第2話 大学生の生存確認

 我がユウゲキ不動産は、新陶しんどうの繁華街のど真ん中にある。


 人の往来が多い大通りに面した6階建ての雑居ビルで、1階がキャバクラと花屋、2階がバー、3階がホストクラブで、4階がうち、5階はアミューズメントバーで、6階は会員制の高級ラウンジだが、来月もそうだとは限らない。浮き沈みが激しい商売だから、ビルの入居者は常に変化するのだ。

 何年も変わらないのはうちと1階の花屋だけだと上司から聞いたことがある。うちはともかく、お花屋さんがそんなに安定しているのは不思議な気がした。このビルは敷地面積は小さめではあるが、繁華街の一等地に建っているのだ。その1階なのだからテナント料は毎月200万円ぐらいかかっているはずである。小さな花束を一つ800円で売っているお手頃価格の花屋で、どうやれば毎月200万円の家賃を工面できるのだろうか。

 のほほんとした雰囲気の若い男性が一人でやっている店なのだが、きっとああ見えてやり手なのだろう。私とあまり年齢は変わらないと思うのにすごい。

 お花屋さんは、私が出かけるとき、優しい声で「いってらっしゃい。気をつけてね」と言ってくれる気さくな人柄で、私はお花屋さんと話すのが大好きである。


 今夜もビルに戻ると、お花屋さんに「おかえりなさい」と言ってもらった。

「ミユキさん、こんばんは」

 お花屋さんは草野御行みゆきさんという人で、笑うと目がなくなるタイプの男性だ。私はミユキさんと会うと、なぜかウサギのイメージが頭に浮かぶ。

「いつも忙しそうだね」

「ミユキさんこそ」

 ミユキさんはちょうど花の茎をハサミで切っていたところだった。これからキャバクラ客向けの花束をつくるのだろう。店の奥に見える作業台にはラッピングペーパーが積まれていた。

「最近、夜は冷えるようになってきたからね。風邪ひかないでね」

「はーい。それじゃあ」

 笑顔で挨拶してから小さなエレベーターに乗り込み4階に行くと、真っ白なドアに金字で「ユウゲキ不動産」と書かれた、我がホームがひっそりと待っていた。

 鍵を開けて中に入り、誰もいない事務所の明かりをつけることなく、薄暗い室内を歩き回る。明かりをつけてしまうと、営業中だと勘違いした酔客が「キャバクラの家賃ってどれぐらいですか」などと遊び半分に聞きにきてしまうので、夜はなるべく暗いままにしているのだ。

 書類仕事のときは手元用のランプをつけることもあるが、きょうはその必要もない。薄暗い会社内をそろそろと移動し、上司の机の前に立った。もう遅い時間だから、同僚も上司も社長もとっくに退社済みである。私は20代後半で独身、彼氏なし。したがって夜中に働かせても何の問題もないと職場では思われおり、弊社で夜に働く社員は私だけとなっている。そのかわり出勤は昼すぎで良いから特に不満はない。むしろ朝が弱いタイプなので、ありがたいぐらいだ。

 私は回収したお家賃を入金した通帳と領収証の控えを上司の机に置いた。

 これにて本日の回収業務は終了、というわけである。


 それにしても。

 窓から差し込む電飾の光を頼りに、今度は別の方の机に向かって移動しながら、苦笑してしまう。

 短大を卒業したときは、まさか自分が家賃の取り立て人になるとは夢にも思っていなかった。

 一応、一般企業の事務員として就職したことはある。しかし職場のデリケートな人間関係になじめず、半年も経たずに退職してしまった。転職活動はうまくいかず、雇ってくれるならどこでもいいという気持ちになり、就活の時に取った宅建の資格があったから、深く考えずに不動産会社に再就職したら、そこはなぜかキャバクラ賃貸がメーンの会社だった。


 女性として、正直ちょっとどうなのという気がしないでもない。夜のお店というのは、基本的には女性が食い物にされる世界なのだ。世間のイメージでは、キャバ嬢が男を食い物にしているというイメージがあるだろうし、そういう面も確かにある。でも、基本的には、「男が女を使って、男から金を巻き上げる」のが夜の世界の実態である。


 こういうことを言うと、「男だって食い物にされることがあるのだから性別は関係ない」と言ってくる人がいる。確かに売れないホストや黒服と呼ばれるボーイなんかは搾取される側かもしれない。だが、それでも店長やオーナーは圧倒的に男性が多いという事実は揺らがない。「性」を売る商売は、男が牛耳っているのを、私はユウゲキ不動産に就職して初めて知った。


