第51話 三道茶

 そうして采夏はいそいそと茶を淹れた。いつもは茶葉と湯さえあれば、美味しいお茶が出来上がるが、テト族の三道茶はそう簡単ではないらしい。

 チーズに、胡桃に、シナモンや生姜などの薬味を持ってこさせていた。

 普段とは違う様子に黒瑛は驚きつつ見守っていると、早速とばかりに茶が出てきた。

 色味は、普段飲んでいる茶よりも茶色が濃い。


「……これは、茶葉を鍋で煮出したように見えたが」

 恐る恐る黒瑛は確認する。その茶色の濃さを省みるに、相当苦そうだ。


「これはテト族が特別なお客様にお出しする三つのお茶の一つ、『苦茶』です。仰せの通り、これは茶葉を鍋で煮込んで作っております。茶葉は龍井茶を使用しました」

「苦茶……」

 名前まで苦そうだ。


(というか、これは俺が、采夏に出会う前まで飲んでた茶だな……)


 采夏と出会う前までの黒瑛は茶を薬として飲んでいたため、茶葉を鍋で煮込んでその煮汁を飲んでいた。じっくり煮込むので当然苦い。

 苦いものが苦手な黒瑛は、当時あまり茶が好きではなかった。

 目の前の『苦茶』なるものは、まさしくその時に飲んでいたお茶に似ている。

 正直あまり気は進まなかったが、三道茶が飲みたいと言ったのは自分だ。

 せっかく采夏が用意してくれたものを断れるはずがなく、黒瑛は恐る恐る口に含む。


(これは……!)


 舌の上でガツンとくるほどの苦味が襲ってきた。


(苦い、苦いが……まずいと言うわけではない。うん、飲める。なんとか)

