第55話 テト族のウルジャ
季節の花が咲き乱れる緑豊かな庭園。
鮮やかな景色の中に、優美な軒ぞりの建物が並んでいる。
どの殿も美しく装飾され、汚れ一つないが、同時に人の気配もあまりない。
ここは後宮。現在、皇后である采夏と、永皇太后が治める皇帝の妃の園である。
肥大した後宮の人件費削減のために、妃達は一斉に解雇され、宮女達の多くも暇を出したために、区画によっては人の気配を全く感じない場所になっていた。
その静かな後宮の石畳の道を、男が一人で歩いていた。
男子禁制の後宮ではあるが、妃の親類とその付き人は許可があれば入れる。
男は、妃の親類の付き人として後宮に入ったのだが、気づけば一人になっていた。
(おかしい。呂賢宇が消えた)
男は、燕春妃の叔父にあたる呂賢宇の付き人、名をウルジャという。
ウルジャは後宮の庭園の中を立ち尽くしてあたりを伺うも、探し人は見つからない。
(呂賢宇の後ろをついてきたはずだが……呂賢宇め。いい歳して迷子とは)
おそらく迷子と言えるのはウルジャなのだが、彼はそれを認めず、呂賢宇に迷子の汚名を着せた。
(困ったな。どこに行けばいいか全くわからねえ)
人気のない無駄に広い後宮で、ウルジャは途方に暮れた。
しばらくとぼとぼと歩いていると、いつも慣れ親しんでいた甘い匂いが漂ってきた。
遊牧民族であるテト族が主に飼いならしている家畜、ヤクの乳の匂いだ。
あの慣れ親しんだ、そして今ではどこか懐かしささえ抱くこの甘くまろやかな匂いをウルジャが間違えるはずはない。そしてヤクの乳の匂いとは別に、香ばしいような、爽やかな香りも漂う。
これは、この香りは、間違いない。
バター茶だ。
青国の茶特有の青味のある香りがヤクの乳でまろやかになって香るバター茶。
ふと、懐かしい草原での暮らしを思い出した。
雨の日も晴れの日も、辛い時も嬉しい時も、テト族はバター茶を飲んだ。
肉食中心になる遊牧民族のテト族にとって、茶は生活に欠かせない物だった。
草原に残してきた者達は、再び茶を飲めているだろうか。
茶葉を煮込んで濃い目に淹れた茶にたっぷりのヤクの乳を入れて……。
青国の地にとどまってから、一年程になるが、ひどく懐かしい思いがする。
ウルジャは故郷に想いを馳せながら、思わず香りのするところに向かって歩いていた。
一体誰が、青国の中心地でバター茶を飲んでいるのだろうか。
誘われるようにして、草木の間をくぐり抜けた先には、朱塗りの柱でできた円形の東屋があった。
その東屋の円卓に、どこかで見たことがあるような横顔があった。
長い髪を少しだけ結わえて背中に流し、丸い瞳は真摯に目の前の茶碗に注がれている。紅をつけてない自然な赤色の唇を少しだけつきだして、碗につけた。
そして満足そうに細めた目には、澄んだ蜜のような瞳。
この顔、お茶を飲むときに、幸せそうに微笑むその顔を、ウルジャは知っていた。
(采夏だ……)
幼き頃に出会った時の記憶が蘇る。
突然やってきて、茶のことを教えて欲しいとねだってきた幼い少女。
一番歳の近いウルジャが話し相手となって、色々と語り明かした。
出会ってともに過ごしたのはほんの数刻。しかしその時のことは今でも鮮明に覚えている。
それほど、ウルジャにとって楽しく特別な思い出だった。
(何故、采夏がここに……)
そう思って、すぐに気づいた。ここは後宮だ。
(そうだった……。采夏は皇帝の妻になったんだ)
呂賢宇から事前に皇后の名を聞いていた。
若い皇帝が皇后として立てたのが、南州の姫、茶采夏だと。
突然振って湧いてきた懐かしい名に、驚愕したのを覚えている。
だからこそ、呂賢宇とともに皇帝という地位につく男に謁見した時、その男の人となりを確かめるように見つめてしまったのだ。
見目は男のウルジャから見ても整っているとは思うが、なんだか澄ましたような表情がいけすかない。
そのことを思い出してウルジャの中に苦い気持ちが蘇る。
何故そんな気持ちになるのか、ウルジャ自身もまだ分かっていないが……。
『奪えばいいんだ! 最初に奪ったのは青国だ!』
テト族の若い男の口から漏れた言葉が脳裏に浮かんだ。
奪う。何を? 采夏を?
