第1章 

第1鬼 化け物の噂

 都から少し離れたところには、小さく、住んでいる人もそれほど多くはないが、決して貧しくない村があった。周りには、大きな山が聳え立ち、争いごとはここ数十年の間に一回も起こったことがないほど恵まれた場所。しかし、そんな村にも、ある奇妙な噂があった。


 それは村のはずれに、1人の化け物がひっそりと暮らしているというもの。この世界で化け物と言えば妖の事だ。いきとし生ける生き物すべてが少なからず持っている負の感情を餌にして繁殖し、その負の感情を求めて人を襲ったり、精神に入り込んだりする。


 ある時そんな化け物がいるという噂を確かめるために外から来た好奇心旺盛な村人達がわざわざ様子を見に赴いたが、突然後ろから声を掛けられ、挙句追いかけられたり、またある日には、家の中から、刃を研ぐような音が聞こえてきたり……といった出来事があり、その村を含む周囲の村の人達を怖がらせた。


 だから、その噂が流れ始めた6年前から気味悪がった村の大人達はその山の周辺には近づかない。子供達も、親たちが怖い顔をして話聞かせてくるものだから、普通の子は近づかなかった。

 しかし、世の中にはそれでも近づく好奇心旺盛な子供達も存在するのだ。


「ねぇ、にいちゃん。かえろーよー」


 ガサガサと草木をかき分け、ずんずん進んでいく兄を、立ち止まった弟が半べそかきながら言う。一方の兄は、その声に足を止めたが、振り返り見るその顔は、呆れた表情だった。


「何言ってんだよ。まだ噂の化け物の住処までぜんぜんあるんだぞ?」

「で、でも、母ちゃんたちがあぶないから近づくなって、よくいうじゃんか…。それにその化け物、口が裂けてて、髪がバサバサしていて、目がギョロってしてて…、見つかったら食べられちゃうよ!!」

「はっ。そんなの親のはったりに決まってるだろ。…それとも何?お前怖いの?」

「…うん」

「あぁあ。これだから餓鬼は」


 兄の大げさなため息に、弟の方がやや眉を顰める。そして、口をとがらして、「にいちゃんだって…」とぼそっとつぶやくも、ギロッと睨まれて、ひゃっと肩をすくめる。


「じゃあお前は早く帰って、母ちゃんのとこで泣いてこればいいだろ!」

「1人でかえれない…」

「……」


 兄の無言の眼差しに、弟が大きな瞳を潤ませる。けれど、その顔がみるみる強張り始めた。


「ん?どうした?」

「にーちゃん。う、うし…」

「は?牛?」


 弟の指し示す方向に兄が怪訝そうな顔のまま顔を向ける。すると、そこには、短髪の黒髪に、吸い込まれそうなほど美しく青い双眸を持つ印象的な人がいた。片耳には赤色から白色へグラデーションされている小さな玉の耳飾りをつけていて、年はだいたい16歳ほど。笑いも、驚きもせず、ただジッと2人の様子をうかがっている。

 兄の方は、相手の突然の登場に驚きつつ、ははっとどこかホッとしたような笑う。


「んだよ。驚かせんなよ。ただの人じゃん」

「で、でも、にいちゃん!この人、向こうから来たんだ!それに、このおにいちゃんの顔、今までぼくみたことないよ」

「…言われてみれば、確かに。でも、まさかこいつが化け物な、わけが…」


 そう口では言いつつも、兄の顔も少しずつ青ざめていく。


「…なぁ、お前、外の村の奴?お前の家どこにあんの?」


 兄の問いかけに、2人の前に立っているその子は一度目を閉じてから、スッと森の奥の方を指さした。すると、その方向を見た2人の表情が真っ青になったかと思うと1,2を争うかのように村の方へ走り出した。


「ば、化け物の手下だー!!」

「やだ!にーちゃーん!おいてかないでー!!」


 一目散に逃げて行ってしまう2つの背中と、無意識にそちらに伸ばしかけていた自分の右手を見て、白蓮はハァッと思いため息を吐く。


(……化け物でも手下なんかでもないんだけど)


