終章 ミコト
35話 私の誇りの娘
「んじゃ、俺らはちょっと遅れるから」
電話の向こうで、マナブさんはそう言った。
俺は、駅から閑静な住宅街へ続く坂道を、歩いていた。
「悪いな~、企画、任せっきりにしちゃってさ」
マナブさんは、本当に申し訳なさそうだった。
「いいんですよ。言い出したのは、俺なんですから」
「君、ちょっと雰囲気変わった? 声聞いてるだけでもそんな感じ、するぜ~」
「気のせいじゃないですか? あれからそう何か月も経ってませんよ」
「ま、男子三日会わざれば刮目して見よ、だ。君も色々あったってことだな」
「おかげさまで、色々ありましたよ」
そう答えたとき、なぜだか胸の奥がチクリと痛んだ。
俺は、晴れた空を振り仰ぐ。本当に、色々なことがあったと思う。
「マナブさんにも、本当に感謝しています」
「だから、呼んでくれたってわけだな」
マナブさんは電話の向こうで、高らかに笑った。
「そういや、マユの奴は友だちを先に迎えに行くってよ。なんてったっけ、あの子ら……」
「ナオとメグですか?」
「そうそう、それだそれ。君ら一回泊まりやってるんだってな。君もなかなかやるね~」
「ぜんぜんそういうんじゃないですよ」
男だけの会話っていうのは、こういうのが楽しい。
「そうだ、それともうひとつ。急きょなんだけど、連れをもうひとり、追加してもいいかな?」
「大丈夫だと思いますけど」
「ほら、前に君らの道案内をしてくれた子がいるだろ?」
俺は、記憶の中を探る。たぶん、のぞみの高校を訪ねようとしたとき、駅前で道案内をしてくれた、あの可憐そうな女の子だ。
「そそ、その子だよ。実は今日、個別に会う予定だったんだけどさ……」
「なるほど。忘れてたなんて言えないから、一緒に連れてきたいと?」
俺は、あからさまにからかうような口調になる。
「ちなみに今のは、その子には秘密で……」
マナブさんが、めずらしくたじたじになっていた。
俺は、思い出す。あの女の子が、マナブさんによろしくと言っていたとき、ほのかに恥じらった様子であったことを。
あれがきっかけになったかどうかはわからないけれど、あの子もあの子で、想いを遂げられたのだろうか。
「んじゃ、俺のほうはマユと合流してから向かうわ。てなわけで、よろしく~」
のんびりそう言って、マナブさんからの電話は切れた。
俺はスマホをしまおうとして、マユミからメッセージが届いていたことに気づく。
「ミユーんちの近く?」
そうとだけある。こいつには、のぞみとの三人のグループにて、俺が先に行っていることを伝えてあった。
マユミは、暗に心配して連絡してきてくれたのだ。
「そうだな。あとちょっと。心配なく」と俺は返信した。
「のぞみん泣かすなよ~」と、マユミから返ってくる。
こいつは何も考えていないようで、いつもほかの誰より、一段と
ゆえに俺とこいつとは、今でもいいコンビだった。
俺は今度こそスマホをしまい、閑静な住宅街を抜ける坂道を進んでいく。
やがて、目的の家は見えてくる。
玄関の呼び鈴を鳴らすと、「はーい」とのんびりした、なつかしい声が。
「あら、来てくれたのね。どうぞ」
出迎えた美晴さんは、快く俺を迎え入れてくれた。
リビングに通されると、そこはもうすでに色々と準備が進んでいた。
「ほとんど既製品なのよ。恥ずかしいわね」
そう言いながらも、美晴さんは楽しそうだった。
「ちょうど紅茶を淹れたの。ちょっと座らない?」
そんな美晴さんの言葉に甘えて、俺は、下界の街を美晴るかす、いつかここを訪問した日のソファに座った。
「美優は、どうしてるんですか?」
俺は、広くはないけれど、住み心地よく整えられた室内を見回し、たずねる。
「出かけてるわ。自分が主役だなんて、恥ずかしいのよね」
美晴さんは、困ったように笑っていた。たとえ深入りすることがなかったとしても、あいつのことを一番にわかっているのは、絶対にこの人だ。
「あの子の書いたものを、はじめて読んだわ」
ふと、遠い回想のように、そう切り出した。
