第5話 フェンリル

 その咆哮に気を取られたのは、私だけではなかった。

 さっきまで威勢良かった兵士たちも一瞬固まると、恐る恐るといったようにゆっくり振り返える。彼らの視線の先にいたのは、トラックほどの大きさはあろうかという生き物だった。


 その生き物はまるで狼をひたすらと大きくしたようなシルエットをしていた。美しい白銀の毛並みは輝いていて、まるで狼が自ら光を発しているようだ。

 こちらをにらむ瞳は血のように真っ赤で、暗闇の中で不気味に輝いている。



 「ひぃ」と情けない悲鳴を上げたのは兵士の誰かだろう。

 そうと思ったのは、突然狼がそちらに突進していったからだ。ゴオオォ、と空気を震わす咆哮に我に返った兵士たちが、我先にと逃げ惑う。

 仮にも兵士である彼らが、立ち向かうという考えすら思い浮かばないようだ。



「クソッ!あんなデカいフェンリルなど見た事がないぞ!?見張りはどうしたッ!?」

「す、すみません!まったく気配がありませんでし、うわッ」

「チッ、さっさと逃げるぞ!あんな化け物に勝てるわけがない!」

「でっ、ですが!そこの女の始末がまだ!」

「うるさい!どうせフェンリル相手に逃げられん!死んだも同然だッ!」



(はやく、今のうちにはやく逃げなきゃ)



 幸い狼はまだ兵士たちに夢中だ。犬は動く物を追う習性があるというし、大きな音を立てながら逃げている彼らに興味をひかれているのだろう。アレがイヌ科かどうかは置いといて、気付かれる前に急いでこの場を離れよう。


 震える足に鞭を打って、なるべく音を立てないように移動する。兵士たちの悲鳴が聞こえる度に恐怖で腰を抜かしそうになるが、歯を食いしばって耐えた。

 罪悪感はない。ただただ死にたくないという気持ちが私を突き動かした。



 気付けば忍び足から歩行へ、そして早歩きから全力疾走に変わっていく。体に打ち当たる枝が少しずつ体力を奪い、足がもつれる頻度が高くなってくる。

 加えて手を縛られると普通の何倍も走りにくくなるもので、それも足場の悪い森の中じゃ私の限界はすぐにきた。とうとう木の根に足をとられた私は、受け身を取ることもできずに転んでしまう。


 その勢いのままごろごろと回転しながら斜面を下り、やがて途中で木にぶつかるまで止まることはなかった。幸い枝が刺さることはなかったようで、私は全身を襲う痛みに耐えるだけで良かった。



「ここまで追って来ないよね……?」



 どちらにせよもう立ち上がる力もないのだが。

 せめて身を隠せる場所に移動しないと、という思いはある。だけど、もはや指先を動かす気力もない。それどころか少しずつ意識が遠くなっていくのを感じる。



 少しだけ目を閉じたら、すぐに移動しよう……。






。。。






 ふと、手に冷たい感触がした。

 それになんだか生暖かい風も当たっているようで、意識が少しずつ覚醒していく。



(というか、これは何かに舐められているような……。動物なんて飼ってたっけ)



 それに、やけに硬いところで寝ている気がする。床で寝てしまったのだろうか。体の至る所が痛い。

 ぼんやりそう考えていると、はっとここが自宅じゃないことを思い出した。



(そうだ。私、異世界に召喚されて、それでーーーー)



 自分が置かれている状況を思い出して、一気に目が覚めた。勢いよく体を起こすも、いろんな所が痛んで思わずうずくまる。



「いっ」



 ……夢じゃ、なかった。

 いきなりよく分からない場所に呼び出されて冤罪で捕らえられたのも、殺されかけて大きな狼に襲われたのも、本当にあったことなのか。こんなの、夢野に追い詰められた私が見た悪夢だったら良かったのに。


 目が潤みそうになるのを我慢して自分の体を確認する。あれだけ派手に転んだのだから、相当ひどいことになっているはずだ。



「あれ、手当されてる……?」



 包帯の巻き方が変だが、明らかに誰かが手当てをした痕がある。それに、服も森の中で転がったとは思えないくらいに綺麗だ。


 不思議に思ってゆっくりと周りを見渡せば、ここが洞窟の中だと気付く。どうやら私は高く積まれた葉っぱの上に寝かされているようなので、誰かが運んできてくれたのは間違いないだろう。


 洞窟は結構狭く、座ったままでも外の様子を窺うことができた。気絶してからどれくらい経ったか分からないが、明るさ的に夜は明けたと考えていいだろう。


 助かった、そう一息吐こうとした私の耳に、獣の鳴き声が届いた。

 そういえば寝ているときに舐められた気がしたなと目を凝らせば、洞窟の入り口に犬のような生き物が見えた。



「くぅん」

「い、犬?」



 大型犬くらいのサイズだろうか、白い毛並みが美しい犬だ。尻尾を振りながらこちらを見つめる姿に敵意はなく、私は無意識に強張っていた体から力を抜いた。というより、警戒し続けるだけの気力がなかったというか。



(野生にしては綺麗だし、私を助けてくれた人の飼い犬かな)



 そう考えながら白い犬を見ていると、構ってくれると思ったのか嬉しそうにこちらに駆け寄ってきた。

 痛む腕を持ち上げてその頭を撫でてやると、尻尾が凄い勢いで揺れた。この人懐っこさ、やっぱり野犬ではなさそうだ。



「おーい、フェンリル!突然走り出してどうしたの……って、目が覚めたんだね!」



 指先どころか手が埋もれるほどのふわふわな毛並みを堪能していると、少し間延びした男性の声が洞窟に響いた。


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