
皇后の勧めに応じて呂剣于は蓋碗の蓋を少しずらして、そこから茶を啜った。
湯の温度はそれほど高くない。故に冷めるのを待つことなくそのままぐいっと煽るように飲んだ。
味わっている余裕はない。
お茶を飲み終わればこのくだらない茶会も終わりだ。
呂賢宇はそう思って茶を飲み干した。
「おお、これは美味しい。皇后様が入れられたお茶は誠に美味でございますな。私が普段飲んでいる碧螺春とは別格にございます」
「そうですか? では今度はこちらを飲んでくださいませ」
茶を飲み終えたと思ったら、また新しい茶を勧められた。
まさかこのまま茶を飲んでもまた新しい茶を飲まされるだけなのではないだろうか。
呂賢于の脳裏に不安がよぎる。
しかし、出された茶を断ることもできまいと、再び茶を煽った。
「さすがさすが、こちらも美味でございます!」
そう言いながら笑みを浮かべる。
しかし、先ほどから皇后の顔が笑っていないことに気づいた。
茶を出すときはいつもの柔らかな笑顔を浮かべていたはずだが。
「こちらの茶葉は今年収穫した碧螺春。そして最初に飲んでいただいたのが、昨年収穫した碧螺春です」
「は、はあ」
皇后の顔に凄みを感じた。声を荒げているわけでもないのに、身の毛がよだつ思いがする。
「呂賢宇様は、今年収穫した碧螺春を飲まれたことがありますか?」
「え、ええ、それはもちろん。不作でしたが、燕春に渡すためにどうにか摘んだ茶葉を確認のために」
それは嘘だった。呂賢宇は飲んでいない。
「嘘はよくありませんね」
「う、嘘? 何を仰られるか」
「きちんと碧螺春を飲んでいたのなら、あなたは自分が犯した過ちに気づけたはず」
「過ち……? ははは、いったい何の話をしておられるのか……」
「誤魔化すのはおやめください。私は怒っているのです。こう見えて私は、普段はとても穏やかな性格です。ちょっとやそっとのことでは、そうそう怒りません。ですが今回のことは看過できません」
皇后はそう言って目を細めた
呂賢宇は思わず息をのんだ。
皇后とはいえただの小娘、そう思っていたというのに、この迫力はなんだ。
背筋が冷たくなるのを感じる。
「道湖省の碧螺春は、果実のような後味が爽やかなお茶です」
「果実……」
言われてみれば、最初に飲んだ方のお茶にはそのような風味があったような気がする。
しかし次に飲んだお茶にはなかった。
「碧螺春の果実味は、その育成環境によるもの。茶木の周りに果樹を植えているのです。果樹から漂う香りを茶木は吸入しその身に宿す。そうして、道湖省の碧螺春は完成するのです」
皇后の言葉に呂賢宇は、一年前のことを思い出した。
茶が金になり力になると知った呂賢宇は、よりたくさんの茶葉を求めた。
呂賢宇が治める道湖省には有名な茶畑がある。
だが足りない。もっと欲しい。あればあるだけいいのだ。
そのため呂賢宇は、茶畑に赴いた。
そして……。
「呂賢宇様、あなたは、碧螺春を育てる茶畑の果樹を全て処分しましたね?」
皇后の冷たい声に、呂賢宇の肩がびくりと動く。
「は、いや、それは……」
責められるような視線に耐えかねて、目を逸らす。
だが、皇后の鋭い視線はそれでもなお緩まない。
「あなたは、果樹を根っこから抜き取り、そしてそこに茶木を植え替えた。茶を量産するため、いえ、茶葉を使った交易で、金子や馬を手に入れるために」
呂賢宇は目を見開いた。
茶葉を量産して、馬や金を手に入れていたことがすでに暴かれている。
何故、どうして。
疑問が駆け巡りそして、答えが出た。
(そうか……! 茶の味か!)
茶の味の変化を皇后は敏感にかぎ取った。
そうして、道湖省の異変に気づいたのではないだろうか。
(だとすれば、私を長らく宮中にとどめおいたのも、私の目的を探るため? まさか
私がテト族と秘密裏に交易を交わしていることが、すでに暴かれている?)
そこまで考えて呂賢宇は首を微かに横に振った。
違う違うと、そんなはずはないと己に言い聞かせるように。
(違う。暴かれようはずもない。現に皇帝は、私を軍機副大臣に誘った。そうだ、私は信用されている。信用されるように振る舞っている!)
