第16話采夏は貞花妃と出会う

二人は豚の頭を桶ごと処分をして帰路につく。

 しかし、匂いの元から離れたというのに、まだ臭い、

 どうやら匂いが服や髪にもついたらしい。


(戻ったら、お茶の前にお風呂ね)

 そんなことをのんびり采夏が考えていると、派手な集団に行き当たった。


「あら、やだわ。なんだかひどい臭いがする」

 つんと鼻にかかったような女の声。

 まるで采夏たちをとうせんぼするようにして立ちはだかった女がそう言った。


 いつものように派手に化粧をし、たくさんの宮女たちを連れて歩く貞花妃である。


「貞花妃様にご挨拶を」

 采夏と玉芳は、胸の前で両手を組みそこに頭を下げて額をつけた。

 上位の妃に対する挨拶の作法だ。


「あら、どぶみたいな匂いがすると思ったら、まさか采夏妃だったなんて。あまりにも臭いから、肥溜めが服を着て歩いているのかと思ったわ」

 馬鹿にするように貞花妃が言うと、周りの取り巻き達がクスクスと嘲笑を浮かべた。


「だ、誰のせいだと思ってるのよ……」

 と声を押し殺して毒づく玉芳の声が采夏の耳に聞こえた。


 采夏は、今にも食って掛かりそうな玉芳に視線を向けて小さく首を振る。

 あまり騒ぎ立てるのは得策ではない。

 お茶のことが関わってなければ、采夏は意外と空気を読む。


(何事もなく、このまま素通りしてもらうのが一番だけど……)


 と采夏は願ったが、それは叶わなかった。

 頭を下げる采夏のすぐ目の前で、貞は勝ち誇った笑みを浮かべて采夏を見下す。


「それにしても、本当に貧相な女ね。これのどこがいいのかしら。陛下も趣味が悪いわ。まず、礼儀がなっていないじゃない」

 貞はそう言うと、手に持っていた団扇でカツンと采夏の頭を叩く。


「頭が高いわ。もっと頭を下げなさい。ほら、地面に手をついて這いつくばって。田舎娘の貴方なのだもの、地面に顔をつけるなんて慣れているのでしょう?」


 そう言って、団扇でポンポンと采夏の頭を叩く。


(地面に頭を……? それってつまり背中を丸めて四つ這い状態になって頭を下げる、一等礼拝のことかしら?)

 采夏がそう考えを巡らせたとき、我慢の限界とばかりに玉芳が前に出た。


「地面に頭をつける一等礼拝をおこなうのは、皇族の方へのご挨拶ぐらいのはずよ! 花妃の貴方に、する必要なんてないでしょう!?」

 采夏を庇うように前に出た玉方がそう言って、貞に食って掛かった。


「お前は、確かこの前の二胡の女ね。へえ、この女を庇い立てて、私に歯向かうの?」

 貞の視線は完全に、玉芳に向いている。

 ものすごい形相で睨みつけていた。


「玉芳、落ち着いて。別に私はどうってことないもの」

「いいえ、落ち着けるものですか! 采夏妃は、陛下に呼ばれ鳥陵殿もたまわってるのよ!? それなのに、こんな……下級の召使にも劣る扱い、おかしい!」

「大丈夫、私本当にそんなに気にしてないし……」

 采夏は玉芳の言葉に少々びっくりしながらもそう諫める。


「いいえ、言わせて采夏! 貴方は強がってるけど、こんな扱い受けて辛い思いをしてるの知ってるんだから!」

「え、でも……」

(本当に、私、気にしてないのだけど……? だって、頭を下げたって別にお茶が減るわけではないし)

 采夏の物事の基準はほとんど茶だ。

 頭を下げたって、別に好きなお茶が飲めなくなるわけでもない。

 それはつまり、別に采夏にとって大したことではないのだ。


 しかし、傍から見たら、そうではないらしい。


(どうしょう……。とりあえず、さっさと頭を下げればどうにか収まるかしら)

 そう考えた采夏は貞の方を見た。


「貞花妃様、失礼をいたしました。先ほどの非礼も含め、一等拝礼にてお詫びいたします」

「采夏!」

 と玉芳の声が聞こえるが、貞はしおらしい采夏の態度に気分をよくしたようで笑みを浮かべた。


「良く分かっているわね、さすがは茶とかいう葉っぱなんかのために、地面を這いつくばる底辺な人間ね。どうせ地面に顔をくっつけるのだって慣れているのでしょう? 茶師なんて、ただの木にへつらう生き方しかできない下賤な身分の人間がなるものなんだから」


