第50話 黒瑛、お茶を飲む

 呆然とした状態で黒瑛は食卓についた。

 風に荒らされた机や床を見て衝撃を受けたが、今思えば逆に良かったのかもしれない。

 その時は気づけなかったが、身体に溜まった疲労はたいそうな物だった。

 実際、机に齧り付くようにして励んでいたつもりだが、いつもよりも効率が悪く、思ったより進んでいない。采夏の言う通り休息が必要なのだ。

 黒瑛は改めて一息つくと、目の前の昼餉を見やる。

 ひごろなら好んで属しているものだ。料理人もあまりものを口にしない黒瑛のための考えて作ったのだろう。

 だが、やはり、食欲がわかない。

 だが、何か口にした方がいいことは自分でもわかっている。黒瑛は考えた結果、羹に手を伸ばした。豚肉と根菜の羹は黒瑛の好物だ。

 一口だけでもと飲もうとしたが、羹の上に浮いている豚の油を見て手が止まる。

 どうも食べる気になれない。


「あまり食欲がわきませんか?」

 心配そうな采夏の声。

 心配ないと言って安心させてやりたかったが、そんな余裕もなかった。


「すまない……」

「でしたら、こちらならいかがでしょうか?」

 采夏はそう言うと、少々白濁した茶色飲み物を黒瑛に差し出した。

 最初、お茶かと思ったが、少し違う。

 采夏が差し出したそれは、少々濁っているのだ。

 今まで災采夏が入れてくれた茶と明らかに見た目が違う。

 だが、香ってくる匂いは茶のものと、そして独特の甘い香り。

 これは……。


「この匂いは、羊の乳か?」

「はい、ヤクの乳です。こちらの茶は、以前親交のあった遊牧民族の方から教えてもらったもので、バター茶と言います。濃い目に淹れた茶に、塩を少々。ヤクの乳を入れることで苦味や渋味をまろやかにしているので、飲みやすいかと」

 采夏の説明をききながら、光の当たり具合では黄金のように輝く茶を見つめていた。

 お茶の爽やかな香りに気分が落ち着き、そしてバターの独特な甘い香りが食欲を起こす。

 これなら飲める。

 そう思った時にはすでに黒瑛はバター茶に口をつけていた。

 まず舌に感じたのはバターの甘味。

 香りの強い分、苦いと思われた茶が、乳によってまろやかになって喉に流れてゆく。


(なんという優しい甘さだ……! その甘さも、僅かに入れられていた塩によってより引き立てられているようだ。これは茶であって、茶ではない!)

 そう思ったところで……黒瑛は赤子になっていた。

 何を言っているかわからないかもしれないが、黒瑛だって分からない。

 ぎゃあぎゃあと泣くしかできない小さな身になっていた。

 一体己が何を悲しく感じて、何が嫌で泣いてるのかもわからず、ただただ泣き続ける。

 そして黒瑛は救いを求めて手を伸ばす。そこに安心があるのを確かに知っているのだ。

 そう、それは……ほとんどの哺乳動物が生まれて、最初に口にするであろう飲み物……乳。

 安心の甘みを確かに感じ取った赤子の黒瑛は、ふわふわとした気持ちで目を開けると、頬を染めてうっとりした顔でこちらを見つめる采夏を目があった。


「相変わらず陛下は、本当にお茶を飲む天才ですね」

 ほうと感嘆のため息混じりに呟く采夏を見て、黒瑛は『茶酔』と呼ばれる状態になっていたことに気づく。先ほど采夏が淹れてくれたバター茶なるものはすでに空だった。

 先ほど赤子のようになったような気がしたが、もちろん赤子になっていたわけではない。

 茶道楽の采夏曰く、お茶を飲んで飲酒した時のように酔う状態のことを言うらしく、茶酔状態の黒瑛は突然心象風景の世界へと飛ばされるのだ。


「良かった。少し顔色が良くなりましたね」

 またしても茶酔と言うわけのわからない状態になったことに少々恥いっていた黒瑛の耳に、采夏の穏やかな声が聞こえた。


「ヤクの乳はとても栄養価が高いと聞いたことがあります。疲れた陛下のお体に滋養が染み渡ったのでしょう。まだ飲めるようでしたらまたお作りしますが、いかがいたしますか?」

