第36話采夏は茶葉を炒る


 采夏達は陸翔の家でたっぷりお茶を飲んだ後、その日のうちに北礼村(ほくれいむら)を出て身代わりとなった礫のいる皇帝の行軍に戻った。

 当初の目的地だった龍弦村には行けず仕舞いなことに采夏は少々がっかりしたが、陸翔のところで一生分の龍井茶を飲めたので良しとした。

 それに、茶狂いの采夏と言えど、黒瑛達が龍弦村に行けない理由も辛うじて理解している。

 

 しかし予想外だったのは、皇帝の行軍に戻るやいなや、近くで異民族の襲撃があったという報せを受けたことだ。

 その報せを受けて、黒瑛は今いる手勢を連れて駆けつけることになり、采夏は危険だからと宮中に戻ることになった。


 そうして何がなんだか分からないまま、あっという間に再び帰ってきた後宮。


 予想以上に早い采夏の帰りに皇太后は面食らった様子だったが、一緒にいた礫が「陛下は良い顔つきになってきたしもう采夏妃がいなくても大丈夫そうよ」などと言ってくれたおかげで、事なきを得た。


 そして面食らった様子の皇太后とは反対に、采夏の帰還を手放しで喜んでくれる人がいた。

 玉芳だ。


 玉芳は采夏の姿を見つけるやいなや飛びついて抱きしめてくれた。

 貞から身を隠すため、皇太后の屋敷にいたらしい玉芳。

 最期に会った時は青い顔をして儚げだったが、今では生来の元気の良さがにじみ出ていて肌色も良い。

 むしろ前より良い。


 采夏がそのことを指摘すると、玉芳はニッと笑って二胡を掲げて見せた、

 

 真新しいピカピカの二胡である。

 どうやら壊れた二胡の代わりに皇太后が新しい二胡を用意してくれたらしい。

 しかも、最高級品だと見てすぐわかる類のもの。

 玉芳は、こんなにいい楽器が持てるんだったら、壊してくれた貞に感謝しないとねと言って意地悪く笑っていた。


 そうして懐かしい人達と再会した采夏は、そのまま皇太后の殿にて、玉芳とともにこそこそと身を隠しながら住まうことになった。


 こそこそとするのは、もちろん貞を警戒してだ。


 未だに貞は、皇太后の殿に探りを入れているらしい。

 狙いは采夏だ。


 殿に引きこもっている(ということになっている)采夏を慮って、ということはもちろんなく、不穏な雰囲気を漂わせているようだ。


 采夏も、面倒なことは避けたいので、大人しく殿の中で、茶を飲んで過ごしていた。

 お茶さえあれば、心やすらかに暮らせるのは、采夏の特技である。


 しかも、今は黒瑛のおかげで最高品質のお茶を山のように持っている。

 天国だ。

 美味しいお茶を飲みながら、采夏はにやにやと笑った。


(それにしても……陛下はまだ帰られていないみたいだし、大丈夫なのかしら。それに、別れた時の陛下のお顔、いつもと違っていた。……秦漱石を本当に討つつもりで?)

 異民族の襲撃とは聞いていたが、それだけではないような予感がした。

 黒瑛は明らかに何かを隠している。

 そして、黒瑛が何かをするのなら、狙いは秦漱石関係だろう。


 そこまで考えて、采夏は以前黒瑛とした約束を思い出した。


『政権を取り戻したら、茶に理解のある男を紹介してやる』

 自信に満ち溢れた男の言葉だった。


 確かに茶に理解のある夫と巡り合えたら、采夏は茶師を続けられるかもしれない。

 だが……。


(別に私は、このまま後宮で暮らすのも好きなのだけど……)

 最初こそは自分の身の上を嘆いたものだが、よくよく考えれば、後宮での生活は采夏にとってまたとない楽園だ。


 茶葉もたくさんある。

 しかも明前の龍井茶も含め、地元ではなかなか手に入らない最高品質のお茶だ。

 加えて茶を飲む時間はたっぷりある。

 ゆっくり大好きなお茶を好きな時に飲めるのだ。


 それに茶師の仕事というのは、何も山に籠って茶木を育てることだけではない。

 おいしいお茶を淹れるというのも、茶師の仕事の一つ。


 采夏は、茶木を育て、よりおいしい茶葉を追及することももちろん好きだが、人においしく茶を飲んでもらうことも好きだ。


 そこでふと、とある人の顔が浮かぶ。

 采夏の淹れた茶を誰よりも、おいしいそうに飲んでくれた人の顔。


「あ、采夏妃、こんなところにいたの」

 台所にある食卓で茶を飲みつつ物思いにふけっていた采夏がハッとして顔を上げると、玉芳がいた。

 一抱えほどある竹籠を何故か持っている。


「玉芳妃、どうしたの?」

「実はさ、渡さなきゃいけないものがあって。今まで渡すの忘れてたのよ。いらないかもしれないけど」

 そう言って玉芳は、持っていた竹籠を差し出した。

 そしてその箱から何とも言えない深くまろやかな香が漂い、意識を奪われる。


「え? この匂いは……」


(茶の香り? いえ、茶にしては、花に似た甘さがあって、深い……)

 今まで嗅いだことがない香りに戸惑いながらも、籠を受け取った采夏は、恐る恐る蓋を開ける。

 そして、先ほど微かに香った芳醇な香りがぶわっと前面に広がった。


 甘く、深い、天にも昇るような華やかさなのに、角がなくてまろみのある香りが采夏の頭を支配する。

 香りだけで、体中が浄化されたかと、思った。


 どうにか意識を保って籠の中身を見るとそこには、周辺だけ赤茶に染まった小さな葉や芽。

 これは。


「もしかして、あの時池に落とした采夏岩茶の葉っぱですか?」

 信じられない気持ちでそう聞くと、玉芳が頷いた。


「そう。一応ね、あの後、綺麗な物だけでもって思って拾っといたの。采夏妃の大事なものだって聞いてたし。まあ、今の今まで渡すの忘れてたんだけど、ごめんね!」

 玉芳はテヘっと笑って舌をペロッとした。

 采夏は采夏で渡された赤茶に染まる茶の葉っぱに釘付けだ。


「これは、もしかして……」

 呆然とした顔で呟いた采夏は

 ハッと顔を上げた。


「釜よ! 釜を探して!!」

「え? 釜?」

「そうよ、炒らなきゃ! これを炒らなきゃ!!」

 采夏は、興奮した声でそう言った。


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