 黒瑛は一気に苦茶を飲む下す。

 そして、何故か、ふと秦漱石の顔が浮かんだ。

 兄を失ってから。ずっとずっと殺してやろうと思っていた。

 兄の敵討ちのために、怒りと苦みを抱えて耐え忍び、傀儡を演じていたあの頃。

 秦漱石の横暴に忠臣を失い、民は疲弊していく。

 それを見ることしかできない己の無力さ。

 あの時の苦々しい日々が、お茶の苦みとともにふつふつと記憶に沸き上がる。

 だが、苦々しい気持ちを抱くだけではない。苦茶は黒瑛をどこか冷静にさせた。

 もう秦漱石はいないが、それでも黒瑛はあの日々があったからこそ、今がある。そう思えた。

 国のため、民のため、黒瑛が今まさに立て直そうとしているのも、もうあの頃のような状況に戻るわけにはいかない。

 仕事で疲弊し、まだ微かに朦朧としていた意識が、苦味のおかげで覚醒していくのを感じる。

 今ここで無理をして倒れるわけにはいかない。

 もし倒れて仕舞えば、きっと第二、第三の秦漱石が現れて、国を貶めるだろう。


「テト族が出す三道茶は、人が今まで生きてきた軌跡を示してくれるものだと教わりました。最初のお茶の苦茶は、苦しい時期のことを思い描かせます」

 采夏の言葉に黒瑛は深く頷いた。

 正直なところ、苦味が苦手な黒瑛は、あまり好きな味ではない。だが、自分を見つめ直すきっかけにすることができた。そう感じられる茶だった。


「次はこちらの茶をお召し上がりください。三道茶、二番目の茶、甜茶です」

 どうやら黒瑛が苦茶に思いを馳せている間に、次の茶の用意をしていたらしい。

 差し出された碗の中には、先ほどの苦茶よりも赤みのある優しい色の液体があった。

 しかも底の方に、何か粒のようなものがある。

 碗と一緒に差し出された匙を使って黒瑛はそれを掬い上げた。

 砕かれた胡桃だ。胡桃の実が茶の底に沈んでいる。

 どういった茶なのか、采夏に尋ねようと思ったが、黒瑛が茶を飲むのをどこかワクワクした面持ちで見つめているようだったので、黒瑛は黙って碗を口にした。

 そして一口啜ると、今まで飲んだお茶と全く違う甘味を感じて思わず目を見張る。

 甘い、ただただそう思った。

 今まで飲んできたお茶の控えめな甘さとは違う。ねっとりとしたコクのある甘さ。まるで菓子でも口にしているかのような甘さだ。


 加えて胡桃の香ばしい風味が茶に染みている。

 想像した味とは違うが、これはこれで美味しい。

 黒瑛はそのままぐいっと碗を傾けて茶を煽った。

 するとふわりと、夢心地な気分になり、気づけば黒瑛は後宮の庭園にいた。

 いや、実際にそこにいるわけではない。ただ、魂だけがかつてのあの場所にとんでいったような心地だった。

 魂になった黒瑛はふよふよと後宮の内庭を彷徨い歩く。

 あの場所に行かねばならない、そんな気持ちに駆られ、ふわふわとした気持ちとは対照的に足が迷いなく歩を進める。

 そして、出会ったのだ。

 後宮の庭の奥の奥に、大きな岩を卓にして、ちょこんと上品に座る彼女の姿が。

 出会った頃の采夏だ。

 胸の中で、愛しい思いが込み上げていく。彼女は柔和な笑みを浮かべて、お茶を飲んでいた。

 そうだ、ここから。ここから始まったのだ。

 今まで幸せとは縁遠かった黒瑛の、愛しい日々が。


「甘いな……」

 現実に戻った黒瑛は思わずそう零した。

 口元には思わず笑みが浮かぶ。


「こちらの甜茶には、先ほどの苦茶を薄めた上に紅糖が入っているのでとても甘くなっているのです」

「なるほど、紅糖か。通りで菓子のように甘いと思った。……いい味だな」

 黒瑛がしみじみ言うと、采夏はふふと軽やかに笑い声を立てた。

「陛下は、甘党ですから、そう仰ると思ってました。では次は、三番目のお茶、回味茶です」

 そう言って、釆夏はまた別の碗を出す。

 蓋を開けると、明らかに今までの茶とは違うとわかる刺激的な香りがした。


 茶の中には、また胡桃のカケラが見える。胡桃の他にも、薄く切った生姜やシナモンなどの薬味が見えた。

 この独特な香りはその生姜やシナモンからくるものだ。


 黒瑛はその刺激的な香りに誘われるようにして茶を飲んだ。

 香りから想像していた通り、口の中に刺激的な風味が暴れ出す。

 辛み、甘み、苦み、複雑な風味が口の中でくるくると踊り出す。

 それとともに、脳裏にまた心象風景が浮かんだ。


 兄を失った悲しみ、自分の非力さを恨み復讐を誓った幼い黒瑛。そして、秦漱石を倒すために傀儡を演じた屈辱の日々。

 そして采夏との出会いと今までの忍耐が実りを結んだ政変の時。

 そこまでのことが一気に黒瑛に降り注いだ頃、いつのまにか黒瑛は皇帝の玉座の前にいた。


 玉座には、一人の壮年の男が座っている。

 白髪が少し見え、顔には皺が刻まれているが、溌剌とした顔からは王気が見えるようだった。

 その様を見て、黒瑛ははっきりとわかった。

 今目の前に対峙している壮年の男は、未来の己だ。

 余裕の笑みを浮かべた未来の黒瑛は、面白そうにマジマジと黒瑛を見下ろしていた。

 少しバカにされてるような気がして、黒瑛が顔を顰める。


「まだ、お前には、この茶は早い」

 未来の黒瑛はそういって、追い払うように手を払う。

 ハッと黒瑛は目を覚ました。


(意識が飛んでいた。また茶に酔ったのか……)


 現実に戻った黒瑛は、茶酔しやすい己の体質に呆れ返っていると、目の前の采夏が頬を染めて黒瑛に見入っていた。


「本当に、陛下は楽しそうに、美味しそうにお茶を飲まれるので、淹れ甲斐があります」

 ほうとため息まじりに采夏が零す。


「そ、そうか……」

 一体どんな顔して飲んでいたのか分からないので、正直恥ずかしい。黒瑛は気まずい思いを隠すように、口を開いた。


「この回味茶は、なんというか、変わった味だな。甜茶と同じような甘みがありつつ、独特な風味があって、悪くない」


「こちらの回味茶は、仰せの通り、紅糖と胡桃、それにシナモン、生姜をはじめとした薬味を入れております。悲喜こもごもな人生を思い返すお茶と教えてもらいました」

「なるほど、人生を思い返す茶か……」

 確かに、黒瑛は人生を思い返していた。だが、途中で、まだ早いなどと言われたわけだが。


「苦茶に、甜茶に、回味茶。それら三つを合わせて三道茶か。それぞれ違う味わいだった。人の生を表すものだと言うのも頷ける」

 先ほどの己の心象に浮かんだ景色を思い返しながら黒瑛がつぶやくと、ふと気付いた。


「苦茶は確か、人生の苦々しい日々を表し、回味茶は人生を思い返すお茶だと言っていたが、甜茶は何を意味するんだ?」

 黒瑛はそう言いながら甜茶を飲んだ時に垣間見えたものを思い起こした。

 出会った頃の采夏の姿を。


「はい、甜茶が示すのは……」

 と采夏が説明するより前に、黒瑛は口を挟んだ。


「甜茶を飲んだ時、采夏と出会った時のことを思い出した。采夏が私に微笑みかけてくれていた」

 あの時みた光景を大切に思い返すように、どこかうっとりとした口調で黒瑛はそう答えると、采夏がはたと目を丸くさせた。

 そしてみるみると肌を赤らめる。


「ど、どうしたんだ? 風邪か? 耳まで真っ赤だぞ?」

 黒瑛がぎょっとしてそう尋ねると、采夏は慌てて首を左右に振る。


「だ、大丈夫、です! 風邪とかでもありません! 気にしないでくださいませ!」

 気恥ずかしそうに真っ赤に染まった頬を手で押さえながら、采夏が言う。


「本当に、問題ないのか?」

 伺うように黒瑛は再度尋ねるが、采夏は大丈夫ですの一点張りだった。

 しばらくして采夏は、何度か呼吸をしてから黒瑛の方を見る。

 まだ少し頬は赤かった。


「あの、甜茶が表すものがどのようなものなのかという話なのですが……その、うっかり忘れてしまったので、わかりません。申し訳ありません」

 消え入りそうな声でそういう。どこかこれ以上追求して欲しくなさそうな様子なので、黒瑛は不思議に思いながらも「そ、そうか」と応じるにとどめた。


「あの、では、陛下、その、散らかった部屋は私が片付けますので、少し仮眠してくださいませ」

 くるりと黒瑛に背中を向けて采夏がいう。


「そ、そうか。そうだな、すまない。体に限界が来ていることをやっと実感したところだ。……少し、休ませてもらう」

 眠る、という話をしたところで、急激に眠気が襲ってきた。

 今から休めると思った体が早く眠りたいと主張しているようで、瞼が重くなる。

 黒瑛はそばにあった長椅子に倒れるように横たわると、目を閉じて深い眠りに入ったのだった。


 ◇


 完全に意識を手放した黒瑛の側により、采夏は腰をかがめて黒瑛の寝顔を見つめた。

 まだ采夏の頬の熱は引かず、黒瑛を見つめる瞳には熱があった。

 未だ熱っている自分の頬に手を添え、寝ている黒瑛の顔を近くで見ながら、采夏はポツリと呟く。


「人生を表す三道茶。最初の苦茶は、若かりし時の苦しい時期を表し、最後の回味茶は、年老いた時に人生を振り返るような複雑な味わい、そして甜茶は……甘く幸せな人生の喜びを表すのです……」

 人生の喜びを表す甜茶。それを飲んだ黒瑛は、采夏との出会いを思い出したと言っていた。


 それはつまり人生において最大の喜びが自分との出会いだと言われたも同然だ。

 好いている人にそのように言われて、赤面しない乙女がいるはずがない。

 周りから茶道楽だ変わり者だと揶揄されがちな采夏だが、これでも一応恋する乙女である。

 采夏は未だ高鳴る鼓動を抱える胸を押さえながら、何も知らずに眠りに落ちた黒瑛の顔をただただ見つめたのだった。

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