 どうやらバター茶は采夏が黒瑛の身を思って、淹れてくれた茶だったようだ。

 そのことが嬉しく、こそばゆい。采夏は、すぐに茶酔状態になる黒瑛を茶飲みの才能があると評したが、黒瑛が酔うのは采夏の茶だけだ。

 どちらかといえば、すごいのは采夏の茶なのではないかとそう思う。 


「……そうだな。もういっぱいもらえるか。それとやっと食欲も沸いてきた。こちらの昼餉もいただこう」

 少しだけ顔に血色を取り戻した黒瑛がそう言った。


「そういえば、これは、遊牧民族が教えられた茶だと言っていたな。そなたに遊牧民族の知り合いがいたとはしらなかった」

 食事をしながら、黒瑛はふと思ったことを口にした。

 約束通り黒瑛の執務室の片付けていたさいかは顔を上げる


「だいぶ前ですが、遊牧民の間で流行っているバター茶の存在を聞き及び、是非飲みたくてちょうど交易でこちらにきてきた遊牧民の方を捕まえて教えてもらったのです」

 茶のことになるといつも目を輝かせて語る采夏が愛おしい。好きなものがあるのはいいことだと。采夏の場合は少々好きが行き過ぎているが。


 黒瑛は思わず穏やかに目を細める。


「みなさん、とてもよくしてもらえたのです。とくに、ウルジャお兄様は、バター茶意外にも遊牧民族特有の茶の飲み方を教えてもらいました」

「ウルジャ? 男の名か?」

 遊牧民族の名はあまり耳なれないが、どことなく名に男の気配を感じとった黒瑛はそう聞き返した。


「はいそうです。私の五つ上で、歳が近いのもあって仲良くしてくださいました。ここ数年は会えていませんが、今頃どうしているでしょうか」

 懐かしむような采夏に黒瑛はなんともいえない気持ちで見つめた。

 バター茶なるものを教えたのは男。

 はっきり言って面白くない。

 しかし相手は、小さい頃にちょっと会っただけの男だ。

 これで嫉妬心を見せたら流石に呆れられるような気がした黒瑛は、必死で顔には出さないように努める。


「ふーん。いろいろ教えてもらったんだな。遊牧民族というと数多いると思うがどこの部族だ?」

 なんとなく探りを入れてしまった黒瑛だが、幸なことに黒瑛の言動に引っかかりを覚えることなく、采夏は笑顔をこぼす。


「北方のテト高原で遊牧生活を行なっているテト族です」

「……テト族?」

 テト族と言う単語に思わず黒瑛は反応した。

 遊牧民族は馬の扱いに慣れているが、中でもテト族の育てる馬の質は素晴らしいことで有名だ。青国は数年前まで彼らが育てた良質な馬を得るために茶馬交易を行なっていた。

 行なっていた、と過去系になったのは、今は断交しているためだ。秦漱石が勝手に交易を打ち切ったのである。

 それはもちろん、国内に馬を増やさないために。

 馬とはすなわち武力だ。国内のものが自分に逆らう力を得ないように、馬の交易を絶っていたのである。


 秦漱石を追いやり、実権を取り戻した黒瑛がまず行なったのも、テト族と接触を図ることだった。

 テト高原と隣接する北州の長一族、呂家の者に茶馬交易再開の名を下した。

 だが、残念なことに、茶馬交易再開は成されなかった。

 以前不義理をして断交したことをテト族達はまだ根に持っていると、実際に交渉に当たった北州長一族の者が言っていて。


(まさか、こんなところでまたテト族の名を聞くことになるとはな。茶馬交易の再開がなされなかったことも痛手だったが、あの時の呂賢宇の騒ぎを抑えるのも頭が痛かった)

 茶馬交易再開の任を実際に受けたのは、北州最大の茶の生産地である道湖省を束ねている呂賢宇と言う者だった。

 交易再開の任務を果たせなかった呂賢宇はこの世の終わりのように泣いて黒瑛に頭を下げ、このような不忠者が生きてる価値もなし! などと言って自決しようとするような有様だった。


 交易再開が果たされなかったことは痛手だが、テト族の言い分は最も。その責任を呂賢宇一人に押し付ける訳にもいかない上に彼は北州を収める北州長呂家の一族の者だ。それを簡単に処しては黒瑛の名声が傷つく。


「テト族の方は、お客様に三つの茶をご馳走するんです」

 テト族についてのことで少々思い悩んでいた黒瑛の耳に、采夏明るい声が響く。思わずハッとして意識を戻すと、采夏が輝かんばかりの笑顔を浮かべていた。


「……三つの茶か。へえ、どんなお茶なんだ?」


 采夏の笑顔に気が抜けた黒瑛は、テト族との問題を脇に置く事にしてそう話を合わせる。今ここでその問題について考えても致し方ない。


「よろしければご用意しましょうか? 口で説明するよりも、実際に飲まれた方がきっと楽しめます」

 そう提案する采夏の手はすでに茶を用意したくてたまらないようで、先ほどから脇わきと指を動かしている。

 黒瑛は思わず笑って、采夏に茶の準備を頼んだ。

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