 女は身を削って金を稼ぎ、男はその上前をはねる、それが夜の世界では一般的な姿であった。そういう構造に荷担するのって、どうなんだろうと悩みつつ、仕事を続けている。私も生活していかなくちゃいけないのだ。そう自分に言い聞かせながら。

こういう余計なことを考えてしまうのは、私が女だからなのに違いない。

 女、それも一般社会ではうまくやっていけないタイプの女だ。誰かと「仲良く一緒に」働くというのが、どうにも難しい。短時間ならうまくやれるが長期間となると息が詰まって、暴発し、喧嘩に発展してしまう。


 夜の世界に対する感想は、自分もいつかキャバや性風俗で働く日が来るのかもしれないと思えるか、自分にはまったく縁がないと思うかで、大きく異なることだろう。社会になじめない私にとっては、他人事ではなかった。夜の街について、だから余計なことを考えるのも仕方がないのかもしれない。あまり考えないようにはしたいが。



 上司のデスクに置かれたキーボックスからマンション・グランドメロウのマスターキーを取り出すと、再び外に出た。

 夜になり風が出てきたようで、少し寒い。風は銀杏の腐ったような、もしくはゲロのような臭いがした。銀杏とゲロ、この街ではどっちもあり得るので判断つかない。

 私は会社のロッカーから持ってきた薄手のコートを羽織って、繁華街を足早に歩いた。

「学生さん、生きてますように。まあ絶対生きてるとは思うけど」

 そう心の中でつぶやきながら、通りに立つ黒服たちに頭を下げる。彼らもまた私に会釈したり、お疲れさまなどと声をかけてくる。いつもの光景だ。

 彼ら黒服が路上で何をしているのかいまだにわからない。違法な客引きはしていないようだが、じゃあ、何をするために立っているのか。はたから観察した感じでは、何もせずにぼうっと立っているだけにしか見えない。謎である。


 人通りの多い道を外れ、少し暗い細道に入る。こういうところを女性が一人で歩くのはよくない。悪事をたくらむ連中が潜んでいる危険があるのだから。しかしユウゲキ不動産に勤務しているという、この繁華街における権力ピラミッドの上位にいる私は、あまり怖さは感じない(財力ピラミッドでは底辺にいるが。お給料上げてほしい)。

 もとから無鉄砲な性格なのもあるかもしれないが、私を襲う可能性があるのは、この街の住人ではない無知なチンピラだけだとわかっている。無知なチンピラ相手ならきっと私でも何とかなるだろう。脚力には自信があるし、押したらめっちゃ痛いツボとかも心得ている。さらに言うと、歯も丈夫だ。私は歯医者さんの定期クリーニングは欠かさない。着色汚れとは無縁の美しい歯を使って、チンピラの頸動脈ぐらい食いちぎれると思う。まあ、こんなのは冗談としても、何かあったときに助けを求められる黒服たちが路上のあちこちに立っているという安心感はあった。


 細道を通り抜けると、お目当てのマンションの白い外壁が見えてきた。マンション・グランドメロウ。弊社の所有するマンションである。



 雑居ビルに囲まれるようにして建つ単身者向け賃貸マンション・グランドメロウは、こんな夜の街にあるせいで夜中はとてもうるさく、昼もまあまあうるさいという、あまりおすすめできない物件である。私が言うのもなんだけど。

 主に夜のお店で働く人々が入居しているが、築25年で家賃が近隣マンションより安いので、普通の学生や会社員の入居者も最近は増えていた。


 エントランスは白と金色で統一され、リゾートホテルの受付みたいな雰囲気だ。壁や床に傷とシミが目立つ今とは違い、新築のころはさぞおしゃれだったのに違いない。これは社長の趣味だそうだ。建てるときに社長は設計にあれこれ注文をつけて、自分好みにしたらしい。

「ユウゲキなんだから黒っぽくすれば良かったのになあ」

 エントランスのオートロックの自動ドアをマスターキーであけて中に入ると、エレベーターに乗って8階のボタンを押した。



 エレベーターを出て、昔は白かったはずのベージュのカーペットの敷かれた通路に足を踏み入れたとき、目指す803号室の前に、スーツ姿の男性が立っているのに気づいた。

 何者?

