第43話采夏は茶師を続けたい


 皇帝が、政治を専横していた秦漱石を討ってから一か月ほど経過し、采夏は久しぶりに皇帝・黒瑛と再会した。


 丁度太陽が天頂に差し掛かったところで外は明るく、時折鳥の可憐な鳴き声さえ響く長閑な日だ。

 采夏が黒瑛に最期に会ったのは貞を捕らえたところなので、本当に久しぶりに会えたことで嬉しい気持ちもなくはないのだが……どうして今なのだろうと思わずにはいられない。


 なにせ今の采夏は、大きな荷物を背負い、後宮の奥の内庭の地面に隠された扉を開いて今にもそこに入ろうとしていたのだから。


「よう、采夏妃。元気そうだな」


 黒瑛は笑みを見せてそう言ってのけた。

 采夏も内心の焦りを隠すように辛うじて笑みを浮かべる。


「これはこれは陛下。ご機嫌麗しゅう」

「実はあんまりご機嫌じゃねぇんだ。先日、捕らえた貞が逃げ出したばかりだし」

「まあ、そうでしたか……」

 采夏は、そう言ってふふふと乾いた笑いを浮かべた。

 貞は牢から逃げ出し、あろうことかこの後宮から出て行った。


 どうやって逃げ出したのか、しばらくは貞の脱走劇に後宮中の女達の噂話が絶えなかったのだから采夏ももちろん知っている。

 それになにより、采夏は貞が逃げ出したことを後宮にいる誰よりも先に知っているのだ。

 なにせ、そう仕向けたのは采夏自身なのだから。


「それに、今こうやって俺の目の前で、後宮の妃が白昼堂々と脱走しようとしてるしな」

 はははと黒瑛は笑っているが、完全に目は笑ってない。


「まあ、脱走だなんて、そんな……」

「ああ、違ったか。大荷物抱えて俺も知らない隠し扉を開けてたからそうかと思った」

「違うに決まってるではないですか。脱走なんて……この扉は偶然見つけただけなのです」

「ほう、そんな大荷物背負ってか?」

「ええ、たまに重い物背負って運動したくなるんです」

「しかし、木々やツタで巧妙に隠された隠し扉を見つけるたぁ、偶然にしてもすごいな」

「本当に、偶然ってすごいですね、ふふふ」

 二人は笑い合いながら白々しく何やら言い合った。

 しばらく空笑いを浮かべていたが、始めに黒瑛がふうとため息を吐きだし、笑みを止めて采夏を見た。


「ったく、ごまかすのはやめろ、采夏妃」

 黒瑛が笑顔を取り繕うのをやめたので、采夏も同じく笑顔をひっこめ不満そうに唇を尖らせた。


「どうして、陛下こんなところにいるんです?」

「お前に用があって行こうとしたら、大荷物背負ってこそこそ外に出てきたから、後をつけてきた。そしたらこれだ」

「婦女子のお尻を付け回すなんて、誇れることではありませんよ」

「うるせえ。こんなあやしげなことしといて言える立場か。で、だ。なんだ、その隠し扉は。貞から聞いたのか?」

「別に貞様から聞いたわけでは……」

「直接は聞いてないにしても、間接的には聞いたんだろ? 大体牢から貞を逃がしたのはお前なんだろうからな」

 全てお見通し。そう言われている気がした采夏は不満そうに眉を顰める。


「別に逃がしたわけではありません。ただ、ちょっと牢のカギを掛け忘れたかもしれませんが」


「……まさか、後宮からの脱出経路を知るために、わざと貞を逃がしたのか? 貞はあれでも、ここ数年ずっと秦漱石と共に後宮の管理を行っていた花妃だ。他の妃や俺さえ知らないいざという時の脱出経路を知っててもおかしくない」