「ひとつ、反省しているのよ。あの子のことは、あの子の思うままに。そう思って、自分の立ち位置は、母親だからって、あの子の気持ちを決して踏みにじらないように、気をつけていた。でも、遠くから見守っていれば、それで良かったの? 違うわよね。あの子が一生懸命にしていたこと。あの子が大切にしていたこと。それに私も触れること。あの子も嫌だとは言わなかったもの。そのくらいなら、できたはずよね」
「ミコトは、美優の心、そのものですからね」
「あの子の――ミコトの物語を読んで、はじめて知ったわ。あの子が、ずっと何を想っていたのか。あの子の目に、この世界がどんなふうに映っているのか。勝手かもしれないけれど、私はとても救われた。あの子は、決して悲しんでいるわけじゃない。この世界が、こんなにも美しく見えているんだって。それは、あの子が苦しみを背負って、一生懸命生きているからだって。そうわかったとき、とても誇らしくなった。あの子は、きっともう大丈夫。そう思えたの」
美晴さんは、紅茶をひと口すすり、カップを静かにソーサーに置いた。
長く語ってはいても、決して激しているわけではない。むしろ心を静めて、
「私は、あの子がいつか、自分の気持ちを明かしてくれると思って、待っていた。でも、そんな必要なかったのね。あの子はもう、とっくに話してくれていたんだもの。美優は――ミコトは、私の誇りの娘よ」
語り切ったとき、美晴さんはとても穏やかな表情を浮かべていた。
「でも、まだですよ」
俺は、言った。
「まだ、足りないピースがあります」
ちょうどその折を見計らったように、呼び鈴が鳴らされた。
「来たみたいですね」
人の家ではあれ、俺は先に立つ。美晴さんの表情に、わずかに緊張が走っていた。
玄関へ向かうと、美晴さんは俺の後ろから付いてきた。
扉を開くと、そこにはかしこまって、のぞみが立っていた。
俺は彼女と、目線を交わす。
中に通すと、のぞみと美晴さんは、正面から向き合った。
「おひさしぶりです」
緊張に震える声で、のぞみは言う。声が震えてはいれども、俺の助け舟は、必要ない。
「宍原のぞみです」
名乗ったとき、のぞみの声は、もうしっかりとしていた。
「ひさしぶり、のぞみちゃん」
そう言った美晴さんは、いつもの柔和な笑みを浮かべていた。
これが、この日最初の目的。数年来の、美晴さんとのぞみの再会。
俺たちは、街を見晴るかすソファに戻ってきた。
「きれいになったわね」と、美晴さんはのぞみにほほ笑みかける。
のぞみはピンと背筋を伸ばし、ぶんぶんと首を横に振る。
「ぜんぜん、キレイ系ではありませんので!」
また調子が狂ってしまったらしく、ごほんと咳払いを挟むと、
「すっかり、ご無沙汰してしまって」
「いいえ。こちらこそ、なんの便りもなくて。あれから元気?」
「はい。陸上部に入って。勉強との両立、大変ですけど、充実してます」
「勉強だけでなく、恋との両立も、ね?」
やにわにそう言われ、俺とのぞみは目を見あわせ、ほぼ同時に身を硬直させる。
そんな俺たちの様子を前に、美晴さんは小さく肩を揺すって笑っていた。
「時間は早いのね。ちょっと前まで、恋なんて考えられない年頃だったのに」
「でも、私の時間はずいぶん、止まったままでした」
美晴さんがカップを置いたのに合わせて、のぞみはそう、切り出した。
「わかったんです。私の時間がどうして、止まってしまったのか。私は、前にここをお訪ねしたときのこと、ずっと後悔してたんです」
前にのぞみが来たとき。それは、彼女がまだ中学生の頃。
「あのとき、私はまだ自分の気持ちをうまく言葉にできなくて。でもそれ以上に、自分のしていることが信じられなくて。だから、勇気を出してここに来て、美晴さんに迎えてもらったのに、ずっと身構えたままでした」
俺も、当然ながらそのときのことは知る由もない。のぞみは、おどおどながら呼び鈴を鳴らし、おどおどながら家に上げてもらって、声を掛けられてもしどろもどろで、美晴さんはその様子を、ただただやさしくほほ笑んで見守っていたのだろう。