 普通このような村人からの拒絶には、大抵の人が心を塞ぎこむくらいつらいものだろう。しかし、今の白蓮はただ【しかたない】と思うだけだった。


 なぜ自分が化け物という存在として噂されてしまったのかはわからない。彼らの形容する化け物の姿と、自分のすがたは真逆と言っていいほど違うというのに。刃を研ぐ音がどうとかの噂だって、ただ包丁の切れ味が悪くなって鳥肉が切れなかったから研いでいただけだ。



 白蓮は中断した木の実取りを再開するために、近くに置いていたかごを掴んで、実りの良い果実があるかどうかを確認するためにあたりを見渡す。


『白蓮、ごめんねぇ。1人に、させてしまうね。…本当に、ごめんねぇ』


 ふとその時、頭の中で最後に聞いた婆様の言葉が響いた。細くなってしまった手や、永遠に目を閉じる前に見せた最後の涙はまだ鮮明に覚えている。否、忘れられないといったほうが正しいかもしれない。


(婆様、またあなたと話がしたいです…)


 この願いはかなわないことがわかっているけれど、そう思わずにはいられなかった。


 しばし目を閉じ、かつての婆様の笑顔を思い出そうとした時、ザザザッと草木をかき分けてくる音が聞こえてきて、白蓮はそちらに目を向けた。人間が近づいてくる音の速さではない。ということは獣か。


 そう思った時、黒い影がバッと草の間から出てきて、白蓮の目の前で着地をした。銀色の瞳をまっすぐ白蓮に向けてくるのは、この山の狼――白銀しろがねだ。小さいころから、動物の住む森の中で生きてきたからか、白蓮は動物と――主に白銀しろがねと――意思疎通を図ることができるようになっていた。

 白蓮は自分の近くで礼儀正しく座っている白銀しろがねの毛を撫でてあげながら、彼の瞳をジッと見ると、何かを感じ取り厳しく目を細めた。


「…わかった。案内してくれる?」


 白銀しろがねはその言葉を理解したようにコクッと頷くと、すぐ近くにある山の滝水の方へと白蓮を連れて行った。







 滝水は尽きることなく、激しい音を立てながら流れている。聞くだけならばいつもと何も変わらない。しかし、光景は少し違った。

 ごうごうと崖の上から容赦なく落ちる滝場から少し離れた場所(水の勢いが落ち着いた場所)に、1人の青年が上半身だけを陸に寝かせて倒れていた。村の人ではない。どうやら旅人のようだ。


 白蓮は白銀しろがねを連れたって彼の近くに寄り、青ざめた青年の端正な顔を覗き込んでみる。微かに息をしているが、見たところあちらこちらに打ち身の跡があった。きっと川上から流れてきたときに岩やらに打ち付けたのだろう。血もにじんでいるし、処置をしなければ。

 かといって、細身の白蓮がおぶって家まで連れて行くのは困難そうだ。


「…どうしたものか」

「クゥン」

「ん?手伝ってくれるのか?」


 白銀しろがねは一度その首を縦に動かすと、背に乗せやすいように構えてくれる。


「ありがとう」


 白蓮は白銀しろがねの頭を緩んだ笑みを浮かべながら再度撫でてから、青年をひとまず水の中から引きずり出す。しかし


「うわっ!」


 青年の身長が自分より大きいせいで抱えるのにバランスを崩してしまった白蓮は、ドシッとその場で尻もちをつく。顔をしかめつつ、強打した尻を摩っていると、ふと自分の膝の上に乗っかっている青年の重みに驚きを覚えた。


「人って、こんなに重いんだ……」


 今までなかった体験に白蓮は感心していると、「ワフッ!」という白銀しろがねの声に我に返って、急いで青年の体を狼の背に乗せた。

 最初は白銀しろがねがつぶれてしまわないか不安に感じていた白蓮だったが、なんともなさそうな顔を見て、不要な心配だったと苦笑を漏らす。

 そして、青年が落ちないように見守りながら、自分の家の方へと向かったのだった。

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