9話:遠のく幸せ

 オフホワイトを基調とした病棟廊下の壁には、パステルカラーで彩られた花や動物キャラたちがたくさん描かれている。

 笑顔で花を持つウサギとイヌ、サルにタヌキ。それを見守る大きなクマ。どのキャラも幸せそうだが、今はそれらに何の感情も抱かない。

 

 夕方の回診を終え、記録を作るため医局へと戻る中、和臣はチカチカと眩しすぎる壁に思わず眉を顰める。こんな姿、絶対に子どもには見せていけないのに、ふと気を抜くと西条の顏が出てきてしまって、その度に気分が重くなる。

『これからは、どれだけ辛くても一人で対処します』


 そう言われ、差し出した手を拒絶されてから一週間。西条は宣言どおり一切和臣を求めてこなかった。もしかして、途中で「やっぱり無理だった」と連絡してくるかもとも期待したが、それも単なる妄想に終わり、さらに和臣の心に冷たい嵐が吹き荒ぶったことは言うまでもない。


 ――やっぱり、もうオレは必要ないのか。


 現実が鋭利な刃をその手に持って、どんどん迫ってくる。

 西条と歪な関係を始めた時から、終わりがくることは覚悟はしていた。馬鹿としか言いようがないが、常に最悪を思い浮かべていればその日がきても平静でいられると思っていたからだ。だけれど実際に感じる心の痛みは、想像を遙かに超えていた。

 

 まさかこれほどまで心が不安定になるとは思ってもいなかったと、和臣が重たい気分をどう処理しようか悩みながら職員部屋に入ろうとしたその時。


「ねぇ、何か西条先生って変わったよね」

「あーそう言われてみればそうかも」


 ナースステーションから明らかに業務内容とは思えない話が聞こえてきて、ふと足が止まった。

 西条の名に意識を引かれて壁の影から覗くと、若い女性看護師が二人内緒話でもするかのように肩を寄せ合っている姿が見える。



「いきなりスイッチが切り替わった、みたいな?」

「そうそう、前はどこか不安げなところが見え隠れしてたんだけど、突然、頼もしくなって。今日なんて子どもさんの手術が怖くて泣いてた親御さんと話をしてたんけど、前なら保護者と一緒になって泣きそうになってたのに、今日は終始落ち着いて慰めててさ」


 比較的急を要する患者がいないせいか、看護師たちはステーションと廊下を遮る壁のすぐ横に和臣がいることにも気づかない様子で話に花を咲かせている。


「そうそう、そんな感じ。西条先生ってこれまで予後の悪い患者さんの対応した後とか、心が折れちゃいそうなぐらい落ちこんでたでしょ? あれ見ていつもヒヤヒヤしてたけど、最近はどんな時でも毅然としてるもんね」


 どうやら看護師たちも西条の弱さに気づいていたらしい。さすが女性の目は侮れない。

 

「でも、いきなり変わったって……何か心境の変化でもあったのかな?」

「うーん、仕事では変わったことはないと思うけど。でもまぁ男が突然変わったとなれば、原因は一つしかないわね」

「え、何々?」

「そりゃ、やっぱり恋でしょう!」



 恋。その言葉に、鳩尾の辺りがギュッと絞まり上がる。



「嘘っ! 相手、誰っ?」

「それがなんと! 皆口ちゃんなんだよー」

「ええっ? 皆口ちゃん? 知らなかった!」

「私もよ。でもこの前二人で休憩室で向かい合いながら、家を建てるだのどうだの盛り上がってるの見ちゃったもん!」

「でもそれって、皆口ちゃんのお父さんが建築士だからとかじゃないの?」

「私もそう思ったけど、二人で家のカタログを指差しながら、『私はこうした方がいい』とか『俺もその案はいいと思う』とか、意見言い合ってたんだって! それって将来一緒に住むからでしょっ?」



 西条と皆口の会話を聞いたという看護師は、それ以外考えられないと断言する。

 確かにその会話から読み取れるのは、将来の話だろう。盗み聞きしていた和臣も、静かに納得してしまう



「マジかー。玉の輿じゃん! ふわふわ王子、他の科でもかなり人気だし……うわー羨ましすぎる!」

「まぁでも皆口ちゃんなら納得じゃない? 二人、性格そっくりだから嬉しいことも悲しいことも分かり合える関係になれるだろうし」

「似た者夫婦ってやつか。いいなぁ。うちらにはいつ発表してくれるんだろう」



 発表という言葉に、ドキン、と一際大きく心臓が嫌な鼓動を発した。

 握り込んだ拳も、おかしなぐらい大きく震えている。


 西条が結婚。


 ――嫌だ。


 西条を誰にも渡したくない。

 

