まどぎわの妖怪

八島えく

まどぎわの妖怪

 ねえ、知ってる?

 まどぎわの妖怪のこと。


   *


「まどぎわの妖怪はね、壁に張りついて行動しているの。ビルとか学校とか家とか何でもいいんだけど。で、さ。その建物ってたいてい、窓ってあるじゃん。その窓にね、偶然見つけちゃうんだよ」


 まどぎわの妖怪を、と。

 都心のオフィスビルのコーヒー店で、菜緒(なお)は同期の閑花(しずか)の話を聞いていた。

 毎日毎日襲い掛かってくる顧客からの問い合わせと郵送物をやっとのことで片づけたのがついさっき。

「もうやってらんねー!」と二人して遅い昼食を取っていたところに、こんなうわさ話を閑花が持ってきた。


「なに、その、まどぎわの妖怪って」

「最近話題になってる、都市伝説みたいなものだよ」

「初めて聞いた」

「そうだよねー。菜緒ってSNSとかあんまりやらないもんね。でも結構にぎわってるよ。掲示板とかネットの百科事典なんかにも記事が出てたりしてさ」

「聞いたことないなあ……。ていうか、怖いんですけど」

「だよねー。……でさ、このまどぎわの妖怪はね」

「話聞いてた?」


 恐怖を催すものに対して苦手意識の強い菜緒を目の前にしても、閑花はおかまいなしだ。


「いやいや、たぶん割と安全な妖怪だと思うよ。まどぎわの妖怪は壁を移動するって言ったじゃん? 壁という壁だから、窓にいるとは限らないんだ。要はまどぎわの妖怪と目を合わせちゃいけないってだけ」

「ずいぶん限定的だね? その、まどぎわの妖怪? っていうのは……どうして壁を這って移動してるの?」

「それはあたしもわかんない。でも都市伝説とか現代の妖怪ってだいたいそんなもんじゃない?」


 閑花はアイスコーヒーを飲んだ。


「そんでさー。とにかく目を合わせちゃいけないの。窓って、壁の中で外が見えるでしょ? だからまどぎわの妖怪がいるのもわかるし、逆にまどぎわの妖怪側もこっちが見えるってわけでさ」

「うん」

「まどぎわの妖怪と目が合ったら……食べられちゃうんだって」

「……」


 閑花が身振り手振りでいかにも怖そうな都市伝説を話したにしては、オチがずいぶんとあっさりだった。

 食べられてしまうということは、殺されてしまうということだろう。

 理不尽に死ぬことや苦しんで死ぬことに対して恐怖を覚える菜緒であったが、この話に抱いた恐怖はそこまで大きくなかった。


「あれ? あんまり怖くない?」

「いや、だって……まだ陽が出てる時間だし、店内の音とか声とかもあるからそこまで……」

「うーん残念……やっぱり夜の帰り道とかに言うべきだったかな……」

「やめて、マジで」


 そこまでされては、もう一人で帰ることができなくなる。


「あははっ、だから菜緒に注意しといてあげたんだー。ほら、菜緒って、エレベーターホールんとこの窓をチラ見する癖があったじゃない」

「あるけどさあ……」


 菜緒と閑花の勤めるオフィスは二十以上もの階数を誇るビルであり、十階に位置するオフィスへはエレベーターを使って向かう。

 その時、菜緒はビルから眺められる風景をちらりと目に映すのが日課になっていた。

 しかし、その日課も崩れ去りそうだ。


「窓を見る癖、治した方がいいんじゃない?」

「大きなお世話ですー」


 菜緒は、空になったカップを片づけた。


   *


「お先に失礼します」

「お疲れさまー」


 時刻は十九時。

 菜緒はやっと仕事を終えた。

 いつにもまして、片づけなければならない問題が多かった。


 身支度をしてオフィスを後にする。

 出てまっすぐ進むと、エレベーターホールが現れた。

 ボタンを押して、エレベーターを待つ。


(閑花が言ってたな……)


 まどぎわの妖怪と、目を合わせてはいけない。

 信憑性の低い話を信じるほど、自分はミーハーではないけれど。

 好奇心がうずくのも確かだった。

 しかし、菜緒は賢明な判断ができるくらいには、頭がしっかりとさえていた。

 いつもは外の景色をながめてから帰るのに、今日に限ってはふい、とエレベーターの方に目をやった。


 冷静な判断のできる菜緒が、思わず窓の方を振り向いたのは、

 べたり、と粘着質な音が耳に張りついたからだ。


 窓のほうから聞こえた音を、菜緒は無視しようとした。

 しかし、音は聞こえ続ける。

 窓からだけでなく後ろからも。

 四方八方から、何かを引きずるような重たい音が近づいてくるのだ。


 菜緒は目線を下にしながら、エレベーターの来るのを必死に待った。

 鼓動が跳ね上がる。

 唇が戦慄く。

 足がすくんできた。

 背筋が凍てついた。

 コートもマフラーも装備しているのに、全身がガタガタと震える。


 ずるり、と。

 音が確実に迫りくる。


 もうだめ。


 菜緒は、ついに窓を見た。


   *


 そこには、女が張りついていた。

 外のビルの灯りを背に受けた女の顔色は、色がないんじゃないかと思うくらい悪かった。

 真っ黒な目に光はなく、ぼんやりと口を開いている。

 口だけは血色が良い。

 鮮やかな緑色の髪が、だらりと重力に従い垂れている。

 

