胎動

朱珠

第1話

「先生、やっぱ俺って死ぬの?」

「……このままだとね」

「そっか。ああ、死にたくないなあ……」


 心臓病を患ってこの病院に運び込まれたものの、一向に回復する気配はなく、知識のない俺でも死ぬんだなって理解できた。


 具体的に死のどこが怖いのかと聞かれると咄嗟に答えは出ないけれど、ただ漠然と死ぬことが怖かった。


「生きてるだけで殺されるなんて不平等だ」


 先生が部屋を出たのを見計らって、そう呟いた。

 自分が思っている以上にまだ生きていたいんだろうな。いっそこのまま目が覚めなければいいのに。


 そんな想いが報われることもなく、当たり前のように朝が来た。

 ただ今朝は普段とは違った。目を開けると数人の警察官が俺の顔を覗き込んでいたのだ。


「少年、大丈夫か?」

「何がですか」

「そうか、君は何も知らないんだな。実は——」

「待ってください!」


 もう一人の警察官が割って入り、引き剥がすように病室の外に連れ出していった。明らかに只事ではないし、あの言い方からして俺は当事者なのだろう。

 それになんだか胸の辺りがざわついて嫌な予感がした。


 罪状までは教えてくれなかったが、何故か先生は逮捕された。

 別れを告げることさえ許されず、元から身寄りのなかった俺は警察官の兄さんに引き取られた。


 何故か俺の心臓の病状は急激に回復し、普通の生活を送れるまでに至った。俺にとっては願ってもないことだったけれど、それ故に不可解だった。


 このままだと死ぬと言われていた俺が今こうして普通の生活をしている。

 そして兄さんが何故俺を引き取ってくれたのか。


 行く場所のない俺に対しての同情だろうか? それだけならば施設にでも入れれば済む話ではないか。


 疑念が募れば募るほど俺は自分が何者なのかわからなくなっていった。


「兄さん」

「ん? どうした」

「やっぱなんでもない」


 兄さんは首を傾げていつものように柔らかな笑みを浮かべた。

 勇気が出なかった。今の状況は何一つ不自由のない理想の暮らしそのものだったから、その生活が壊れてしまうような気がして踏み出せなかったんだ。


 こんな疑念なんて抱かずになにも考えずに生きていけばそれでいいじゃないか。


「ああそうだ、お前学校に行ってみないか?」

「そこまでしてもらう義理はないよ」

「そんなこと言うな。俺達血は繋がってなくても兄弟だろ」

「じゃあ、行ってみたい」


 その不気味なくらいの温情を俺は素直に受け取ることにした。

 同情だっていいじゃないか、気付かなければ幸せでいられるんだろ。

 学校に通って就職して、今度は俺が誰かを幸せにしてやればいい。


 学校に通い始めて数ヶ月が経過した。特に浮いたりいじめられたりなんてことはなく、それなりに学校というものに馴染みはじめていた。


 教室移動の途中、すれ違った女子生徒が俺の落とした教科書を拾ってくれた。


「はい、落としてたよ」


 受け取って彼女の顔を見ると、途端に胸がざわついた。


「久しぶり」

「初対面だよ? あ、ごめん授業遅れちゃうからばいばい!」


 なんだよ今のは。礼を言う場面だし、言われた通り会ったことなんてないはずなのに勝手に口が動いた。それにあの異様な胸のざわめきはなんなんだ。


 違和感の正体を彼女ともう一度会って確かめようとしたが、如何せんヒントと情報網が狭く見つけだすことはできなかった。


「兄さんは名前を知らない子を探すとしたらどうしてる?」

「おお、一目惚れか?」

「まあそんなとこ」


 本当の所はまるで違うが、なんと説明していいかわからなかったので適当に流した。


「そうだな、俺は片っ端から教室を覗くかな」

「やっぱりそれが一番手っ取り早いのかな」

「ヒントがないなら自分で探すしかないよ」


 まあ確かに他の生徒の目が気になるのを我慢すれば、知人に聞いていって詮索されたり勘ぐられるよりはマシかもしれない。


「ありがとう、おやすみ」

「おやすみ」


 翌日休み時間毎に一つ一つの教室を見て覗いた。

 別の学年の階に行くのは幅かられるが先にやっておいた方が気持ちが楽だと思い、手短に済ませたがあのときの女子生徒は見つからなかった。