ウルジャはハッとして、思わず一歩後ろに下がると……。
――パキ。
細い小枝が折れたか、葉が割れた音か、ウルジャが踏みしめた足の下で微かに音がなった。
その音に反応して、驚いたように少しだけ肩を上げた采夏が、こちらを見た。
大きな瞳をさらに真ん丸にさせていた。
◇
ウルジャとの再会の少し前、采夏は一杯の茶を前にして、思わず唇を尖らしていた。
茶を前にしてこのような不貞腐れた態度、我ながらよくないと思うのだが胸がモヤモヤするのは止まらない。
今睨み合っている茶は、今年の新茶と言われて送られた碧螺春の茶葉。
本来なら、爽やかな果実風味の感じられる茶のはずが、今年の新茶はそれが消えてしまっている。
(碧螺春の茶自体も、おいしい。美味しいのだけれども、どうしても例年の碧螺春の味を求めてしまい、純粋に楽しめない……)
采夏は先ほどから、碧螺春を一口飲んでは落ち込んで、もう一口飲んでは落ち込んでを繰り返していた。
それに、飲むたびに今碧螺春の産地で何が起こっているのか気になって仕方ない。
産地の道湖省をまとめている呂賢宇と直接会って問いただしたかったが、黒瑛が許してくれなかった。
冷静でないからだとかなんとか言われたが、碧螺春の産地に何かあったかもしれないと思っていて冷静になれるわけがない。
(こっそり、北州に行こうかしら。一度、遊牧民族の方と会うために北州にも行ったことがある。土地勘なら多少はあるわ)
と、以前、遊牧民と対話した時のことを思い出したら、ふと、ヤクの乳が脳裏に浮かんだ。
「そうだわ! ヤクの乳! ヤクの乳だわ!」
采夏は自分の思いつきにカッと目を見開いた。
「え? ヤクの乳がどうしたの?」
隣に控えていた玉芳が、先ほどから浮かない顔をしていた采夏が突然大声を出したので訝しげにそう問いかける。
「この碧螺春の茶にヤクの乳をいれて、バター茶にしましょう! 個人的には、バター茶はお茶の繊細な後味を台無しにするところがあるので、あまり好まないのですが、それが逆にいいのかもしれないです!」
そう口で説明しながら自分の思いつきに満足した。
後味の風味が気に入らないのなら、初めからそれを期待しない飲み方をすればいい。
「では早速、ヤクの乳をもらってこようかしら! 食司殿は確か……」
「ふっふっふ。皇后様、この優秀な侍女の存在をお忘れでなくて?」
さっそく乳をもらいに行こうと立ち上がろうとした采夏に、得意げな玉芳の声が降りてくる。
彼女の方をみれば、小瓶を差し出していた。
「まさか、これって……」
「ヤクの乳よ。この前采夏が淹れてくれたバター茶、私結構気に入ってて、最近お茶飲む時に入れてて、持ち歩いてるの」
二人きりの時はどうも口調が砕ける玉芳がそう言って、笑顔を見せた。
「まあ! 玉芳さんったら、ご自身の好みに合わせて、茶の共を常日頃持ち歩くなんて、れっきとした茶道楽ですね!!」
拳を握って嬉しそうに采夏ははしゃいだ。
「やめて。茶道楽とかじゃない。采夏と同列に並べるのだけは本当にやめて。采夏に合わせてお茶を飲む時、飽きが来ないようにしてるだけ」
玉芳は速攻でいやそうに拒否したが、采夏の耳には入らなかった。
侍女と言うことで、采夏の側にいるとことあるごとに茶に誘われる。玉芳は別に茶が嫌いではないし好きな方ではあるが、さすがに采夏のペースに合わせていると飽きが来る。
乳はその飽きが来た時のためのものだった。
「ではでは、早速バター茶を二人でのみましょう!」
「いいけど、これ一人分しかないから。やっぱり私取りに行ってくる。采夏は一人で先に飲んでて」
「え!? そんな! それは流石に申し訳ないです。待ってますよ?」
「良いの良いの。というか、飲んでて? 私、采夏ほどお茶飲めないから、むしろ飲んでて。私が行ってる間に少しでも腹の中に茶を満たしておいて?」
「そ、そこまで言うのなら……」