 現実を認めたくないもう一人の自分が、胸の中で赤子のごとく喚き始める。自分ではどうしようもできない慟哭が、今にも皮膚を破って飛び出してきそうだった。


 西条を自分のものにしたいだなんて、和臣には口にするどころか願う資格すらないというのに。


 己を戒めるように唇を強く噛んだ和臣は、咄嗟に踵を返し道を戻る。

 しかし咄嗟に歩き出したはいいものの向かう場所がない和臣は、一度病棟を出て売店にでも行こうとエレベーターホールに向かった。

 

 その途中で、見知った声に呼び止められる。


「あ、東堂先生。よかった、ずっと探してたんだよ」


 声に反応して上げた視線の先にあったのは、小児科部長の尾根の柔らかな顏だった。

 

「尾根先生? 何かありましたか?」


 声が震えないよう喉に力を込めながら、近づいてくる尾根にいつもの表情を浮かべる。


「ちょっと大事な話があるんだけど、今大丈夫かな?」

「ええ……大丈夫です」



 本音をいえば平気ではないが、今は一人でいるより仕事の話をしている方が気を紛れさせることができる。それに大事な話となれば患者のことかもしれないと、和臣は頷いて話を聞く体勢に入った。



「じゃあ、そこの談話室空いてるみたいだから、そこで」

「はい」



 尾根の後に続いて談話室へと入る。中のソファーに座ったところで、すぐに話が始まった。


「これはまだ内密な話なんだけど、実は今度、うちの病院と提携してる北海道の病院との間で、医師同士の交換教育プログラムというものが実施されることになってね」

「交換教育プログラムですか?」


 聞き慣れない言葉に和臣は首を傾げる。


「そう。互いの病院の医師を交換することによって、より多くの病態に接する機会を増やし、知識や技術を磨くってものなんだ」


 尾根が言うには、どうやら最近の研究で『様々な病気の発症および治癒率は地域差によって大きく異なる』という結果が出されたらしく、その論文を読んだ院長が、「ずっと同じ場所で働き続けるよりも、遠地で学んだ方が色々な処置知識を得ることができる」と、この研修プログラムを思いついたらしい。



「それでうちの科からも一人、参加させる医師を選んで欲しいって言われてね……僕としては東宮先生はどうかなって思ってるんだ」

「え? オレですか?」


 和臣は双眸を丸く開く。


「ええ。……とはいっても、受け持っている患者さんのこともありますから、まだ候補段階の話ですが」

「そ……うですか」


 本決定ではないと言われ、内心ホッと胸を撫で下ろす。しかし息を吐くも束の間、和臣はすぐに安堵するにはまだ早いことに気がついた。

 自分が候補だというなら、他にも参加医師として考えている人間がいるはず。

「あの、他に誰か候補はいますか?」

「一応、三十代の若い先生がいいなと考えているので、西条先生と横手先生も候補に上がってます。ただ、横手先生は先日出産されたばかりなので難しいかなと……」



 できればどの医師にも均等にスキルアップの機会を与えてあげたいのだが、と尾根は残念そうに眉を垂らす。

 三人の候補のうちの一人が難しいとなると、必然的に北海道に行くのは自分か西条かのどちらかになる。それはつまり――――。

 

 

「でもまだ少し先の話なので、今は頭の隅で考える程度でいいですよ。あと何か不安なことがあったら、いくらでも相談に乗りますから言ってください」

「はい……わかりました……」

「では、よろしくお願いします」



 話を終えた尾根が部屋から出て行き、和臣は再び一人になる。行儀が悪いと思いながらも、和臣は会議室の机の上に腰を掛けて重い溜息を零した。

 

「北海道……」


 今日は何て日だろう。ついさっき西条のことで大きな衝撃を受けたばかりなのに、さらに追い打ちをかけられるなんて。

 まるで運命に「さっさと諦めろ」と急かされているかのようだ。


 西条は和臣から離れ、自分の道を進み始めた。二人の前に敷かれた道にも、避けて通ることのできない分岐点ができてしまった。

 

 だけれども、ここまではっきりと希望が閉じてしまったというのに、頭は全然納得してくれない。 

 後悔を募らせる和臣の隣で、今もなおもう一人の自分が西条を失いたくないと泣き叫んでいる。

 

 どうすることもできない悩みが、もう一度吐き出した溜息とともに、空気に溶けていく。

 

 このまま西条に対する想いが、溜息と一緒に消えてくれたら。

 願ってはみたが、現実は甘くなかった。


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