 となれば残るは同学年の教室だけになり、すぐに見つかった。隣のクラスだった、灯台もと暗しとはこのことか。


 教室を出てきたタイミングで声をかけて呼び止めた。

 さてなんて声をかけるのが自然なんだろうか、そこまで考えていなかった。

 前も不自然な返しをしてしまったし、おかしな奴だと思われていても文句は言えない。


「こんにちは、どうしたの?」

「あーえっと、友達になってくれませんか……?」

「あはは、なにそれ!」


 こうして俺達は友達になった。彼女の名前は凛というらしく、名前の通りいつも凛としていて快活な姿が目立った。


 胸の違和感も初めて会ったときのような異様なものはなく、至って普通に会話ができるようになった。


「叶多くんは兄弟とかいるの?」


 凛と仲良くなって数ヶ月が経ったある日、突然そんなことを聞いてきた。

 べつに兄さんのことを隠す気はないけれど、彼女に同情されるのを想像すると少し嫌な気持ちになった。


「まあ一応」

「そっか。私はお兄ちゃんがいたけどもう死んじゃった」

「……そうなんだ」


 曖昧な返事で流したが、今度は凛の方から衝撃的な話をされた。

 ドクンと胸が脈をうって何故か気持ちが高揚していくのを感じた。


「ごめんね、反応しにくいよね!」

「俺も元々捨て子で重い病気患ってたんだけど、血の繋がりのない警察の兄さんと一緒に暮らしてる」

「そうなんだ……」


 彼女の目には涙が溜まり、少しだけ口角が上がっていたような気がした。

 そんな辛い悲劇を共通点にして俺達はお互いを心の拠り所にしようとしていたのだろう。辛かったのは自分だけじゃないよって、そう言ってあげたかったのかもな。



「兄さん、そろそろあの病院で何があったのか教えてくれないか」

「なあ、言わないとダメか……?」

「聞かせてほしい」


 兄さんの表情はこわばり震えていた。それでも答えを求めるのはとても酷なことだとわかっていたが、いい加減知らずにいるのが辛かったんだ。


 兄さんはようやく諦めと決心がついたようで話を始めてくれた。


「叶多の中にある心臓は叶多のものではないんだ」

「は、でもドナーはいないって!」

「だからあの医者は入院していた患者を殺してその心臓を君に植え付けたんだよ」

「ゔっ……ゔぉぇっ……ゔぅ……」


 その場で猛烈な吐き気が襲い、俺は何度も何度も何度も嗚咽した。言葉の意味が俺には大き過ぎたのだ。


 俺の中にある心臓は、殺された誰かの心臓で、殺したのはあの先生?


「……気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い」


 いっそ心臓ごと吐き出してしまえたらよかったのに。

 人の命を奪って今俺はここにいるのか。

この心臓の持ち主だってまだ生きていたかったはずだろ。


「生きてるだけで殺されるなんて不平等だ……」

「あの先生は叶多のことが実の息子のように大切だったから、命の重さを天秤にかけてしまった。そして自分の人生をかけて、人の命を奪ったんだ」


「そんなのおかしいだろ! なんでそんな……! 俺なんかのために!」

「一度あの人に会いに行ってみたらどうかな」


 数日後、俺は兄さんに連れられて先生の元へ訪れた。

 久しぶりに会う先生は見違えるように衰弱していて髪も髭も無造作に伸びたまま放置されていた。


「叶多くん、よかった。ちゃんと回復したんだね……」

「なにも良くない! なんで勝手なことばっかりするんだよ!」


「人を救う医者という立場でありながらこの手で人を殺め、道を踏み違えた。でもね、単なるエゴだけど生きてほしかったんだよ僕は、君に」

「……っ!こんな命なんか!」


 先生の言葉に激高した俺はその場から逃げだした。

 走って走って、後ろから追いかけてくる兄さんの声に耳も傾けずに走り続けて近くの建物の屋上に出た。


 夜風にあたって頭を冷やそうと思ったのだが、あの医者の言葉を思いだすと堰を切ったように我慢していた感情が溢れだしてきた。


 これからもずっと知らない人が胸の中にいて、きっとその人は俺のことも恨んでる。俺が『死にたくない』なんて言わなければきっとこんなことにはならなかった。漠然とただ生きていたいと願っていただけの俺にこの心臓は荷が重い。


