17話 心の居場所
「あの子の傷は、私がつけたものなの」
ひと通り話を終えると、美晴さんは再びそう言った。
そんなことはないなどと、第三者が言えたものではない。
「あの子は、一度も泣かなかった。きっとあの子自身、自分を責めていたのね。自分がしっかりしていれば、あの人もあの子を励まそうだなんて思わなかった。そうすれば、事故も起きなかったから」
やさしさは、それに対する見返りを与えられないとき、残酷なほどの重しになってしまう。
「卒業式は、当然出席できなかったわ。でも、あの子は何も言わないの。お友だちは何人かお見舞いに来てくれたけれど、あの子は会おうともしなかった。全部自分で抱えようとしているように見えたわ。それは今でもそう」
美晴さんは言葉を切る。感情が高ぶるようなことは一切なかった。
自分にそんな資格はないのだからと、己を抑えなれている、そんな話し方だった。
「あなたたちに話したことも、恐らくあの子の体験したすべてじゃない。あの子があなたに話したように、あの子の書いた物語が、きっとお友だちとの間で何かあったのね。でも、あの子は何も話さないの。だから私も、あの子の心には踏み込まない。私がママを支えるだなんて、そんなことを言う子なのよ。私よりずっと強い子よ。だから、せめて私は過ぎたことは悔やまないと決めたの。この新しい土地に移って、私も新しい生き方を始めて、せめてあの子をできるだけ支えようと思った。母親失格かもしれない。でも、あの子の側にいるべき人はもういない。母親失格なりに、私の取るべき立ち位置は、決まっていると思うの」
それは、ひどく割り切っていて、ドライなのかもしれない。
けれども、癒すことのできない傷は、触れずにいることも対処のひとつに違いないのだ。
俺は、何も言うことができなかった。
ただ、美晴さんの話に耳を傾けて、打ちのめされていることしかできない。
何もできずにいるふがいなさに震えていることしかできなかった。
もしかしたら虐待かもしれないなどと、一瞬でも疑った自分が恥ずかしくてならなかった。
けれども、それを口に出して謝ることもできない。ただただ、俺は情けない顔をして、震えていた。
美晴さんは、それに気づいてか、再びあの、なんでも包み込んでしまいそうな柔らかい笑みを浮かべる。
「あなたたちには、私にできないことができる。どこにでもいるただのお友だち。あの子には、そうやって溶け込んでいられることが、一番の救いだと思うの。だから、今日ここで話したことは、私たちだけの秘密」
俺たちは美晴さんを訪ねてきたのであって、それは美優には関係ないこと。美優と俺たちとは、ここに来て聞いたこととは関係なく、今まで通り。
美晴さんは、俺たちにそうあることを願っていた。
「ミユー、どこ行ったんだろうね?」
マユミがふと、そうつぶやく。
美晴さんは、きょとんとして見返していた。
「あたしらと別れたあと、一度ここに帰ったんですよ。でも、そのあとすぐまた出ていって。どこに行ったのかな~って」
「ふふ……そういうこと」
美晴さんは、何か心得ているようだった。
「あの子には、お気に入りの場所があるのよ」
そう言った。
「んじゃ、そこ行けば、ミユーと会えるんですね?」
足なんか組んで、すっかりいつもの調子で、マユミはたずねる。
しかし、自然体でいることが、一番の誠意かもしれない。
「そうね。案内する?」
「おねがいしまっす!」
マユミは軽快な感じで敬礼する。こいつと一緒で本当に助かったと、俺は心の底から感謝していた。
美晴さんが案内してくれたのは、そこからまた少し歩いた先の公園だった。
本当になんの変哲もない公園で、しかしだからこそ、美優はここを好んでいるのだろう。
なんの変哲もなければこそ、ひとりになれるから。
ほかと違いがあるとすれば、高台の上にあって、その公園からのながめはとても良いということ。
その公園の入口まで連れてきてもらったとき、公園の一番奥のベンチから、そのながめを眼下に望んでいるらしき美優の後ろ姿が見えた。
それは、とても小さな背中だった。
俺たちには気づかず、しかしそれ以上に、どこか遠くに意識を持っていかれてしまったような、後ろ姿。
俺は、心を握りつぶされてしまったような気分になる。
小さなその背中は、ひとりぼっちだった。
美優の心は、きっとまだ癒えていない。俺なんかが隣りにいたところで、到底癒えようもない。
その絶望の果てしない深さを、思い知った。
「ほれっ」
マユミが不意に俺の背を押した。俺は、公園の中へ一歩を踏み出す。
こいつなりに、俺を励まそうとしたのだろう。しかし――。
俺は、足がすくんで、一歩も動けなかった。
俺は、この週末の二日間で、この上なく、充実した時間を過ごしたつもりでいた。同じくらい充実した時間を、美優に与えてやれたものと、思い込んでいた。
けれども、俺たちと別れたあとの美優は、ここにやって来ている。
美晴さんの言う通り、何もかも自分で抱えてしまう美優は、今も変わらず、孤独の時間が居場所なのだ。
何よりも、俺はこいつに、ずっと気を遣われていた。
ひょんな弾みで美優がミコトだと知って、秘密を共に分かち合ったつもりでいたが、彼女は差し障りのない形で話を作っていた。
書けなくなったのは本当かもしれない。けれども、その発端となったであろう、彼女が初めて書いた物語について、俺は今でも真実を知らない。
俺の前でようやく見せた笑顔も、だんだんと打ち解けてきた表情も、そのすべてが、共にいる俺を傷つけまいと、気遣うがゆえのものだった。
そして、彼女自身の痛みはいつまでも、遠く、遠く彼女の内側に抱え込んだままで、あの空の向こうにしか、美優は語りかけるべき相手を持てない。
初恋だなんて、とんでもないじゃないか。
俺は、己が無力で仕方なかった。
「すまねえ……」
それ以上、美優のところへ歩み寄ることはできない。
俺は、
「おいっ――」
マユミが咎めようとするも、美晴さんがそれを制するのが、横目に見えた。
「意気地なし……」
マユミは、悔しそうに言う。
「あたしらが打ちのめされて、どうすんだっての……」
それは俺を責めるのではなく、自分も悔しいのだと、言葉以上に物語る声のトーンだった。
「戻りましょう」
美晴さんの掛けたその一言が、俺たちへの救いになってしまった。
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