 菜緒は瞬きも忘れ、カエルのように窓に張りつく女から、目を離さなかった。


(あれが、まどぎわの妖怪……?)


 エレベーターは、まだこない。


 女の手が、こちらに向けられていた。

 窓ガラスがあったはずなのに、女の手は、にゅるりとガラスを通り抜ける。


「まっ、ま……まどぎわ……の……」


 肩にかけていた鞄を落とした菜緒は、ホールの壁にどっと倒れこんだ。

 そのままずるずるとへたり込み、動くこともできない。


「い、いや」


 女は、すでにビルの”内側”へ侵入しきった後だった。

 女の黒い目は、菜緒を離さない。

 すたすたと、しっかりした足取りで、菜緒に近づいてくる。

 菜緒は涙目で、「たべないで」とかすかに漏らした。


「あはっ」


 女が、笑った。


「きみ、人間? 食べる? 誰を? 誰が? おもしろいねー」

「……え?」


 菜緒は、目をしばたたかせる。

 自分の目の前に立っていた女は、人懐っこい表情を浮かべ、しゃがみ込んで目線を合わせてくれた。


「あっ、あなたは、まどぎわの妖怪、で……め、め、目があった、ら……食べるって……」

「なぁにそれ! ウケる!」


 女は高らかに笑い声を上げる。

 腹を抱えて、げらげらと。

 少なくとも、演技ではなさそうだ。


「まどぎわの妖怪ねえ。そんなふうに言われてるんだ、私」

「違うの?」

「全部違うよお。目が合ったら食べるって、さすがに食べるものは選ぶよ。傷んだ食材で料理なんかしないでしょ」

「そ、そうだけど……でも! 壁を這って移動してた!」

「そりゃするよ。その方が早く目的地に着くもん。っていうか、私の知らないところでそんなこと言われてんの? やばっ、やっぱこれウケるわ~」


 菜緒は、ずっとあっけにとられていた。

 だって、閑花から聞かされた噂と、目の前の事実はまるで違っていたから。


 と、ここで菜緒は疑問に行き着いた。


「あ、あなたは人間なの?」

「どっちに見える?」


 にんまりと、女は首を傾げた。


「に、人間には見えない……。だって、壁を伝って移動するって……ヒーローじゃないんだから」

「そっか。なら、それが真実かもしらんね」

「答えになってないでしょ」

「細かいことはいいじゃーん」


 菜緒の緊張は解けた。


「でも……待って。じゃあ、何で事実とは違ううわさが流れたの?」

「ああ、それにはいくつか考えられるけど、きみの場合は」


 すると、女はしゃがんだ姿勢のまま、片手をひらりと振るった。

 直後、空を切り裂くような音が生まれ、次に何かが潰れた音が引き出された。


 恐る恐る、菜緒が横をうかがうと、暗闇の中に蠢く何かを見つけた。


 女が、けだるげに立ち上がる。


「自分の噂を立てないための、カモフラージュだ」

「な……」


 まどぎわの妖怪とされる女は、闇からそれを引きずり出した。

 菜緒には、その姿に見覚えがあった。


「し、閑花……」

「ん、知り合い?」


 知り合いもなにも、今日の昼にあなたの噂で会話していた同期ですよ。


 閑花は低くうめき声を上げながら、身を捩っていた。

 奇妙だったのは、彼女の手足や体の一部が、真っ黒に染め上がっていたことだ。


「これ、たぶん、きみの知る人じゃないよ」

「え?」

「きみの良く知るひとに化けて、きみを食おうと狙っていたんだな。きっと。良かったね。生きながらえて」


 にっこりと笑い、女は閑花に化けている何者かを踏み潰した。

 ぐちゃり、と。

 カエルを潰したような音が、菜緒の耳に離れない。


「きみ。噂話には気をつけるこったよ。突拍子もないうわさを持ちかけるような奴は、たいていろくでもないから」


 まどぎわの妖怪は、穏やかに微笑んで、

 こと切れた偽物の閑花を食った。


 エレベーターが、ぽん、と、到着の合図を告げた。



   了

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