 まさしく図星を突かれて、采夏は今度は眉尻を下げた。

 どうやら、本当にお見通しらしい。


 采夏は、黒瑛の言う通り、わざと貞を逃がした。

 貞が知っているであろう後宮の隠し扉を探るためにわざと牢の扉の鍵を外し、その後牢から出た貞のあとをこっそりとつけてこの隠し扉を見つけたのだ。


 本当は、茶の素晴らしさに感銘を受けた貞が茶師に転身し、自ら進んで隠し扉を教えてくれたら嬉しかったのだが、まあそこまで欲ばっても仕方ない。

 ちなみに貞と一緒に茶師として活動したらてっぺんを狙えると思ったのは采夏の本心である。


「陛下って、結構、意地悪な人なんですね……」

「ふむ、何故だかお前にそう言われるのは悪い気はしないな」

「蔑まれ喜ぶ変態だったなんて」

「それも悪くない。とまあ、イチャイチャするのはここまでにして、采夏妃の目的について話そうか」

「イチャイチャなんてしてませんけど……」

「はぐらかすな。別に悪いようにするつもりはない。惚れた男の弱みってやつだ」

「惚れたって……」

 突然出て来たその言葉に思わず采夏は言葉に詰まった。

 驚いて見れば、黒瑛は余裕を含んだ笑みを浮かべている。

 なんだか気に食わない。

 一瞬喜びそうになってる己を律して、采夏は目に力を入れる。


「惚れたなんて、白々しいです。どうせ私が茶家の娘と分かって皇后にするおつもりなのでしょう?」


 皇后、つまり現在の皇帝の正妻の地位に当たる。

 皇太后の地位が弱く、後宮にいる妃達の家柄は総じて弱かった黒瑛は、ずっと確かな後ろ盾が必要だった。

 西を守る広大な西州を治める氏族の姫が皇后になれば、ずっと皇帝が求めていた後ろ盾として申し分ない。


「まあ、そうだな。だが、惚れてはいる」

「そんなもの、信じられるわけないです。それに、陛下は政権を手に入れたら、私が茶師を続けられるように良い縁談を組んでくださるとお約束してくださいましたよね? 私を皇后にしたら、それを反故にするということです。そんなお約束一つ守れない方の言葉をそう簡単に信じられましょうか」


「別に、反故にするつもりはない」

 そう言って、黒瑛は采夏に近づいた。

 采夏の肩の少し上に腕を伸ばしちょうど采夏の後ろにある木に手を突く。

 距離が近い。特に顔が近い。

 こうなっては逃げられそうにないと采夏は思うが、だが、ここで諦めたくはない。


 采夏は、茶師として活動していきたいのだ。


「なら、私を後宮の外に出してくださいますか? 私は、茶師を続けたいのです」

 その想いが強くなったのは、采夏岩茶が完成に近づいたからだ。

 しかもこれはもっとおいしくなると貞は言った。

 それなのに、ここで諦められようはずもない。


 だから、後宮から出て行く。

 元々、黒瑛が言っていた茶師が続けられる縁談というのも当てにはしていなかった。

 そうはうまくいかないだろうし、何より采夏の母は許さない。

 それに、采夏の出自を知った皇帝が、後ろ盾欲しさに采夏を後宮に閉じ込めようとする可能性も考えてはいた。


(一時期は、後宮でおいしいお茶を作って皆に飲んでもらえることに喜びを見出しもしたけれど……)


 そう思って顔を上げると、采夏に一時でもそう思わせた張本人が采夏を見ていた。

 その黒々と凛々しい目と見つめ合う。


 黒瑛は、茶を飲む天才だと采夏は思っている。本当においしそうに、采夏の茶を飲んでくれる。

 采夏のお茶を飲む黒瑛の姿にどれほど目を奪われたことか。


 だが、それでも采夏は、やはり茶師として茶を作りたい気持ちを止められない。そう気づいてしまった。


「……とりあえず移動しよう。見せたいものがある」

 戸惑う采夏に、有無を言わせぬ口調で黒瑛はそう言った。


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