「こんなことならあのまま死んでいった方がよかった!」

「落ち着け、叶多。お前の命はもうお前だけのものじゃないんだ」

「わかってるよ! でもどうしようもなく生きてるのが辛いんだよ!」


 いつの間にか追い付いていた兄さんから距離をとるように俺は後ろに向かって少しずつ移動した。それに呼応して兄さんはまた距離を詰める。

 遂に柵に背中がぶつかる感触を覚えた。


「どうして辛いか話してくれないか?」

「俺にはこの心臓と先生の人生を奪ってまで生きるだけの価値がないだろ。それなのに知らないうちに全部終わってて取り返しがつかなくて」

「でもお前がここで死んでも何も解決しないよ」


 そんなのはわかってる。でも死んだらこんな風に思い悩むこともなくなって誰かに恨まれたってわからない。


 ありゃ、おかしいな。あんなに死にたくなかったはずなのに、今は死にたくてしょうがなくなってる。


「俺やあの医者は叶多が死んだら悲しむ」

「この心臓の持ち主の家族だって悲しかったはずだろ……」


 きっとこの心臓の持ち主は凛のお兄さんだ。あの異様な動悸は凛のことを心臓が覚えているんだ。実質的に俺があの子から兄を奪う原因を作ってしまった。


 俺の死で事が清算されるわけがないことはわかってるけど、もう合わせる顔がない。いっそ仇として、それを免罪符に死ねたのなら俺は——。


「お前が死んだら余計に悲しむ人が増えるだけだろ。お前の友達は? 前に言ってた好きな子はどう思うと思ってんだよ!」

「他の友達はともかく、凛はきっと喜ぶと思うよ」

「ならその子に直接聞け。そんでまだ気持ちが変わらなかったら一緒に死んでやる」


「……言質とったから」

「ああ。だからとりあえず、今日はもう帰るぞ」


 兄さんに手を引かれたまま帰った。家に着くまでは右手をがっしり掴まれて、いくら抵抗してもびくともしなかった。


 強く強く握られた痛みが、そのまま死んでほしくないという気持ちとイコールのように感じられて複雑な気持ちになった。


「明日凛と話してくる」

「そうか。もう寝ろ」

「じゃあ出てってくれよ」

「寝てる間に抜け出されたら困るだろ」

「約束はちゃんと守るってば」


 どれだけ言っても兄さんは出ていく素振りを見せなかったので気にせず眠ることにした。目を開けると腕を組みながら、微睡む兄さんの姿が見えたので起こさないようにそっと家を出た。きっと朝方まで起きたまま見張っていたのだろう。


 凛とは近所の公園で待ち合わせ、無事合流することができた。

 挨拶を交わしてベンチに腰かけた。大事な話があると呼びだしたのでそれなりに心構えはしているだろうが、俺の方がまだ何から伝えればいいのか整理できていない。


「俺が死んだら悲しんでくれるか?」

「え、どうしたの? もちろん悲しいよ」

「そうか、ありがと」


 突然おかしなことを言いだす俺に、凛は目を丸くする。


「お兄さんの心臓が今ここにあるとしたらどう思うかな」

「それってどういうこと……?」


「凛のお兄さんは殺されたあとに心臓を摘出された。その心臓が今俺の命を繋いでるんだ。もっと正確にいうと俺の命を繋ぐために君のお兄さんは殺された」

「叶多くんのためにお兄ちゃんが死んだ……?」


 言葉の意味が理解できないといった感じで何度も同じ言葉を口にしていた。

 そんな状態の凛に俺は事細かに状況を説明した。彼女のそんな様子を見るのが辛かった。きっと兄さんもあのときこんな気持ちだったんだろう。


「俺が死にたくないなんて願わなければ」

「いや、違うでしょ。そうじゃないでしょ! 願わなければお兄ちゃんはまだ生きてたかもしれないよ……。でも今叶多くんが死んだって誰も救われたりなんかしないでしょ!」

「それはそうだけど、恨んでないのか……?」


 さっきまで心ここに在らずといった様子だった凛が、俺の言葉に反応してまくしたてた。気圧された俺は拙い言葉を返すことしかできなかった。


「恨んでるのは、悪いのは叶多くんじゃなくてその先生……。でも叶多くんが自ら死を選ぶのと私を含めた周りの人を不幸にするのは同じことだよ。エゴで人を不幸にしちゃったらその先生と一緒だし、私は君を嫌いになると思う」


「もう満足しただろ、叶多。今価値がないなら価値のある人生にしていけばいいだけだ」

「そうだね」


 いつの間にか後ろに立っていた兄さんは両手で俺の肩をぽんぽんと叩いた。

 どうやら思っていたよりずっと俺の人生には価値があったらしい。


 二人がこんなに応援してくれるなら、今度は俺が応援する側にまわれるように生きてみたくなる。心臓がドクンと跳ねた。前言撤回、二人ではなく三人の間違いだったみたいだ。


「ああ、まだ、死にたくないな」


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