焦る呂賢宇の様子に気づいているのかいないのか、皇后はさらに口を開いた。
「碧螺春の美味しさの虜になり、愛しさのあまり茶の量産をせんとそのような愚行を犯したというのなら、わかります。ですが、そうではない。もし真に碧螺春を愛でていたのなら、今年の茶を飲んだときには己の過ちに気づいたはずですから。あなたはただ、己の私利私欲のために碧螺春の味を損なった」
「な。何を、おっしゃるか……」
呂賢宇は何とか言い訳を口にしようとするが、皇后の顔を見て固まった。
それほどの迫力だった。
いつも穏やかな目元は鋭く吊り上がり、怒りを讃えた瞳が呂賢宇を見つめている。
「……貴方の犯した罪は大罪です。この国の歴史上で、もっとも重い罪かもしれません。これから先どれほど償おうとも、許せるような罪ではありません」
呂賢宇は言葉に詰まった。
皇后は間違いなく呂賢宇の企みに、その野心に気づいている。
だからこそ、大罪と言ったのだ。
なにせ、呂賢宇の目的は、帝位の簒奪。
皇后の言うように、青国において最も重い罪になる。
呂賢于はゴクリと唾を飲み込んだ。
どうすればいいかと考えるが、答えは出ない。
皇后を始末すればいいのか。皇帝は呂賢宇の企みに気づいているのだろうか。
どうする。どうする。
答えの出ない問いに苛まれていた呂賢宇の耳に、ギギギと重たいものを引きずるような音が聞こえてきた。
ハッとして顔を向けると、門が開こうとしているのが目に入る。
そして開いた扉から見えたのは……。
(勝った……!)
呂賢宇は思わず口角をあげて笑みを浮かべた。
開かれた門から現れたのは、騎馬兵だった。
馬上の人は、襟付きの黒の衣装に、藍色の下履きをあわせ、腰のあたりに白の帯で絞めた格好をしている。
これはテト族の伝統的な民族衣装だった。
つまり、今やってきたのは呂賢宇が呼び寄せたテト族の騎馬兵だ。
この時間になっても見張りの一人もいない手薄な宮中に強靭な馬を操るテト族の男達が続々と入ってくる。
「くく、くくくっっくくく、ははは、はーはっははは……」
笑いが止まらない。
一時はどうなることかと思ったが、ここまでくれば呂賢宇の勝利は揺るがない。
なにせ、守りの薄い宮中に、呂賢宇の手駒がやってきたのだ。
皇后が何を思っているのかなど、どうでもいい。
皇帝が己のことを疑っていたのかどうかも、もういいだろう。
今ここで、テト族に命じれば全て終わる。
お前らの仇はここにいると、この国の皇帝殺せと、そう口にすれば終わりなのだ。
呂賢宇は立ち上がった。
そして皇后を見下ろす。
「なんとお可哀想な皇后であろうか! 私の野心に気づいたまでは良かったが、それを皇帝に進言しても信用されなかったのだろう?」
おそらく皇后が今日こうやって茶に誘ったのは、呂賢宇の尻尾を掴むため。
ぼんくら皇帝は呂賢宇の外向きの顔に騙され、皇后の言葉を真面目に聞かなかったのだ。
故に皇后は、自ら呂賢宇を捉えるため直接、話をして自供させようとでもしたのかもしれない。
だが、遅かった。
これが昨日であったなら、もしかしたら間に合ったかもしれない。だが遅い。
なにせ、呂賢宇の手駒は揃った。
ウルジャという仲間を殺されて怒り狂ったテト族の騎馬兵が、皇宮を火の海に変えるだろう。
「よく来た! 北の戦士達よ! お前達の族長ウルジャの憎き仇はここにいる! まずは目の前の女を殺せ! 皇后だ! 惨たらしく殺すのだ!! そして皇帝の首を獲れ!」
呂賢宇は目の前の勝利の予感に酔いしれながら、声高にそう命じた。
胸のすく思いだった。
これでやっと今までの間違った世界が正しい方向へと変わる。自分中心の世界へ。
(私こそが、この世界の中心!! 私を貶めるものたちは全て排除せねばならない!)
