第48話 皇太后のお願い

 妃が采夏ただ一人という静かな後宮での生活は、果てしなく穏やかだ。

 好きな時に、お茶が飲め、好きな時に茶が摘める。采夏にとって最高の環境である。

 ただ、一つ、問題があるとすれば。


「なんで、陛下はいらっしゃらねえのかしら!!」

 玉芳は鼻息荒くそう吠え立てた。敬語と乱暴な言葉使いが入り乱れている。

 采夏はその声を横で聞きながらいつも通り茶を啜る。

 今日の茶は、大好きな龍井茶だ。

後宮で育てているものではなく、龍井村で作られている高級茶である。

 ここ最近は不思議と龍井ばかりを飲みたくなる。

 そのことに気づいた采夏がふと理由を探ると、黒瑛の顔が浮かんだ。

 黒瑛と采夏の出会いは龍井茶で始まった。

 龍井茶を飲むと、黒瑛のことを思い出す。

 玉芳のように声を荒げたりはしないが、采夏も黒瑛に会えない日々に寂しさを感じているのだと気づいて微かに苦く微笑んだ。


「仕方ありません。今はとてもお忙しいのですから」

 自らの寂しさを茶とともに飲みこんだ采夏はそう言った。

 黒瑛と会ったのは、新しく四人の妃を娶る予定があると謝罪された時が最後。

 別れ際にまた会いにきて欲しいとお願いし、黒瑛は応じてくれたが今でもその約束は果たされていない。

 だが、采夏も黒瑛の置かれている立場は理解している。

 宦官・秦漱石によって荒れに荒れた国を建て直すのは大変な労力だ。

 しかも黒瑛は傀儡の皇帝から、やっと実権を手に入れたばかり。信頼できる臣下が少ない。

 彼の状況を知っていて、あまり我儘なことは言えなかった。

 しかし采夏の物分かりの良い言葉に、玉芳の方が眉を釣り上げた。


「とは言ってもさ! 最近ずっと後宮に足を運ばないじゃん!? これで、他の妃がきたとたん、陛下の足が後宮に向かうようになったらどうなると思う!? やっぱりあの変わり者の皇后はお飾りだとか、寵愛を失ったとか言われるでしょ!? 私そんなの我慢ならない!」

 玉芳は丁寧な言葉遣いを忘れて、怒りのままに言葉を並べる。

 彼女の素直さに思わず采夏が笑みを浮かべていると、来客の知らせが来た。

 華やかな茉莉花の香りが微かに漂う。

 訪れた来客が召している上等な衣を認めた玉芳は深々と頭を下げ、采夏は椅子から立ち上がった。


「皇太后様にご挨拶を」

 そう言って、片手を肩まであげて腰を落として礼をする采夏の頭上に「楽にして」と穏やかな声が降ってくる。

 皇后である采夏が後宮内で礼儀を尽くす女性はただ一人。青国の皇帝・黒瑛の母である永皇太后だ。

 采夏は上座まで皇太后を案内するとその隣の椅子に座った。


「皇太后様、本日はどうされたのですか?」

「それがね、陛下のことでお願いがあって」

「陛下のこと、ですか?」

 切羽詰まったような声でそう言われて采夏は目を見張った。

 戸惑う采夏の横から、男の声がかかる。


「お久しぶりね」

 そう声をかけてきたのは、皇太后が連れてきた宦官の袍を着ていた。

 すらりと背が高く、宦官にしては引き締まった体型の男を見て、采夏はハッと目を見開いた。


「礫様……! お久しぶりでございます」

 虞・礫。皇帝黒瑛の腹心の部下である。宦官に扮しているが、武官だ。変装を得意とし、黒瑛の影武者のようなことも行うこともある。


「本当はもっとゆっくり話したいんだけど、時間がなくて、単刀直入いわね。陛下を無理矢理休ませて欲しいのよ」

「無理矢理、休ませる?」

「そう、陛下の忙しさがね、もうやばくて……。ほとんど毎日寝ずに仕事しちゃって最近顔を見るたびにやつれてきて、目が死んでるの」

「陛下が……」

 最近顔を合わせていない間にどうやらそんなことになっていたのかと采夏は目を見張る。


「私の方からも何度も体を休ませるように言っているのだけど、聞いてくれないのよ。あの子は、小さい頃から、本当に、母である私のいうことなど全く聞かない子だったから……」

