第2話:病棟回診
朝の光を浴びて明るく染まった病棟の廊下には、まだ早い時間だというに多くの保護者の姿があった。
本来の面会時間は十四時から。今は入院患者と医療関係者以外の滞在が許される時間ではないのだが、桜木大病院の小児科は親の二十四時間付き添いを認めている。ゆえにこういった別の科では見られない光景が広がるのだ。
親はすごい。いくら夜間の付き添いが認められているとはいえ、病室には親用のベッドなど用意されていないのに、子どもに寂しい思いをさせたくないと、親たちは当然のように窮屈を選ぶ。
そういった姿を見る度に、和臣は親の偉大さを思い知らされた。きっとどれだけ医療の知識を頭に詰め込んだとしても、親の愛の前では足元にも及ばないだろう。
だからだろうか、無性に「自分も負けてはいられない」という強い思いに駆られる。
今、目に映っているすべての人を、笑顔で家に返したい。
もう二度と入院なんて必要ない元気な身体にしてやりたい。
その願いを胸に、和臣は今日も患者の下へ向かう。
そんな時だった。
担当患者がいる病室へと歩いていた最中、いきなりシュッ、と何かが音を立てながら和臣の目の前を横切った。
「……え?」
見間違いでなければ、今、何かが高速で飛んできた。
突然のことに和臣は息を呑んだまま瞠目する。それからおそるおそる物が飛んでいった方向を見遣ると、そこには廊下の壁にぶつかってから床に落ちたトラのぬいぐるみがあった。
「……は?」
何でこんなものが。
可愛らしいトラを見つめながら和臣は首を傾げていると、ほどなくしてすぐ隣の病室から耳をつんざくような泣き声が聞こえてきた。
「やだやだやだやだぁぁぁ、あっちいってぇぇぇ!!」
「沙織ちゃん、泣かないで。絶対に痛くしないって約束するから」
「うそ! 昨日はいたかったもん! 今日はぜったいイヤ!」
慌てた看護師の声と、激しく泣く子どもの声。一体何事かと病室を覗き込めば、四人部屋のベッドの上で、五歳の少女が顔を真っ赤にして大粒の涙をボロボロと流す姿が見えた。
「沙織ちゃん、おはよう。朝からどうしたの?」
そのまま部屋の中に足を踏み入れ、なるべく声を柔らかくすることに務めて声をかける。
しかし。
淡いピンク色のパジャマを着た少女・沙織は和臣の顔を見た瞬間に、なぜかさらに高い声で泣き始めた。
「やだやだせんせいやだぁぁぁ!」
「さ、沙織ちゃん?」
何もしていないのに全力で拒絶され、和臣は意味も分からず動揺してしまう。すると沙織の相手をしていた看護師の折田が、申し訳ないといった顏で謝ってきた。
「東宮先生、すみません。沙織ちゃん、お医者さんが来たら、怒られると思ったんじゃないかと……」
「ああ、そうなんですか」
幼子は親からよく「言うこと聞かないとお医者さんに怒られるよ!」と言われるからか、医師に怖い印象を抱く子が多い。ゆえに怖がられるのは仕方ないが、それより今はどうして沙織が尋常ではない様子で泣いているのかが気になった。
「もしかして、沙織ちゃん今朝は採血がある日ですか?」
「はい。一昨日から夕方になると微熱が出るとのことで、昨日から朝の採血が入るようになって……」
「でも、たしか沙織ちゃん採血苦手じゃなかったですよね。どうして急に?」
「それが、昨日沙織ちゃんの採血を担当した看護師が新人で、かなり痛かったらしいんです。それで……」
折田が眉を垂らしながら事情を説明する
「なるほど……。でも折田さんは採血上手いので大丈夫では?」
沙織の横で困った顏をしている折田は、小児科の中でも屈指の腕利きだ。きっと彼女なら痛みを感じる前に処置を終えることができるだろう。そう期待した和臣だったが、折田は気まずそうな笑みを浮かべて小さく首を横に振った。
