第13話黒瑛は茶に酔う

 竹祷茶(チクジュチャ)なるものを宦官に持ってこさせた後、せっせと茶の準備を始めた采夏を、黒瑛は右手の甲に顔を預けて眺めていた。


(それにしても、この采夏と言う娘、本当に変わってる)


 采夏がお茶の用意をし始めたところで、明らかに顔つきが変わった。

 それまではどこかのほほんとしていて小動物のような愛らしさがあったが、

 こうやって背筋をまっすぐ伸ばし、綺麗な所作で茶を沸かす彼女を見ると全く別の印象を受ける。

 一国の公主であると説明されれば思わず納得してしまいそうな気品すら感じられる。


(茶が絡むと別人のような雰囲気になる、つーか……普通に綺麗だよな)


 先日庭園で会った時も美しい娘だと思ってはいた。

 しかし今日、改めて装いを整えられた彼女を見て、先日の娘と同じ人物だとはすぐにはわからないほどに垢ぬけていた。

 あまりにも美しくて、一瞬目を奪われたぐらいだ。


 もともと秦漱石が集めた後宮の女達には興味がなく、

 むしろ嫌悪感すら抱いてさえいたというのに。


「陛下、お茶ができました」

 采夏の声にハッとして黒瑛は視線を上げた。

 気づけば目の前に茶杯が掲げられている。


「ああ、ありがとう」

 そう言って茶杯を受け取った。

 茶杯のお茶の色は、薄い黄緑色。

 湯気とともに舞い上がる茶の香気が黒瑛の鼻孔をくすぐる。

 いつもの茶の香りの他に、何か別の清廉とした香りを感じた。


「これが、この絵を見て飲みたくなったというお茶か?」

「はい。私も良く分からないのですが、この絵を見ていたらこのお茶が飲みたくなって。まずは飲みましょうか」

 先に毒味も兼ねて采夏が茶を口にする。

 続けて黒瑛も茶を飲んだ。


「うまい。香りもそうだが、独特の後味がするな。これは……?」

「それは、竹の香りです。この竹祷茶は、後味に竹林の風情があるのが特徴の茶なのです」

「ああ、言われてみれば、確かに……」

 そう言って、二杯目の茶を口にする。


 目をつむるとより茶の爽やかな香気を深く感じる。

 まるで、本当に竹林にいるようだ……。


 そう感じた時、黒瑛の心象に竹林が現れた。

 風がそよぐと竹のすっとした清涼な空気が辺りに広がり、

 胸いっぱいに息を吸い込むと体全体が清らかになるような心地だ。


 ふと前を見ると、知り合いの背中が見える。

 地味な鶯色の衣を着たひょろりと背の高い男。

 その男が悲し気な声で「私のせいで、あの方が……」と嘆いていた。

 この声も聴いたことがある。

 ああ、そうだ彼は……。


「その声は、我が友、陸翔(リクショウ)ではないか?」

 黒瑛がそう問いかけると、男は振り向いた。

 神経質そうな細い眉、西方から取り寄せたという片側だけの眼鏡。

 まだ三十と少しの年齢のはずだが、夜な夜な読書に耽て睡眠時間がほとんどないという習慣のためか肌艶は良くなく、目の下には隈がある。

 まちがいない、彼は陸翔だ。


 陸翔は、黒瑛の幼いころの家庭教師だった。

 いや、正確には黒瑛の兄である士瑛の家庭教師だった。

 黒瑛は、兄のついでに少し教わったに過ぎないが、ほとんど教育を受けてこなかった黒瑛にとって先生と呼べる人は、陸翔以外にはいなかった。


 兄も黒瑛も、陸翔に志を教わった。

 陸翔は、弱弱しい見た目と違い竹のようにまっすぐな性格で、道理と正義を重んじていた。

 そしてだからこそ、秦漱石(シンソウセキ)の圧力で追いやられた。


 懐かしい陸翔の顔に過去のことが蘇る。


 そして振り返った陸翔は口を開いた。


「いえ、友達のつもりはありませんが?」


 つれなく言われた。

 言われてみれば友と呼べるほどの親しい間柄ではなかった。

 言うとしたら師弟関係だろう。

 心象に広がった竹林は霧散した。


 目を開けると、黒瑛を見る采夏と目があった。

 やけに采夏は笑顔だ。


「あ、陛下、お目覚めになりました?」

「あ? ああ、寝てた、のか? ……なんだか、変な幻を見たような」

「やはり! 陛下が少しぼーっとされたのでもしかしてと思いましたが、それは茶酔です!

 良いお茶は、酒のように酔うことができるのですよ!

 でも、そう誰でも茶酔を味わえるわけではありません。陛下は茶のみの才能があります! 飲み方も、なんだか色っぽいというか、優雅ですし……!」


 采夏は興奮した面持ちでそう言う。


「茶のみの才能……」

(それは喜ぶべきなのか……?)

 しばらく微妙な気持ちでいた黒瑛だったが、三杯目の茶を喉に流し込む。


 今度は特に幻は見られなかったが、お茶の清廉とした返しは、竹林にいるかのようなすがすがしさを感じた。


「……良いお茶だな」

「はい、そうですね」

 黒瑛の感想に采夏が嬉しそうに頷いた。


(しかし、確かにおいしいお茶ではあるが、采夏はどうしてこのお茶を飲もうとしたのか……。竹のお茶。……竹?)


 ハッとして黒瑛は、再び陸翔からもらった水墨画に目を向けた。


 梅、蘭、菊と順番に視線を見た後、最後に妙に空いているように見える右上に視線を移す。


「そうか、この絵は、四君子を題材にしたものか」

 黒瑛は、そう呟いた。


「なるほど。四君子、だとするとこの絵には、竹が足りないですね。だから竹祷茶を飲みたくなったのかもしれません」

 采夏が納得したとばかりにうんうんと頷いた。


 四君子(しくんし)というのは、文人達が好んで描く画題の一つで、

 蘭、竹、菊、梅を題材に描くことを言う。

 それぞれの植物の特性から、文人や君子の在り方を説くもので、一つ一つに意味がある。


 例えば、竹というものは、青々と曲がらずまっすぐに伸び行く特性から、真面目で清廉な性質を意味する。


 絵に描かれているはずの竹がないというのは、つまり……。


(なるほど、陸翔はこの宮中には竹のような清廉さがないって言いたかったわけか……?

 つまり、そんなところには戻りたくないという意味。いや、今の宮中には自分の居場所がないと言いたいのかもな……)

 やはり断り文句だったのだと、黒瑛の顔は曇った。

 そして実際、宮中は濁りに濁っている。


「こちらの絵を描かれた方はどのような方なのですか?」

「そうだな……見た目は頼りなさそうなんだが、竹のようにまっすぐな男だな」


「竹のようにまっすぐな方……。だからでしょうか、この絵を見るとなんだか少し物悲しい印象を受けます。まるでこの絵に竹が描かれていないことを悲しんでいるような……」

 采夏が絵を見ながらそう言った。


「悲しんでいるように、か……。そうかもしれねえな……」

 黒瑛は、小さく一人ごちるように口にした。

 先ほど見えた竹林の幻に浮かぶ陸翔も悲しそうな背中をしていた。


(陸翔はもうこの国を見限っているのかもしれねえが、それでもどうにかして陸翔を引き入れたい。どう説得すれば……)


「この方の贈り物には、この竹寿茶はいかがですか?」


 采夏にそう尋ねられて、黒瑛は顔を上げた。

 贈り物とはなんだと最初こそ疑問に思ったが、采夏には、この絵をくれた人へのお返しということで相談をしていた。


「ああ、そうだな。よい茶だしな……」

 と、口では言うものの、黒瑛の頭の中は、贈り物のことよりも、陸翔をどう説得すればいいかで頭が一杯だった。

 それを知ってか知らずか、どこか上の空な黒瑛に、采夏はにこりと微笑みかける。


「陛下はこの竹祷茶がどのようにしてこの独特な竹林の香りを会得しているのか知っておられますか?」

 突然そう尋ねられて黒瑛は首を傾げた。


「茶葉の中に竹の葉を混ぜているんじゃないのか?」

「いいえ、竹祷葉は全て茶木の葉で作られ混ぜ物もなく、作り方も茶葉を摘んだらすぐに火入りをする緑茶と同じです。

 ただ竹寿茶の茶木は、竹林の中で育てるのです。

 そうすると、茶の葉に竹の香りがしみ込み、それはお茶にした後でも消えず微かに残るのです」


「茶の葉に、竹の香りが移ったということか?」

「はい。竹は寒中においても青々しく空高く伸び行く力強い植物です。

 その香りは清廉。そしてその清廉さを他の木、茶の木にも帯させることができるのです。

 陛下のおっしゃるこの方が、まことに竹のような方ならば、きっと、その力強さで周りの者に清廉な香りを帯びさせることもできる方なのでしょう。この、竹祷茶のように」

 にっこりと優しい笑みを浮かべる采夏の言葉に、黒瑛はハッとした。


(陸翔にこの濁り切った宮中に自分の居場所がないことを嘆く気持ちがあるからこそ、清廉さを取り戻すために手を取り合うことができる。

 それに、本当に国を見限ってたとしたら、返事もよこさないはずだ。

 つまり、陸翔に必要なのは、後押しだ)

 陸翔に返す言葉が見つかった黒瑛は、立ち上がった。


「悪い、采夏、部屋に戻る。さっそくこの絵の送り主に返事を返したいんだ。

 また後日お礼をさせてくれ」

「あ、まってください! このお茶、もらっても?」

 采夏は途中で退席する黒瑛を責めるでもなく慌ててそう言うと、竹祷茶の茶葉が盛られた盆を指さす。


「ああ、かまわん。そもそも残した食事も含めて妃がそのままもらい受けるものだしな」

「なんと! それは素晴らしいしきたりです! では遠慮なくいただきます」

 采夏は笑顔で黒瑛を見送った。



 ―――その夜、黒瑛は筆をとった。


 周りに竹がないと嘆くのならば、竹の葉が茶木の葉にその色を移すかのように、他の木に竹の香りをのせればいい。

 そのためには貴方のような竹が必要なのだ、この国に竹の清廉さを吹き込むために。

 そう綴り、黒瑛は陸翔に手紙を送る。

 そこには、もちろん、竹祷茶を添えて。

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