2章 寵妃は愛で茶を沸かす

第45話 プロローグ

果てしなく広い草原に建ち並ぶ白い移動式住居に爽やかな風が吹き付ける。

微かに暖かみを帯びた風に誘われて草の芽が地面に顔を出し、芽吹いた緑をヤクや馬などの家畜らが食む。

ここは青国の北に位置するテト高原。

 いつも穏やかな時間が流れるその場所で、悲しみに濡れた声が響いた。

「テト族の偉大なる族長は、神のもとに帰られた」

 一人の老人がそう告げた。

 老人の前には、頬をやつれさせた男が横たわっている。年齢にして四十程。

 勇猛果敢な戦士であり、遊牧民族テト族を導いてきた長だった。

「ウルジャ、今からそなたが新しい族長だ。テト族を率いる者(テティン)の名を引き継ぐのじゃ。テティン・ウルジャよ」

 老人にそう告げられたのは、浅黒い肌をした青年だった。

 短く黒々とした髪と鋭い青の瞳を持った青年は、ただまっすぐにテト族の元長を、自分の父親の亡骸を見つめていた。

 父が、体を弱らせたのはつい先日だった。それまでは健康だけが取り柄の誰よりも強い戦士だった。

 だが流行り病にかかり、あっけなくこの世を旅立った。


「族長が、亡くなったのは。青国の奴らのせいだ」

 憎しみを帯びた声がどこかから聞こえる。


「茶さえあれば、族長は助かった」

 続くその言葉に、ウルジャは悲しそうに目を伏せた。

 六年前まで、青国とテト族は、茶と馬の交易をおこなっていた。

 テト族が育てた強い馬と、青国の茶葉の交換貿易だった。

 肉と乳が中心の食生活を送るテト族にとって、お茶は貴重な栄養源であり、命の水だった。

 お茶が生活に溶け込むにあたって、テト族の寿命は格段に延び、体も強くなった。彼らにとってお茶は生活の一部だったのだ。

 だが、青国からの茶葉の共有が突如として途絶えた。


『もう馬はいらない』


 馬を引き連れ青国にまで出向いたテト族に向かって、青国の役人がそう言って追い返した。

 それから、青国との交易は途絶えている。


「ウルジャ……俺、もう我慢ならねえよ!」

 ウルジャの側に仕えていた男が、言い募ってきた。

 その男の声を皮切りに、ウルジャを慕っていた同年の男達も次々と声を上げた。


「お茶が欲しい」

「おらの母も体調が悪いんだ…」

「このままじゃ皆よわっちまう」

「奪えばいいんだ! 最初に奪ったのは青国だ!」

 様々な声がウルジャに飛んでくる。

 ここ一年、テト族の誰かが亡くなると、茶がないせいだと言う者が増えた。そして、同時に茶の交易を突然断った青国に対する憎しみの声もあがる。

 父の死は流行り病であることはウルジャも分かってはいるが、茶があれば病に罹らずに済んだのではないかという思いを抱かなかったと言えば嘘になる。

 ウルジャは拳を握った。

 そう、ウルジャだって、もう分かってる。もう我慢の限界なのだ。

 どうにかして、茶を手に入れなければならない。

 ウルジャは立ち上がった。


「今日より、俺がテティンの名を継ぐ。……そして茶を取り戻す」

 ウルジャの一言に、若い者たちは歓喜で吠え、経験の長い年配の者達は、心配そうに顔を曇らせた。

 茶という言葉を口にした時、ウルジャの脳裏に久しく飲んでいないバター茶の味が巡った。


 長く煮出して苦味の強いお茶にヤクの乳を入れて作る飲み物。

 茶の苦みをバターが柔らかく包んでくれる。ウルジャ達テト族はそれを一日に何杯も飲んだ。いや、飲んでいた。

 今はそれが途方もなく懐かしい。


 そしてその懐かしさとともに、とある少女の顔が、ふと浮かんだ。

 バター茶に興味があると言って、わざわざ交易のために青国に訪れていたウルジャ達の前に現れた幼い少女。

 ウルジャはその時十三歳で、少女はおそらく十にも満たない年齢だったが、お茶を見つめる眼差しの強さが印象的だった。

 少女は青国の者だったが、この時は茶馬貿易で親交がある青国に悪い印象はなく、バター茶が飲みたいとせがむ彼女のために、ウルジャは茶を淹れた。

 少女はそれを嬉しそうに飲み、そして飲み終わると何とも言えない顔をしていた。


『悪くはないのですが、お茶本来の繊細な味が、ヤクの乳で台無しに……』

 と残念そうな顔をする。


 どうやらあまり気にいらなかったようだが、結局、その少女はバター茶を優に三十杯は平らげていたので、テト族の皆で彼女の酒豪ならぬ茶豪ぶりに感嘆して笑った。

 その時はまだ父も健在で、テト族には活気があった。

 ウルジャは年が一番近いというのもあり、その少女の相手に選ばれた。

 テト族の茶の飲み方、そして少女の知る茶の飲み方。

 テト高原での生活、これから始まる茶葉を背負っての過酷な山越えの話。

 彼女はどの話も楽しそうに聞いてくれた。

 ウルジャは気づけば独特の柔らかな雰囲気を持つ少女のことをすっかり気に入ってしまい、別れる時には寂しさが募った。

 当時のことをふと思い出したウルジャだったが、懐かしさと寂しさを心の奥にしまい込んで、顔をあげる。

 今のウルジャの前には、怒りを瞳に宿す若者と、不安そうな老人たち、そして、病で弱ってやせ細った父の亡骸が横たわっていた。

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