第54話呂賢宇
「わざわざ、北州からここまでの旅路ご苦労だったな」
皇帝、黒瑛はそう言うと値踏みするようにしげしげと叩頭する男を見やった。
年の頃は、四十程。
小柄な体躯の髭を生やした中年男で、名を呂賢宇という。
先日、後宮に入った妃、燕春の叔父にあたる。
呂賢宇は黒瑛の言葉を聞いてパッと顔を上げた。
糸目になるまで頬の筋肉を盛り上げたような笑顔を浮かべた呂賢宇は、実に人が良さそうだった。皇帝に会えたことを心底喜んでいるように見える。
「この度は陛下にご挨拶ができる栄誉を賜り誠にうれしゅうございます」
妙に甲高い声で呂賢宇はそう言うと、さらに口角を上げて見せた。
彼の人の良さそうな笑顔を見ていたら、一年前のことを思い出した。
テト族との茶馬交易の任を遂行することができず、顔面に悔しさと申し訳なさを貼り付けて自害すると訴えでた男こそ、今目の前にいる呂賢宇だ。
黒瑛が呂賢宇に会うのは一年ぶりだ。
(采夏に碧螺春の産地で何かあったのかもしれないという警告を受けたので会ってみる気になったが……なんと切り出そうか)
呂賢宇を見た感じでは、自分が納めている地に何か異変があると思っている風には見えない。
そう思ったところで、なにやら感じるものがあった。視線だ。
その視線の先を追うと、澄んだ青い瞳と行きあう。
呂賢宇のすぐ後ろに控えている従者の男だった。
彼は顔のほとんどを布で巻いて隠しているため、目とその周りぐらいしか露出していないが布の隙間から見える肌の色は浅黒い。
顔を布で隠すことは、自分よりもはるかに高貴なものと会う時の礼儀でもあるため、貴人の付き人が布で顔を隠すのはよくあることだが、彼の青い瞳は鋭すぎる。
「それにしましても、突然、姪から文が届いて驚きました。今年の碧螺春を持ってこなければ、兵をよこすと……。これは、冗談でございますよね?」
話しかけられて黒瑛はハッと視線を呂賢宇に戻した。
困ったような笑顔を浮かべる呂賢右と目があい、ちらりと従者に視線を移したが、その時彼はすでに青い瞳を伏せていた。
先ほどの視線が嘘だったかのように、静かに存在感を消して座っている。
黒瑛は、ここで考えても仕方ないと小さく息を吐き出した。
呂賢宇から碧螺春の話を振ってくれた今が問いかけるにはいいだろうと口を開く。
「はは、燕春妃の文は許してやってくれ。茶好きの皇后を想ってのことなのだ。しかし、よく碧螺春の茶葉を少ないながらも持ってくることができたものだ。確か今年は不作で、清明節の折にも献上もできないという話だったが」
黒瑛はそう問いかけると、呂賢宇はまさしくしゅんと音が鳴りそうなほどに素早く眉尻を下げて見せた。
「清明節の折は虫害のために陛下に献上するに値する茶がなく、誠に申し訳ございませぬ。申し開きのしようもございませぬ。今回お持ちいたしました茶葉は、雨期の後により芽生えた茶の葉にございます。春先よりかは大分回復いたしまして、このようにお持ちいたすことができました」
「ならば、碧螺春の産地の様子は例年通りで、問題ないのだな?」
黒瑛は努めてその部分をゆっくりと口にした。
「ええ、もちろんでございます。少々虫害にて痛めた茶木はありますが、今まで通りの様子で変わりございません。来年の春先には茶を献上したく思っております。ですが天の気候は下賤な私には預かりしらぬところのため、確実にお渡しできるかどうか、お約束ができないことが真に心苦しいばかりでございますが」
心底申し訳なさそうに目にうっすら涙さえ溜めて見せて呂賢宇は言う。
しかし言っている内容としては、来年も碧螺春の茶葉を献上できないことに対する予防線のようにも感じる。
(碧螺春の産地に特に変化はない、か。それは異変に気づいていないだけか、それとも気づいていながら俺に偽りを言ってるのか……)
茶道楽の采夏が、碧螺春の産地で異変が起きていると言った。ならば、確実に異変は起きている。例年通りであるはずがない。