強い口調で言われて采夏は思わず頷いた。
それに、今碗に入っている茶の熱が引いてしまう。
玉芳が司食殿に行くのを見送ると、采夏はお言葉に甘えて先ほど睨めっこしていた碧螺春の茶にヤクの乳を入れた。
かき混ぜて撹拌する。本当なら、専用の器具で撹拌するが、今は道具がないので仕方がない。
しばらくすると碗から、乳の甘い香りが漂ってきて、誘われるように一口飲んだ。
(美味しい……)
気持ちがほっとするような優しい味だ。
バター茶を味わっていると、ふと幼い時に出会った遊牧民の少年を思い出した。
屈託なく笑う彼は、今はどうしてるだろうか。
――パキ
微かな物音。
玉芳が戻ってきたのだろうかと顔を上げると、顔を布で隠した男の人がいた。
後宮で、黒瑛以外の男性をお目にかかる機会は少ない。
誰だろうか。どこかで会ったことがある気がする。
「貴方は……」
そう言って言葉を止める采夏。
顔が覆われていて、なかなか思い出せない。
采夏が戸惑っていることに気付いたのか、突然現れた男は慌てたように顔に巻いた布を解く。
「久しぶりだな。采夏」
そう言って、はにかんだように笑う。
住んだような青い瞳に、黒々とした髪を後ろで三つ編みにまとめている。浅黒い肌には張りがあり、柔らかく笑う姿に先ほどちょうど脳裏に浮かんだ遊牧民の少年の姿と重なった。
以前会った時よりも随分と大人っぽく、精悍になったが、あの時、采夏にバター茶と三道茶を教えてくれた少年だ。
「まあ、まさかウルジャお兄様ですか!? なんということでしょう。本当にお久しぶりです。でも、後宮でお会いするなんて……陛下のお客人としてこられたのですか?」
「ああいや、俺が客人というわけでなくて、客人の付き添いってところだな。そいつが姪に会いに後宮に行くっていうんで、俺も連れてこられたんだが、やつがいなくなって途方に暮れてたんだ。そしたらヤクの乳の匂いがしたから」
気安い口調に采夏は懐かしさがまさって思わず笑みを深めた。
「まあウルジャお兄様ったら、迷子だったのですね。確かにここは無駄に広いですから」
「俺が迷子なんじゃない。そいつが迷子なんだ」
ウルジャの言葉にくつくつと笑う。なんだか昔の幼かったあの時に戻ったようだ。
「久しぶりに会えたのが本当に嬉しい。采夏、伝えるのが遅れたが、皇后に立ったんだな。おめでとう。俺は青国の事情に詳しくないが、それでも、これがすごいことだってわかる」
ウルジャの祝いの言葉に嬉しくはなったが、同時に疑問が過ぎる。
なぜ、遊牧民族であるウルジャがここにいるのか。
先ほどは付き人と言っていたが、青国の人の付き人をするというのがまずありえない。
遊牧生活を捨てて、青国に移住でもしたのだろうか。
それに、付き人として後宮入ったということは……。
「はい、ありがとうございます。それにしても、燕春妃に会うために後宮に入れる方というと……ウルジャお兄様が付き人をされているのは、道湖省を治める呂賢宇様ですか?」
そう言った采夏の声は思ったよりも険しくなった。
それも当然だ。なにせ呂賢宇は碧螺春の味の変化について何か知ってるかもしれないのだから。
采夏の問いに、ウルジャが少し戸惑ったように目を見開くがすぐに頷いた。
「そうだが、何かあるのか?」
警戒するように問われて、采夏は少し迷ったが思い切って口を開いた。
「何か、あるといいますか、このお茶のことなんですけど」
采夏はウルジャに茶に濁った液体の入った茶碗を見せた。
バター茶だ。
「そういえば、采夏がバター茶を自分で淹れて飲むのは意外だな。初めて振る舞った時は、不評だったじゃないか。それとも、やっとバター茶のうまさにきづいたか?」
ウルジャはからかうように言った。
遊牧民が飲むお茶について知りたいと、わざわざ南州という遠い地からここまで来た時のことを言ってるのだろう。あの時采夏は、初めてバター茶を飲んで、正直微妙そうな顔をしたのを覚えている。