「子どもって一度悪い記憶がついちゃうと、もうダメみたいで」
いくら痛くしないからと説得しても、一向に聞き入れてくれないのだという。
「でも沙織ちゃんの微熱も気になりますし、採血はしないと……」
「折田さんでダメなら、あとは親御さんからの説得か。今日、沙織ちゃんのお母さんは?」
「今日は夕方からしか来られないそうです」
「じゃあ親御さんが来るまで、採血は待つしかないか……」
朝一番の採血は結果も早く出るし、身体の状態を詳しく知るためには同じ時間帯での検査が好ましい。が、ここで無理強いしてしまえば、今度はすべての治療を嫌がってしまうようになるかもしれない。
沙織は来月、手術の予定が組まれている患者だ。ここで内科の治療が止まってしまって手術ができないとなってしまったら、また予定を調節するために入院が伸びてしまう。それだけは避けたいと、和臣は息を一つ吐いてから沙織に朝の採血はしないと伝えようとする。
「沙織ちゃん、じゃあ――――」
和臣が口を開いた次の瞬間。
「沙っ織ちゃーん、おはようございまーす!」
朝から元気すぎる挨拶とともに、突然耳の横からウサギのぬいぐるみが現れ、和臣は驚いてその場で固まった。
「ラビちゃんとぬいぐるみの病院がやってきたよー」
「うわっ! ……って、西条?」
肩に乗せられたふわふわな毛の感触に目を見開いて振り向くと、そこには片手にぬいぐるみ、片手におもちゃの注射器を持った西条が笑顔を浮かべて立っていた。
「泣かないで、沙織ちゃん。先生たちはね、沙織ちゃんに注射をしに来たんじゃないんだよ」
「お注射……しないの?」
「うん! 今日はね、沙織ちゃんにお医者さんになって貰おうと思ってきたんだ」
「サオが……お医者さんに?」
予想もつかない言葉に、沙織の涙が止まる。
「今日ね、先生のおともだちのラビちゃんがカゼを引いちゃったみたいなんだ。苦しそうだから沙織ちゃんに治してくれないかな?」
説明をしながらウサギのぬいぐるみを沙織のベッドの上に寝かせ、心配そうに頭を撫でる。
「サオが……なおすの?」
「そう。この注射にはカゼのお薬が入ってるんだけど、ラビちゃんがどうしても沙織ちゃんに打って貰わなきゃいやだっていうんだ。だからお願い!」
「……いいよ。それならサオがやってあげる」
鼻をすすりながら沙織が小さな手を差し出すと、西条は柔らかな動作でおもちゃの注射を渡した。
「じゃあ、その注射をラビちゃんの腕に打ってあげてください」
ここだよと指を指してから、西条がぬいぐるみの腕に赤色のリボンを結ぶ。位置からしてリボンは、採血時に腕に巻く駆血帯を模しているのだろうとすぐに分かった。
「西条、筋肉注射の時に駆血帯はーーーー」
「東宮先生、今から沙織ちゃんがお注射するので、お口チャックしてくださーい」
注射をする、ならば静脈注射か皮下注射か筋肉注射。状況から筋肉注射だと判断して指摘するが、笑顔で一蹴される。
なんだか馬鹿にされた気分だ。
まだ指導が必要なひよっこのくせに、指導医を馬鹿にするとはいい度胸だ。
「さぁ沙織ちゃん、ゆっくりね。ゆっくり打つと、この注射は絶対に痛くならないから」
「ゆっくり……」
小さな手がそろりそろりとオモチャの針先をぬいぐるみに近づけ、息を吹きかけるほどの力で押しつける。
『うわぁ、いたくない! いたくないよ、沙織ちゃん!』
沙織がそっと注射器のブランジャーを押した瞬間、西条がぬいぐるみを掴んでいた指を細かく震わながら、高い裏声でウサギに声をあてる。
「沙織ちゃん、すごい! 一回で成功した子は初めてだよ!」