黒瑛は呂賢宇の真意を測ろうと、彼を見るも変わらず人の良さそうな笑を浮かべるのみ。なんとなく毒気を抜かれる。
(采夏がいたら、こんな時どうするだろうか……)
ふとそんな考えが浮かんだ。
碧螺春のことが気がかりだった采夏は、自分も呂賢宇に直接会いたいと言ってきた。
皇后である采夏は他の妃と違って、政にも口を出せる。こうやって臣下の謁見に同席しても問題ない立場だ。
だが、采夏が碧螺春のことで少々興奮状態というか冷静ではない様子だったので、呂賢宇との謁見は辞めさせてしまったのだが。
あのまま采夏がここにいたら、どうなっていたか。絶対にひと騒動起きるのは目に見えているが、しかしだからこその解決の糸口を見つけ出せたのかもしれない。
黒瑛は助けを求めてチラリと斜め後ろを見る。
黒瑛のお目付役とでもいった立場で、現在は皇帝を補佐する三公の一人『太師』の任についている陸翔だ。
事務系の仕事をほぼほぼ一人でこなしている陸翔は、もともと細かったがここ一年で随分と痩せた。やつれたと言った方が正しいか。
そんな陸翔に助けを求めて見てみたが、メガネの奥の瞳が鋭く細められて黒瑛を見返してきた。
これぐらい自分でなんとかなさい。
そう言われている気がした。
幼き頃の学問の教師でもあり、今現在かなりお世話になってる陸翔には逆らえない。
黒瑛は小さくため息を吐き出すと思い切って口を開いた。
「特に変化はないというが、碧螺春の茶の味が変わったと皇后が言っていたぞ。何か心当たりはないか」
腹の探り合いが得意というわけではない黒瑛は、そのまま直接問いただすことにした。
陸翔から小さく呆れたような溜息が聞こえたような気がするが、気にしない。
黒瑛は呂賢宇をみつめた。黒瑛の質問にどんな反応を示すか、確かめるために。
黒瑛に、茶の味が変わったことを指摘された呂賢宇は驚いたように僅かに目を見開いた。そして、一瞬、不機嫌そうに眉根を寄せたような気がした。
しかしそれはほんの一瞬で、彼はすぐに困ったような笑みを浮かべる。
「茶の味が変わった、ですか? はてさて、私にはわかりませんでしたが……虫害のせいでしょうか」
その顔に害意はなさそうではあった。
だが何か、隠しごとをしている気もする。
内心で警戒を高めた。だが、強くいうことも憚られる。
壬漱石を追い出し、実権を握ったとはいえ、臣下や辺境地を治める四大州の族長の信頼を得ているかどうかというと、微妙な立場の黒瑛だ。
北州の族長一族である呂賢宇にたいして誤った対応をすれば、どうなるか。
未だ黒瑛は薄氷の上の王であった。
「そうか、虫の害による味の変化か。一度皇后にはそう伝えておこう。ああ、そうだ、呂賢宇よ、せっかく都まできたのだ。しばらくここに滞在するがいい」
黒瑛がそう言うと呂賢宇は大きく目を見開いた。黒瑛は続けざまに言葉を添える。
「そなたの姪も、突然後宮で暮らすことになって少々塞ぎ込む時もある。そなたがいれば心強かろう」
「は、いや、ですが、私など……」
「なんだ。まさか、余のもてなしを受けられないと申すのか?」
戸惑ってる様子の呂賢宇に、黒瑛は有無を言わさぬ口調でいってのけた。
皇帝からの誘いを断れるわけがないと分かっていての言葉だ。
「そ、そんな! 滅相もございません。も、もちろんにございます! 陛下のお誘いは誠に名誉なこと! お断りするはずがございませぬ!」
そう言って笑みを浮かべる呂賢宇を、黒瑛は冷静に見下ろしていた。
これで少しだけ、調べるための時間に猶予ができた。
碧螺春の味の変化の裏に何か大きな事件が隠されているかもしれないし、そうでもないかもしれない。
わざわざ黒瑛自ら調べる必要がない可能性の方が高いが、なんとなく気になる。
そう思っていると、ふと再び強い視線を感じ取った。
視線の元に目をやると、また、あの鋭い青の瞳。
呂賢宇の従者の男からだった。
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