 皇太后から疲れ果てたような声でそう言った。


「でも、あなたの言葉なら聞いてくれるんじゃないかと思って。ね? 陛下を休ませてあげてくれるかしら」

 皇太后の必死の顔でそう言われ、采夏は思わず頷いていた。


 皇帝黒瑛が、不眠不休で仕事に打ち込み過ぎていて目が死んでるのでどうにかしてほしい。

 そう皇太后と礫にお願いされた采夏は懐かしい服を着込んでいた。

 黒瑛の後を追って外遊についていった時に来ていた、下級の宦官服である。

 変装をする理由は、采夏が黒瑛のいる外廷に入ると周りに騒がれるかもしれないと思ってのことだ。

 青国の皇后は、他の妃とは別格で、政務を行うことさえできる。

 そのため外廷ならば、皇后である采夏は立ち入ることができるのだが、采夏は政には関わらない皇后として今まで後宮に籠っていた。

 それが突然外廷にはいれば、周りに驚かれる。

 そのため、采夏は、宦官に扮し、変装の達人である礫の化粧によって一見するだけでは皇后であることがバレないようにしてもらった。

 とは言え、人に見つかる危険性はあるので、采夏はこそこそとできる限り気配を消して歩く。

 そうして、食事を持って黒瑛の執務室の前まで来ると、見張りの男が声をかけてから中に入る。

 無事に黒瑛の執務室に入れたことに少々ホッとしながらあたりを見渡すと、机に向かってただひたすら筆を走らせている黒瑛を見つけた。

 その姿を見て、采夏は礫と皇太后があれほど必死になって采夏に頼んできたことに得心がいった。

 一目見ただけで、無理をしているのだとわかるほどに、黒瑛の姿はやつれている。

 黒瑛の長いますぐな黒い髪には艶はなくボサボサと荒れている上、肌の色も悪い。

 少々落ち窪んだようになった目は真っ赤に充血しており、長らく睡眠すらろくにとっていないことがわかる。


「陛下……」

 采夏がそっとそう声をかけたが、黒瑛はその声にピクリとも反応しない。

 すでに周りのことに気遣う余裕はないようだった。

 采夏は持ってきた食事を側の卓において、部屋を見渡す。

 机の上だけでなく床の上にも書簡が積まれていて、荒れ放題だ。


 采夏は静かに歩みより、そしてつま先に何かがあたった。床に落ちている書簡の束である。采夏は思わずそれを拾い上げるとぱらりちと中身がちらりと見えた、

 そこに記されていたのは『足りない』という内容の走り書きだ。

 いけないこととはわかりつつも、思わず書簡の内容に目を落とす。

 軍部を束ねる司武省から保有する備品の一覧と数が記されていた。

 政や軍事に関してほとんど素人である采夏にも、そこに記された軍部に関する備品の数が少なすぎるのはわかった。

 秦漱石が宮中を牛耳っていた時代、軍部の縮小が進んだ。

 国内の軍部の力が強くなることで、秦漱石を打倒しようとする勢力が力をつけるかもしれないと恐れたのだ。

 だが、それが今になって青国に黒い影を落としている。

 青国は大国だ。かつて数多の戦を制して広大な土地を得た。

 青国に併合されていない周辺諸国は、強大な青国を恐れている。

 だが、実際は、秦漱石によって国の武力は格段に落ちていた。

 これが知られてしまえば、青国の肥沃な土地を狙ってまた戦が起き、そして青国が負ける。

 采夏は、その書簡で国の窮地を知り、そして黒瑛がここまで必死になって仕事に打ち込む姿にも納得できた。

 だが……。

 顔を上げると、まだ采夏がきたことにも気づいていない黒瑛が目に入る。

 筆をはしらせ、印を押し、そして別の書簡に目を通し、頭を掻きむしる。

 眉間には深く皺が刻まれて、目の下の隈は深い。

 もう、限界が近づいている。

 采夏は大きく息を吸った。


「陛下!」

 大きくそう声をかけると、やっと黒瑛が顔を上げた。

 どこか焦点の定まらないような目で采夏を見ると、また視線を下に戻した。

「食事か。卓に置いたのならもう戻っていい」

 そういって、また筆を走らせる。

 やってきたのが采夏であることに気づかなかったようだ。


(どうしましょうか……)

 このまま引き下がるわけにもいかないが、黒瑛が大人しく采夏の言うことを聞いてくれる気もしなかった。

 迷うように視線を彷徨わせると、とある小さな卓が目に入る。そこには、手付かずの朝餉が残っていた。


(もしかして、今日はまだ何も召し上がっていない……? いえ、もしかしたら昨日だって……)

 采夏はなんだか、もやもやした。

 いや、イラッとしたと言った方がいいかもしれない。


 食事に手をつけずに仕事ばかりに打ち込む黒瑛に苛立ったのか、それともそうさせた秦漱石に苛立ったのか、もしくは、今まで黒瑛の苦労に気づかずにのうのう後宮で楽しく過ごしていた自分自身かもしれない。

 采夏は引き返して扉を開けると、側にいた見張りの男に言った。


「火鉢と鍋を持ってきてください」

 その時の采夏の目は据わっていた。

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