34話  君のための物語

 日が暮れる前に、俺たちは浜辺をあとにした。


 帰りの電車も、来たときと同じように、俺はのぞみと身を寄せ合った。


 俺の膝とのぞみの膝の間で、俺たちはしっかりと手を握った。

 のぞみは、すっかり安心した様子で、眠っていた。

 俺はそれを見守っていた。


 車窓の向こうで西日が少しずつ水平線に近づいていった。その様をながめながら、のぞみのぬくもりを俺は感じていた。

 俺たちの街へ帰り着く頃には、すっかり日も沈んでいた。


 俺は、いつかのように、のぞみを家まで送っていくことにした。


「あのとき、ちょっと驚いたんだよ。急に送ってくって言うんだからさ」


「まじでなんも意識してなかったけど、やらかしたかなあとは思ってた」


「おかげであのとき、ずっとどきどきしっぱなしだったけどね」


 あの夜、のぞみが寡黙だったのはそういうわけだ。

 夜道が怖いのかと俺は思っていたが、それは的外れだったらしい。


「あのとき送ってなかったら、こうはならなかった?」


「さあ、どうだろうね~?」


 のぞみは話をはぐらかし、ちゃんと答える気はなさそうだ。


「でも、家に帰って、そのあともずっと、モヤモヤがなくならなくて。なんだろう、なんだろうって、二日くらいは悩んで。あるとき突然気が付いて。あ~、これダメな奴だって。で、そう思ったところから、もうずぶずぶの泥沼」


「……で、あの日の夜、急に会いに来た、と」


「これで全部つながった?」


 のぞみは挑戦的にたずねる。その様子が、美優のそれともよく似ているように感じられた。


 俺たちは、のぞみの暮らす集合住宅棟の前までやってきた。


「今日は本当にありがとね」


「こちらこそ。楽しかったよ」


「またね」


「ああ。また今度」


 のぞみは手を振ると、棟のほうへ去っていった。

 その後ろ姿を、俺は見送っていた。


「のぞみ」


 俺はとっさに彼女を呼び止めていた。


 のぞみは振り返った。その瞳はわずかながら揺れていた。


「ひとつ……伝えたいことがある」


 俺は、伏し目がちになりながら言う。


 砂浜ではっきりと伝えられなかったこと。

 今の俺でも、伝えられること。


「あれは……やっぱり、君のための物語だ」


 のぞみの瞳は、その先を求めていた。

 わかっていた。これでは中途半端だ。


「だから、俺はどこにも行ったりしない」


 俺は、そう振り絞った。

 今の俺に言える、それが精一杯だった。


 俺は、のぞみを見つめていられず、うつむいた。

 のぞみは、じっとその場に立ち尽くしたままだった。

 確かに……そりゃ、あきれるよな。

 自分が情けなくて、情けなくて仕方なくなっていると、のぞみの足が動いた。


 ひっぱたかれるのかな、と思った。

 いつか美優にそうされたように。


 けれども、のぞみは不意に両手で俺の頬を挟み込むのだった。

 そのままグイッと、うつむいていた俺の顔を持ち上げる。

 のぞみと、まっすぐに目が合う。


「せめてさ、ちゃんと目を見て言ってよ」


 顔は怒っているけれど、声は怒っていなかった。


 俺は、情けなく苦笑してしまう。

 本当に、笑い飛ばすしかないくらい、情けない奴だ。


「今は、それで許してやろう」


 のぞみは俺の頬から手を離す。

 そのまま不意打ちとばかり、俺の胸に抱きついてくる。


「だから、このくらいは許してよね……」


 俺はどうすれば良いかもわからず、硬直したままだった。


「小説はどうするの?」


 のぞみは間髪入れず、そうたずねる。


「そうだな……」と、俺はつぶやく。


 抱きつく彼女に応えて良いかわからないまま、宙に浮いていた両手を、俺は降ろす。


「このままじゃコンテスト、出せないじゃん。美優ちゃんとの約束、守れないよ?」


 のぞみは重ねてたずねる。

 俺は、のぞみのぬくもりを感じながら、考える。


「それでいいんだと思う」


 そう言っていた。


「この約束は、たぶん、果たさないのが正解だから」


 俺は、夜空を見上げていた。

 星ひとつ見えない、都会の空。

 そこに瞬くはずの輝きには、どうしても、届かない。


「だとしたら、私はたぶんずっと、前に進めないままだ」


 のぞみは、かすれて消えそうな声で言う。

 その悲しい震動が俺の胸を直接に震わせて、俺は、千切れそうなほどに強くやるせなく胸を締め付けられた。


「でも、君がそう思うなら、私はそれでいい」


 のぞみはそう言うと、俺の胸に顔をうずめた。

 俺は今度こそ、のぞみのことを強く抱きしめた。


「あれは、のぞみのために書くよ。もう決めたんだ。だから、それでいい」


 振り絞るように、俺は言った。のぞみを抱きしめる手に、そっと力を込めた。


「……ありがとう」


 のぞみは小さく答えて、俺に身を委ねた。


 俺は、見えることもない星空が、急速に遠ざかっていくのを感じていた。

 かつて、俺はきっとその輝きを追いかけた。

 でも、俺は同じところまで至ることなどできはしなかった。

 美優という星は、俺が何をどうしたって、ずっと遠くで孤高にまたたいている。


 俺が代わりに道筋を描くと、そう伝えたときにあきれた様子をしていた彼女を思い出す。

 もしそんな道があるのなら、あの聡明な美優は、もうすでに自分の力で見つけていたはずだ。

 大賞取ったら考えるなんて、そんな無理難題を吹っかけられた時点で、彼女が本気で約束を果たしてほしいなんて、思っていないのは明らかだった。

 こんなの、俺がただ勇み足で、舞い上がっていただけだ。


 ミコトにあこがれて、美優がミコトだと知って、俺は、彼女のために自分が何かできるのではないかと、思い込んでいた。

 そうすることで、自分が何か手に入れられるんじゃないかと、思い上がっていた。


 でも、俺はどうしようもなく無力で、無価値だった。


 今はただ、それでも俺を必要としてくれる人を、この手で守りたかった。

 その人と共に、俺の物語を完成させたかった。

 それが、薄っぺらなまま終わってしまう俺にできる、ただひとつの最善なのだと、信じたかったから。

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