 私は足をとめて凝視した。

 スーツ姿だから同業者かと一瞬思った。内見の下見に不動産会社の人間がやってくるのは珍しくない。だが、雰囲気が違った。我々はもっと「くたびれた」雰囲気を醸し出しているものである。どんなにいいスーツを着ても、隠しきれない疲労感が漂ってしまうものなのだ。だが、その痩せぎすの30代ぐらいの男は顔色が良く、全然疲れた感じがしなかった。それに今出勤したばかりかと思うほどストライプのスーツには皺がなく、ぱりっとしていた。

 男は私に気づき、無愛想な顔をさらに愛想悪くして、健康なオコゼみたいな顔でこっちを睨んできた。

 人相の悪い男が睨んできたら、普通なら目を逸らしたり、逃げ出したりするかもしれないが、こちとらユウゲキ不動産の人間である。私は男に歩み寄ると、声をかけた。

「こんばんは。あなたは早田さんですか」

 男は首を後ろに引くような奇妙な仕草をした。

「……違います」

 低くこもったような声は、外見に反してあまり元気そうではない。

「じゃあ、早田さんのお知り合いですか」

「まあ……」

 どうも口の重い人だ。

「そういうおたくは」

「あ、私ですか。このマンションのオーナーであるユウゲキ不動産のものです。早田さんと連絡とれないから心配になっちゃって様子を見にきました」

 私がそう言うと、男は首をもとに戻した。顔つきも少し緩んだ気がした。

「自分も早田さんと連絡とりたくて困っているんです」

「あー、もしかしてお金の関係の方ですか、消費者金融とか?」

「自分はあなたが知らないほうがいい世界の人間です」

 多分ヤミ金なんだろうけど、言い方が中二病みたいな感じだ。男の指には金色の結婚指輪が光っている。裏稼業で家族を養っているのだろうか。


 それにしても、早田さんはかなりお金に困ってるようだ。

 家賃の滞納も問題だけど、ヤミ金はやばいから早く弁護士に相談してほしい。


 私があれこれ考えている間も、ヤミ金の人はじっと立ったまま動こうとしない。室内を確認したいのだが。うーん。

 ひとまずインターフォンを押してみた。反応はない。やっぱり中を確認しないといけないようだ。


「ええと、ヤミ金さん?」

 男は無反応だ。肯定しないが否定もしないから、つまりヤミ金ということでいいのだろう。

「いつまでここで待つつもりなんですか」

「早田さんが帰ってくるまで待つつもりです」

 まいったなあ。

 私、マスターキーでドアを開けられちゃうんだなあ。でもヤミ金がいるのにドアを開けるのもちょっとね。

「不動産屋なら、鍵、持ってるんじゃないですか」

 どきっ。気づかれた。しょうがない、正直に言うか。

「まあ、鍵は持ってますけど。鍵を開けて中の様子を見て、異常がなければ閉めますから室内には入りませんよ。ヤミ金さんを中に入れることもできません」

「それでもいいんで、開けてください。いるかどうかだけ教えてくれればいいんで」

「ええー、それもちょっと無理です。教えられません」

「いいから、ドア開けてください」

「それはちょっと」

 いっこうにドアを開けようとしない私にいらついたのか、オコゼは肩をいからせて睨んできた。

「おいおい、いいんですかあ? 早田さんは部屋で倒れてるかもしれねえのに。今確認せずに死んだらおまえのせいですよねえ?」

「な、何ですか、そんな脅し、私には……」

「あーあ、可哀想だなあ、早田さん。今すぐ発見されたら助かったかもしれないのになあ」

 うう……。

「じゃあ、今すぐドアを開けて確認しますから、ヤミ金さんはこのマンションから出ていってくださいよ」

「冗談じゃねえ」

「はあ? 出ていかないということは、もし早田さんが亡くなってしまったらヤミ金さんのせいってことですよ」

「何でだよ!」

「いまの状況、わかります? 早田さんの安否確認をヤミ金さんが邪魔しているんですよ。つまり発見がおくれたせいで早田さんが亡くなった場合、ヤミ金さんが殺したも同然ってことじゃないですか。遺族から賠償請求されてしまいますね。わー、マスコミにも言っちゃおう」

「お、おまえ、どういう理屈だよ、わけわかんねえこと言いやがって。だいだい早田さんが死んだって決めつけるなよ、失礼だろうが」

「出てってー。いいから出てってー」

「お、おい!」

 私は強引にヤミ金をエレベーターに押し込みドアを閉め、急いで803号室に駆け戻ると、ドアを開けて、隙間から首だけ突っ込んでみた。

「早田さん!」

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