 勝利に酔いしれるように、笑みを浮かべて貞はそう言った。

 そしてその時、今にも頭を下げようとしていた采夏の動きがピタリと止まる。


「茶師が、下賤……?」

 冷え切った声が響いた。

 声の主は采夏。普段の温厚な彼女からだとは思えないほど、低く剣呑な声。


「取り消してください。先ほどの言葉を」

 そう言って、采夏が顔を上げる。

 そこには、静かに怒りを込めた顔があった。


 采夏は穏やかな娘だ。

 どこか悪意には鈍感で、大体のことには寛容だ。

 だけど、茶に関わることについては、まったく穏やかではいられない。


「ヒっ」


 目が合った貞は思わず短く悲鳴を上げた。

 それほどの凄みだった。


「茶師は、下賤等と言われるような仕事ではありません。天上からの尊い命の水をこの世に顕現させる素晴らしき者達です。神の飲み物を作り出す者達をどうしてないがしろにすることができましょうか!」

「ふ、ふん、何を言うかと思ったら……! 天上の飲み物? くだらない! お前は自分の立場が分かってないようね! ほら、お前たち、何をしているの! はやくこの女の頭を押さえつけて!」

 貞は、後ろにいる取り巻き達に声をかけた。

 采夏の迫力に押されていた妃達は、貞の呼びかけにハッとして動き出す。


 貞一人に対して、五人がかりで取り囲み、采夏の両腕を背中に回して動きを封じるも、采夏の気迫は衰えることはなかった。


 周りに押さえつけられようとしながらも顔を上げて貞を見ていた。


 状況で言えば、確実に貞の方が優勢であるというのに、何故か貞達の方が気後れし、明らかに苦し気な顔をしている。


「な、生意気な目でわらわを見るな! 無礼者め! は、はやく頭を下げなさい!」

 貞のあらぶる声。

 その声に、采夏の動きを押さえていた妃達が、無理やり采夏の頭を下げさせようとするが―――。


「采夏妃! 采夏妃はどこにおられる!?」

 女にしては低めの声が響いた。


 声のする方を見れば、灰色衣の下級の宦官が、豪華な箱を抱えて辺りをキョロキョロと見渡しながらこちらに向かってきているのが見えた。

 その宦官は、ここに妃達が集まっているのに気付くと、一瞬目を見開き、そして慌てて駆け付けた。


「これはこれは、貞花妃様。一体何事でしょうか?」

 宦官は、貞に顔を向けた。


 下級の宦官は下賤な生き物とみなされ、高貴な人の前では顔の目より下を布で覆っている。

 そのためはっきりと顔を見て取ることはできないが、采夏にはわかった。


(陛下……!?)


 宦官に身を隠した黒瑛だった。


「見て分からないかしら? 妃に教育を施しているところよ」

「教育……?」

 そう言って宦官は采夏を見た。


「こちらは、采夏妃……」

「ええ、この者は、花妃であるわらわに対する礼がなっていなかったから、拝礼の仕方を指導していたの。それも後宮の主たるわらわの役割でしょう?」


 貞のその言葉に、玉芳は眉を吊り上げた。


「采夏妃は、失礼に当たることはしてないわ! それなのに花妃様が、むりやり一等拝礼を強要しようとしたのよ!」

 玉芳が堪らず宦官に食って掛かるようにしてそう言った。

「一等拝礼を? それは……誠でしょうか?」

 目を丸くして宦官が貞花妃を見る。


「だから何よ。わらわは花妃よ。当然でしょう?」

「貞花妃、一等拝礼は皇族の方に対してのみの特別な拝礼です。花妃様であれど、強要することはできません」

「なんですって!? わらわが悪いと言いたいの!?」

「申し訳ありません。しかし、私の職務ですので」

「お、お前……! だいたい下級の宦官のくせに、ぬけぬけと! わらわの後見人が誰だかわかっているの!?」

「もちろん存知てますが、しかし、采夏妃様に届け物がありまして」

 宦官が頭を下げつつもそう言った。

 届け物? と、怪訝そうな顔をする貞花妃。


「ええ、陛下からの文にございます」

「なっ! 何ですって!!」

 そう言って貞が奪うようにして宦官が掲げていた箱の蓋を開けた。

 そこには、三つ折りにされた紙が一枚。


 貞はそれをつかみ取ると、中を確かめる。

 そしてすっと顔を青ざめさせた。


「また、陛下が、采夏妃を……?」


 貞はそう言って、唇をわなわなと震わせた。

 手に力が入り、手に持っていた文に皺がよる。


「……戻るわよ!」


 貞は、そう言うとその文を力いっぱい地面に投げつけて踵を返した。


 未だ采夏の体を取り押さえていた妃達は、慌てて采夏を離して貞の後を追う。


「はあー、やっと解放されたわね」

 玉芳がそう言って、腕を上にあげてグーッと背を伸ばした。


 宦官は、地面に落ちた文を拾うと、土汚れを丁寧に手で払う。

 それを采夏は呆然と眺めていた。


「申し訳ありません。こちらをお受け取りください」


 先ほど貞がつけた皺を伸ばして、黒瑛は文を采夏に掲げた。


「え? あ、はい……」

 采夏は戸惑いつつも、どうにか文を受け取るとそこに書かれた短い文を確認した。

 前回と一緒で、夕飯を共にという文だった。


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