「覚えてるわよ」と、美晴さんは穏やかな声で言う。
「まっすぐな目はあのときのままね。夕方に、制服のままで訪ねてきて。初めは驚いたけど、きっと切実な何かがあるんだなって、思ったわ」
「でも、私はそれを、伝えられませんでした」
のぞみは、美晴さんをまっすぐに見つめ、言う。
「美優ちゃんが出かけているのがわかって。待たせてもらうこともできた。もしくは、美晴さんにすべてをお話することだって、できたはずなのに。私は、そうしなかった」
それは、話すのが怖かったから。
「美優ちゃんがいなくて、あのときの私、正直、ほっとしていたかもしれない。だから、待ってもいいって、美晴さんに言ってもらったのに、私、逃げるように帰りました。私の連絡先だけ置いて。全部、あの子に任せて、自分では何も背負わなかった」
「ここに来てくれただけでも、十分な勇気よ。あなたみたいな若い子に、それ以上を期待しちゃいけない。あなたはがんばっていたわ」
「でも、美晴さんは私を迎えてくれました。私は、もっとたよることもできました。だって、美晴さんは美優ちゃんの、お母さんだもの」
「ふふ……こんなおばさんの世間話、付き合うだけ疲れていたわ」
「それだって……私も学校でこんなことあったとか、そんなこと言い合いながら……伝えられたと思うんです。私と美優ちゃんも、楽しい思い出があったんです、って」
美晴さんが、ようやくのぞみの言いたいところを
遠回りしがちなこの子は、やっとのことで着地点を見出したのだ。
「私、美優ちゃんとの思い出が、つらいままになるのが、嫌だったんです。仲直りできないことより、楽しかったことでさえ、忘れてしまうのが嫌だったんです。だから、ここに来ました。美晴さんにだって、伝えたかった。あの子との思い出は、私の宝物だって。決して、足かせなんかじゃ、ないんだって」
それは、美晴さんの心の重しにもなってしまっているもの。美優の心に、踏み込めなかった根っこの部分。
あの頃は、美優にとって仄暗い過去。ゆえに、美優の心の傷が癒えるまでは、そっと見守らねばならない。そんな、重し。
けれども、その前提が、そもそも絶対ではない。
「私、あの子との楽しかった思い出を、ただ話したかったんです」
つまりそれが、美晴さんに足りていなかった、最後のピース。
それでも娘には、確かに幸せな思い出があったのだ、ということ。
「そっか……。だからこうしてわざわざ、時間を作ってくれたのね?」
「はい。今日は私、美晴さんとお話がしたくて来ました!」
のぞみは、持ち前の笑みで、にかっと笑ってみせる。けれども、俺が知っているのより、ずっと複雑な想いがそこには込められているように思った。
「だったら……お茶菓子が足りないわね。準備してくるから、待ってて」
「あ! 平気です! 私、つい食べすぎちゃうんで!」
居間がにわかに、賑やかになっていた。
のぞみは、小学生の頃の美優が、家でどんな様子だったのかを知りたがった。
美晴さんは、それに答えつつ、学校での美優がどんなふうに過ごしていたのかをたずねた。
俺は、今の学校での美優が、当時とはどんなにかけ離れているのかについて、合いの手を入れた。
のぞみは大爆笑していたし、美晴さんも、笑い涙が出るくらいに笑っていた。
けれどもその涙が、決してただの笑い涙ではないと俺は思った。
そうして、ほかの皆が合流する時間が迫ってきた。
「美優ちゃん、なかなか戻りませんね?」
しばらく経つというのに、戻ってくる様子のない美優を俺たちは気にしていた。
「俺、探してきますよ」
だから俺は、まっさきに立ち上がる。のぞみが自分も行こうかと立ち上がろうとするが、俺は目配せして制する。
これは、俺の役目だと思った。
「ふたりで、話しててください。何年分も、つもりつもり話、あるはずですから」
そう告げると、俺は玄関へと向かった。
行くべき先はわかっていた。
メインヒロインが待つ、その場所が、どちらなのかは。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます