10話:思い出とのさよなら
和臣が以前住んでいた部屋は、模範囚の部屋のように簡素で何もない。
大学卒業と同時に実家を出て、初めて一人暮らしを始めたワンルームのマンション。室内にある家具はベッドと机、そして医学書ばかりが並ぶ本棚だけ。テレビなんて見る暇もないと思ったから、買いもしなかった。
部屋を訪れた友人にはいつも「もっと趣味を持て」と言われた。だが元々インテリアにも興味はないし、一日の大半を病院で過ごす研修医には帰って寝る場所さえあれば十分であるため、改善しようなんてことは一切考えなかった。
そんな和臣が忙殺されるような日々の中、わざわざ時間を割いて前の部屋からの引っ越しを決めたのは、西条と関係を持ったからだ。
西条と同じ時を過ごすなら学生が住むような部屋ではなく、広くて落ち着ける場所がいい。そう考えて選んだ新居はリビングが広めな1LDKのマンションで、引っ越しの時は西条も少ないはずの休みを犠牲にして手伝いを買って出てくれた。
インテリアに拘る派らしい西条は荷物を整理してくれたり、家具の配置を考えてくれたりするだけでなく、やれ「間接照明をたくさん置きましょう」だの、「この置物、部屋の雰囲気に合うと思うんですけど」だのと言って色んなものを買って寄こした。その結果、まるで雑誌で紹介されるような部屋が出来上がり、そこで一緒に引っ越し蕎麦を食べた記憶が強く残っている。
西条は肌を重ねる夜こそ何も言わずに帰ってしまうが、それ以外の時は普通の後輩として支えてくれる男なのだ。
そんな、西条の思い出と影が色濃く残る部屋の中で一人、ソファーに座って天を仰ぐ。
西条が開業を希望しているとなると、おそらく北海道の研修の話は自分が行くことになるだろう。四十歳での開院を目指したとして、まだ十分時間はあるものの、毎日の激務に加え、論文の作成でも大幅に時間を取られる中での開業準備となれば、十年でもギリギリ、いや足らない可能性だってある。さらにそこへ人生での一大イベントである結婚計画も同時進行させていかなければならないとなると、なおさら無理だ。
一生所帯を持たないという意味で身軽さを考えても、やはり和臣が適任だろう。
「北海道……か」
神奈川から北海道まで、約九百キロメートル。電車とバス、そして飛行機を利用して約三時間かかる。
「遠いな」
それに寒い。思い出も冷え切るぐらいに。
けれど。
――それでいいのかもしれない。
ふと、和臣の脳裏にそんな考えが過った。
諦めの境地からくる自暴自棄なのかもしれない。しかし、もう二人の道はほぼ決まってしまっているのだ。いくら心の中で駄々をこねてもどうしようもないのなら、この機会を利用して無理矢理一人に戻ったほうがいい。
最初は辛いだろうが、絶対的に縮まらない物理的な距離ができてしまえば時間が忘れさせてくれるかもしれない。
西条が選んだ照明も買ってきた置物も全部処分して、真っ新になる。それでこの辛さから逃れられるなら。
そう思い立った和臣は凭れていたソファーから背中を起こし、ちょうど目に入ったクリスタルの地球儀の置物に手を伸ばした。これは西条が引っ越し祝いの一つとして贈ってくれた物だ。
――思考を止めろ。余計なことを考えるな。
たった数分だけでいい。思い出を処分する間だけ何も考えない人形になろうと自分に言い聞かせて立ち上がると、取り出したゴミ袋片手に思い出の品々を次々袋の中に放り込んだ。
西条が学会に参加した時に土産て買ってきてくれた、薩摩切子のペアグラス。
いらない。
映画公開中に見に行けなかったと言ったら、西条が買っきてくれたDVD。
いらない。
洋酒が好きな西条が、一緒に飲みたいと持ってきた年代物のウィスキー。
いらない。
分別なんて関係なく、どんどん入れていく。袋の中で瓶や硝子が当たって高い音が鳴ったが、そんなことに構っている余裕なんてない。
やがて棚の上がまっさらになり、ビニール袋の中がパンパンになる。
――これでいい。
あとは袋の口を縛って、外へ持っていくだけだ。
和臣が住むマンションには、三百六十五日いつでもゴミを出せる収集所がある。そこに置いてしまえば、あとは業者が勝手に持っていてくれる。和臣は部屋の鍵を手に取り、医学書の束並に重いゴミ袋を持ったまま玄関へと向かう。しかし――――。
『東宮先生って知的なイメージが強いから、こういったものが合いそうだと思って』
クリスタルの地球儀をくれた時の西条の嬉しそうな顔が、不意に浮かんだ。
『綺麗ですね。俺、プラネタリウム大好きなんですけど、なかなか見に行けなくて。でも、これなら先生と一緒に楽しめます』
これはホームプラネタリウムを二人で鑑賞した時の思い出。
『この本、実は開くとライトになるんですよ。夜、起きた時に真っ暗だと危ないので、これナイトランプとして使ってください』
ブック型ライトの優しい記憶。
玄関扉のハンドルに手をかけようとした瞬間、愛おしい思い出がこころのなかからどんどん湧き出てきて、たちまち指の力が抜けた。
このままハンドルを押すだけで扉は開くというのに、もう掴むことすらできない。
――いやだ。
――いやだ、捨てたくない。
これは何よりも大切な宝物だ。手放してはいけない。本能が全身にそう指令を出して和臣の動きを止める。
自然と指から袋が離れ、床にゴトンと鈍い音を立てて落ちた。それを追いかけるように和臣の膝は崩れ、硬い床にぶつかった。響くような痛みの後、服越しにタイルの冷たさが伝わってくる。けれどそんな感覚などお構いなしに、和臣は両腕を伸ばして思い出が詰まったゴミ袋を包み込むように抱えた。
「くっ……ぅ、っ……」
自然と嗚咽が零れた。ビニールの上にポタポタと透明色の雫がいくつも小さな湖をつくる。
ーー失いたくない。思い出も、西条自身も。
現実逃避したい自分が駄々を捏ねる。
だが、今の和臣にはやはりどうすることもできなかった。
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