これから始まる世界を前に興奮し、息が上がる。鼓動が跳ねる。
歯をむき出しにして大きく口を開けて笑う。
だが……いまだに、目の前の皇后、采夏は襲われない。
それどころか、特に焦る様子もなく、ただただ冷たい眼差しで呂賢宇を見ていた。
呂賢宇はテト族達に振り返る。
そこには、立派な馬に跨ったテト族の男達がいる。
門はまだ開いており、その先にも屈強な男達が馬に乗って列をならべている。
呂賢宇が金で雇った傭兵たちの姿が見えないことが一瞬気にかかったが、今はそれどころではない。
「どうした!? 何故動かない!?」
命じているのに一向に動く気配のないテト族に苛立ったようにそう叫ぶ。
ウルジャがいない今、誰がテト族のまとめ役なのか、男達の顔を見渡す。
すると、もっとも大きな馬に乗った男がゆったりと前に出てきた。
腰の帯と同じような白布を帽子のようにして頭に巻きつけている。
テト族にとって、白は特別な色で、尊いという意味合いがある。
それを頭に掲げているということは、彼がウルジャなき後のまとめ役なのだろう。
「おい、そこのお前、お前がウルジャの後釜か?」
白布を頭に巻いた男の方に歩み寄りそう声をかける。
馬上にいるのでどうしても見上げなくてはいけないのが、苛立たしい。
しかもちょうど男は真っ白に輝く朝日を背にしているために、無駄に眩しい。
手で庇を作り、目を細めて男の顔を見上げる。
「何故、動かない! ウルジャの仇を取りたくないのか!」
苛立ちに任せてそう吠えつけば、男から微かに笑い声が聞こえた。
「俺の仇? 一体何の話だ」
呂賢宇は凍りついたように固まった。
この声には聞き覚えがあった。ありすぎた。
まさかと思って眩しさを堪えながら、男の顔を見た。
浅黒い肌に、生意気そうな顔。
薄い青の瞳が呂賢宇を見下ろしている。
「ウ、ウルジャ……。な、何故お前がここに……!」
一歩後ずさりそう叫んだ。
狼狽える呂賢宇を見て、ウルジャはニヤリと笑う。
「どうした? 死人でも見たかのような顔をしてるぞ」
「……!」
どういうことだ。
呂賢宇の頭のなかで同じ問いがずっと繰り返される。
ウルジャは死んだはずなのだ。
姪からもらった毒によって……。
「叔父上、残念です」
先ほど思い浮かべた顔の主の声が聞こえた気がして、ぎこちなくこのする方へと振り返る。
するとやはり予想通り姪の燕春がいた。
なぜ、ここに燕春がいるのだろうか。ここは外廷で、四大妃であろうと特別な許可がなければ立ち入れない。
その姪が懐から、何か小袋を取り出した。
見たことがある。あの袋は、以前姪に預かって欲しいと言われて渡されたものと似ていた。
中に、毒が入っていると言って。
「以前、叔父上にお渡ししたものは、お塩ですよ」
「は? 塩……?」
「お前がのませてくれた茶は、最高にしょっぱかった。故に咽たわけだ」
横からウルジャの声が聞こえる。
何故、姪は、毒だと言って塩を渡したのか。
そして塩の入った酒を飲んで、倒れたふりをしたのはどういうことか。
もう少しで自分は帝位を手にするはずだった。
これから、全てが正しい方向へと世界が変わる。そうなるはずだったのだ。
「呂賢宇よ。まさか皇宮に異国民を招き入れ、皇后しいては皇帝陛下を殺めようとするとは……」
顔を手で覆って嘆く男が、燕春の隣にいる。
この声は……。
「何故、兄上が……」
北の地にいるはずの兄がいた。
小さい頃から内心で無能であると小馬鹿にしていた北州の現族長だ。
己の方が優れているのに、先に生まれたからというだけで、家督を奪っていった憎い相手。
それが目の前にいる。
にわかに呂賢宇は気づき始めた。
気づけば、呂賢宇を取り囲んでいるのは、テト族だけではない。
遊牧民の討伐でほとんど出払っていると聞いていた国軍の兵士も混じっていた。
「皇后が淹れた茶は美味しかったか? 随分とゆっくり過ごしてくれたな。お前が皇后と茶を嗜んでくれている間に、ウルジャがテト族の者達に事情を説明してもらっていたんだ」
自信に満ち溢れた声が聞こえる。その声に合わせて、周りにあつまっていた国軍の兵士たちはその場を退き、頭を下げた。
そしてできた道を堂々と歩いてくる男がいる。
濃紺の袍に、金色の龍が舞うように縫い付けられている。
黒の長髪はさらさらと乱れなく靡き、その堂々たる足取りには威厳があった。
青国の皇帝、黒瑛だった。
そこで呂賢宇はやっと理解した。
自分はこの若い皇帝にまんまとはめられたのだと。
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