元の声に戻した西条が沙織を褒めると、沙織の顏が一気に晴れ上がった。
「え? ほんとう?」
「本当だよ! いやぁ、びっくりしたなぁ。沙織ちゃんがこんなにも注射が上手だなんて! ん? …………あれ? あれあれ?」
「せんせい?」
「どうしよう、ラビちゃんのカゼが先生に移っちゃったみたいだ……」
そう言いながら、西条が自分のお腹をおさえる。
なぜ風邪なのに腹が痛くなるのか。再び突っ込みを入れたくなったが、また馬鹿にされそうなので和臣は黙って様子を眺める。
「沙織ちゃん、先生にもお薬打って貰っていいかな?」
「うん、いいよ!」
一度目の成功で得意げになった沙織が、意気揚々と次の注射の準備に入る。
「じゃあ、お願いします。折田さん、駆血帯お願いします」
と、西条が視線を向けたのはリボンではなく、実際の採血で使う方の駆血帯だった。
「あ、はいっ」
唐突に指名された折田が慌てて駆血帯を手に取り、先ほどぬいぐるみにしたように袖を捲り上げた西条の腕に結ぶ。
子どもの遊び相手にしてはやけに本格的だ。
「沙織せんせい、ここにお薬をお願いします」
西条が指を差して指示した場所は肘正中皮静脈部、肘の内側にある太い静脈で採血時に一番多く選ばれる部分だった。
――あ……。
ここまできて和臣はようやく西条の行動の意図を読み取る。
なるほど、西条は沙織ちゃんから注射の恐怖をなくそうとしているのか。
「せんせい、いくよ?」
「はい、どうぞ」
緊張の面持ちを浮かべた沙織が、先ほどと同じようにおもちゃの注射を西条に打つ。
「いたい……?」
「うわぁ、全然痛くない! やっぱり沙織せんせいは凄いね! 先生、もう元気になったよ!」
ありがとう、と礼を言いながら西条が沙織の頭を撫でる。すると沙織はさっきまでの涙が嘘のように、キャッキャと喜びながら愛らしい笑顔を見せた。
「やったぁ! せんせいのカゼがなおった!」
心の底から嬉しそうに笑う沙織に、和臣の頬も自然と緩む。
――――よかった、元気になって。
採血ができないことは困りものだが、さっきまでどん底にあった彼女の気持ちが明るくなったのならそれでいい。そう考えて和臣は納得していると、沙織の目線に合わせて腰を落としていた西条が、急に声を落として内緒話を始めた。
「沙織せんせい……じつは、もう一人カゼを治して欲しい患者さんがいるんですが、その子はすごく注射が嫌いで、針を見ると逃げてしまうんです。でも沙織せんせいの注射ならいたくないから、その子も逃げないかもしれない。だからお願いしてもいいですか?」
ヒソヒソと話してはいるものの、内容は十分こちらまで届いてきている。西条はまだ何かするつもりなのだろうか。
「いいよ! みんなサオが治してあげる!」
「ありがとう。じゃあ――――東宮先生」
「…………へ?」
沙織の方を向いていた西条が、立ち上がり足早に和臣の背後へと回り込む。
「沙織せんせい、つぎの患者さんは東宮先生です」
軽く背を押され、和臣は慌てながらも一歩前に出た。
「とうぐうせんせいも、カゼひいちゃたの?」
くりくりとした丸い瞳が、こちらを見上げてくる。その純粋でキラキラとした視線に、ウッと言葉が詰まった。
「え、そ……れは……」
「だいじょうぶ、サオのお注射はいたくないよ」
確かに彼女の注射は痛くない。痛くないが。
「……だそうですので、東宮先生も観念して治療を受けて下さい」
「お、おい。オレは……」
こういったことは正直、得意ではない。期待の眼差しを浮かべる沙織に対してどんな顔を向ければいいのか分からない和臣は、首だけ振り向いて西条に自分を巻きこむなと視線で訴える。