采夏の好みの話だが、茶は何も入れずに楽しむのが一番かもしれないと思ったできごとだった。
「不評と言いますか、バター茶はヤクの乳の主張が激しすぎるのです! せっかくのお茶の繊細な味が鈍くなって、ただただヤクの乳の甘さばかりが舌にまとわりつく。いえね、そう言う飲み物だと言われたら、おいしいのですよ。お茶の苦みがヤクの乳でまろやかになって、かつお茶の香ばしさも微かに残る。ですが、お茶を飲みたい! となった時にバター茶を出されたら、これは違うってなります!」
と少しふてくされたように言ってしまった。
だが、采夏にだって好みはある。
そんな采夏が可笑しかったようでウルジャはハハと声を出して笑った。
「で、それなのに、どうしてバター茶を飲んでるんだ? バター茶が飲みたい気分だったのか?」
「それは、呂賢宇様が持ってこられた碧螺春のせいです!」
「碧螺春の?」
「この碧螺春には果実味がないのです! 碧螺春を飲んだ時に微かに感じられる果実の新鮮な甘酸っぱい風味が、まったく! ないのです! だから、この碧螺春を飲んでいるとなんだか悲しくなってしまい……それならいっそのことヤクの乳で風味を鈍らせてしまおうかと思いまして。そうしたら、それが大正解でした。ヤクの乳の自己主張の高さが、私の繊細な悲しみもすべて飲み込んでくれるようで、純粋にバター茶として楽しめます」
ありがたいことに満足のいく味だった。
バター茶にするとおいしいと気づけた自分が少し誇らしい。
しかしすぐに不安な気持ちが浮上する。
「ウルジャお兄様は碧螺春の産地である道湖省を治める呂賢宇様と一緒にいらっしゃるのですよね? 碧螺春の茶畑に何が起こっているのかご存知ですか?」
「……悪いが、実際に茶を育てているところにはいったことがないから分からないな」
嘘は、ついてないように見えた。でも、何かを隠しているようにも見える。
「ウルジャお兄様は、どうして青国にいるのですか? テト高原での暮らしはどうされたのです?」
采夏の問いに、ウルジャは顔を曇らせた。
「……俺は遊牧民だ。心は常に平原の空にある」
ではなぜ、青国にいるのだろうと、采夏は眉根を寄せる。
そういえば、黒瑛からテト族との茶馬交易が断絶されたままだという話を思い出した。秦漱石が、テト族との交易をかってに断ったのだ。
そして、黒瑛が再度交易の再開を願い出たが、一度裏切った青国を許せずテト族は交易の再開を断ったと。となれば、テト族達は……。
「今までのようにバター茶を飲めてますか?」
采夏がふと口についた疑問に、ウルジャの顔が明らかに強張った。
「……今までのように、飲めてると思うか? 交易を絶ったのは、青国だ」
責めるような口調で言われて采夏は息を飲む。
いや、実際責められているのだ。
「確かに、そうですが、陛下は再度交易を再開したいと思っています。きっとこれから今まで通り」
「何を言ってるんだ? 今の皇帝も交易する気はないと聞いてるぞ」
采夏の言葉に、ウルジャが顔を険しくさせてそう言った。
思わず采夏は目を見張る。
(交易をする気がないと聞いてる……?)
そんはずはない。黒瑛は確かに、交易を再会させようと動いていた。
「どこにいるのだ!」
二人で戸惑うように見つめあっていると、誰かを探す男の声が聞こえてきた。
聞いたことない声だったが、ウルジャは誰の声か分かったらしい。
その声に反応して顔を上げた。
「悪いな。呼ばれてる。……会えて良かった」
そう言って、ウルジャは采夏に背を向けると茂みの中に入っていった。
突然の再開の喜びが消えて、なんともいえない気持ちを抱えた采夏は彼の背中を見送ることしかできなかった。
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