だが、子ども第一の男は満面の笑顔を浮かべて和臣の願いを却下した。
「大丈夫です、痛くないから。ね?」
逃げられないよう背中から抱きかかえられ、腰横から回した両手で左腕を捕えられる。和臣は慌てて身を捩ろうとしたが、十センチ以上も身長差のある男の両腕は意外にしっかりしていて、逃れることができなかった。
「では腕を出してください」
西条は和臣のドクターコートの袖を捲り上げると、露わとなった腕にいつの間にか外していた駆血帯を巻き付ける。
「用意ができました。沙織せんせい、お願いします」
「うん、わかったよ」
すでに慣れた手つきとなった沙織が、注射器を持って構える。
――何でオレがこんなことを……。
あと一歩前に出れば、西条が考えたこの茶番劇の餌食になることは確定だ。そうなれば十中八九ナースステーションの話題となって、あとで笑われるハメになるだろう。そう思うと悔しいことこの上ないのだが、だからとここで拒めば沙織の瞳に再び大粒の涙が浮かぶだろうことは必至で。
もう、覚悟を決めるしかなかった。
「さ、沙織ちゃん……よろしく……ね」
折田にハラハラとした目で見つめられる中、なけなしの勇気を振り絞って沙織の前に腕を出し、下手くそな演技を披露する。すると耳元でフッと軽く漏らした吐息とともに、甘い囁きが届いた。
「じゃあ先生、動かないで下さいね」
和臣が逃げないようしっかりと腕に添えた西条の指が、触れていた部分の肌をそろりと摩る。
「んっ……」
「いきまーす!」
くすぐったさに肩を竦めているうちに沙織の元気な声が響き、注射器の先が和臣の腕に当てられる。
――早く終わってくれ。
「せんせい、痛い?」
「ううん、痛く……ないよ」
「やった! これでせんせいも元気になるよ!」
薬の注入を終えたらしい沙織が、両手を挙げながらキャッキャッと歓喜する。同じように和臣の耳のすぐ横で喜びを見せた西条が、何度もすごいすごいと褒めながら和臣の駆血帯を外し、再び膝を折って沙織と目線を合わせた。
「ねぇ、沙織ちゃん。沙織ちゃんはお注射の天才だけど、この看護師さんも沙織ちゃんと同じぐらい上手いんだよ。昨日、お注射が痛くて悲しかったかもしれないけど、今日は絶対に大丈夫。だから一回だけ看護師さんにやらせてあげてくれないかな?」
「かんごしさんに……? うーん……」
西条にお願いされた沙織が、俯きながらさくらんぼ色の唇をきゅっと結ぶ。そんな彼女の様子を、和臣は緊張の面持ちで見つめた。
これまでの西条の芝居は、すべてこの言葉を沙織に納得させるためのもの。注射は怖くない、痛くない。その印象を与えられることができていれば、道は開かれる。だから。
――どうか頷いてくれ。
西条の誠意が伝わるよう、祈るような気持ちで拳を握っていると、おそるおそる顔を上げた沙織が蝋燭の灯火ほどの微かな頷きを見せた。
「一回だけなら……べつにいいよ」
聞こえてきた承諾に、西条と折田の表情が一気に明るくなる。
「本当に? ありがとう沙織ちゃん!」
「私も沙織ちゃんみたいに上手くお注射できるよう、頑張るわ!」
今にも手を取り合わんばかりに喜ぶ西条たちを見て、和臣もホッと息を吐く。
これでもう大丈夫だ。折田ならば絶対に失敗はしない。
その後、和臣と西条、そしてぬいぐるみが見守る中で行われた採血は無事に終わり、沙織からも「昨日より痛くなかった」という前向きな言葉を貰うことができた。
これで明日の採血も心配なさそうだ。
和臣は安堵して頬を緩めるのだった。
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