書は心画なり

らくがき

ヤンキーがラブレター書くために字を習う話

 かの男子生徒は、爽やかな秋晴れの10月に、突如としてやって来た。奴は教室の扉を勢いよく叩きつけ、おかげですぐ側にいた田中くんのいたいけな黒縁眼鏡がずれた。

 静まり返る部員たちは、彼を凝視したままマネキンのごとく固まってしまった。

「書道部ってここ?」

 眼鏡を直す田中くんに、奴は謝るでもなく顔を向けた。

 黄金色の頭髪が落ち着きなく教室の色彩を乱し、首からぶら下げた銀色の装飾品が揺れている。

 校則違反の大安売りか?と言いたくなる出で立ちである。

 彼の名前は柴田。素行に問題があることで悪名高い3年生である。

 校則違反は毎度のこと、テストは赤点でない方が奇跡、そもそも学校に来ない。どの学年でも有名人という不名誉な男子生徒ではあるが、警察の世話になったことはないし、素直なところもあるという点で擁護されている。

 そんな有名人は、窓際の私を見留めると、大股歩きで詰め寄った。彼は、机の上に両手の平を叩き付け、私のか弱い鼓膜をいざ破らんと叫んだ。

「読んでくれ」

 鋭い犬歯がちらちら見えるがややもすると威嚇されてるのか、という形相である。とても人に物を頼んでいることが信じられない。

 返事もしてないというのに、彼は鞄を取り出した。

 たった3年間で無惨にも色を失いファスナーを閉じることすらできなくなった哀れな鞄から、くしゃくしゃの紙が発掘される。進路指導の紙が生気を失った様子で見えたが、見間違いだろうか。

 ごつごつした指先で広げられたのは、白地に罫線が惹かれた小さな紙だった。そのままそれを差し出し、神妙な顔で私をじっと見た。

 眉をきゅうと近付け、こちらに視線を合わせる。その姿はふてぶてしいどら猫を思い起こさせた。

 何がしたいのかさっぱり分からないけれど、とりあえず差し出されたものに視線を落とす。


 なるほど、実によく書けている。

 便箋3枚に渡ってみみずのイラストを敷き詰めるなんて中々思い付かない発想ではあるが、人の感性は尊重すべきだ。

 1枚目はうねうねと土から身を捩りながら出てきたみみず、2枚目と3枚目は日に焼けて苦しみ悶えているカラカラのみみずか、なるほど嫌がらせだな。


「どう?」

「これをどうしろと?」

「読んでみてくれ」


 柴田は顔を赤くしてうつ向いた。

 しおらしく縮こまる姿があまりにも似合わない。

 耳に至っては紅色に染まっている。

 これは今気が付いたが軟骨にピアスまで付けている。生活指導室に報告案件である。

 ピアスの数を数えていると、柴田は切れかけの弦から漏れるような、消え入りそうな声を出した。


「結構恥ずいから、速く読んでくれ」

「読む…?」


 ここで、ようやくこれがイラストではなく、何かしらの暗号であることが分かった。

 いや分からない。

「ちょっと読めない」

 すると柴田はくしゃくしゃの便箋をひったくって自分の方に向けた。

 そして、そのまま首を傾げた。

「あ?お?…なんて書いてあんだ?」

 柴田は眉間に皺を寄せてすがるように私を覗き込んだ。八重歯が開きっぱなしの口から覗いている。


 書道部の部員たちは、既に黙々と筆を進めている。擦りたての墨の良い香りがする。懐かしいような、ほの暖かな匂いだ。


「私に聞かれても」

 柴田はしばらく便箋を上下ひっくり返してみたり、老眼のピントを合わせるようにしていたが、結局肩を落とした。


「俺の字、汚いよな?」

「汚い。テストの回答どうしてるの」

「実はさ、ラブレター書きたいんだけど」


 私からの質問は遮られた、というよりも気にも留めていない。柴田は頭を下げて、30度のお辞儀をし、拝むように手を合わせた。

「俺の字のせんせになってくんね?」


 明くる日、私はボールペン習字の本を持参していた。柴田はこんなのあるんだ、なんて言いながら喜んでペンを握った。

 上のお手本に習ってゆっくりゆっくり、文字通り刻み込むように柴田は書いた。

 丁寧に書いているのはよく分かる。いかんせんお手本から外れてしまうのが玉に傷だ。


 しかし、きちんと字の形になっていることが嬉しいのか、柴田は黙々となぞり続けた。

「筆圧強い。破ける」

 案の定、ページに穴があく。

 それで集中力の糸が切れたのか、柴田はペンを放り投げて猫のように身体を伸ばした。

 ばきりばきりと太い骨が鳴る。


「なんか教えてくんねぇの?」

「そこ、もっと長いよ」

「おー、たしかに」


 柴田は、枠の字を全て消し、もう一度書き直した。消しゴムをかけても彫られた跡が消えない。

「あとさ、これ、なんて読むの?」

 柴田がある例文を指差した。


 また明くる日、私は小学生用の漢字ドリルを持参していた。

 柴田は10点満点中5点を叩き出し、頭を抱えた。

 ちなみに字の綺麗さを考慮すると0点になる。部員たちと協議の上、枠の中にそれっぽい字が入っていたらよし、というがばがば採点に落ち着いた。

 だが、しんにょうの点が抜けていることだけは譲れなかった。


 12月から使用許可の下りたストーブを着けていると、柴田は部員に混じってひょっこり暖をとりに来た。

 冒頭の出来事から1ヶ月もした頃から、柴田は当然のように書道部に出入りするようになり、窓際の席を指定席にしていた。

 最初こそ怯えていた部員たちも、このヤンキーは意外にも人畜無害であることに気が付いたのか、特段気にも留めなくなっていた。

「ペン交換しない?せんせのペンだと字がきれいに書けそう」

「一緒だよ」

 柴田がごねるものだから、渋々ペンを渡す。

 うおー、全然だめだ。

 案の定分かりきっていた悲鳴を上げ、柴田はすぐにペンを返してきた。


「見てこれ、俺、字での減点ない」

 柴田が何やら部員に学年末テストの解答用紙を見せていた。

 バレンタインデーと重ねて行われる試験は、受験生たちに合わせて選択科目で行われる。

 柴田が自慢げに持ち出してきたテストの点数は部員の誰よりも低いが、彼はとても誇らしげだった。

 部員たちはその点数に対して言及せず、良かったですね、と彼のささやかな、されど偉大な成長を優しく称えた。


 柴田の髪が黒くなっていた。

 地毛より数段黒いのだろう。

 迫る就職のために急いで染めてきました、と言わんばかりだが、それでも中々爽やかに見える。

「おー、いいじゃん、黒のままでいなよ。恋文したためそうな見た目になったよ」

 柴田はまじっすか?と笑った。

 指先で髪をいじる。

 喋らなければ更に良いな、と思ったが黙っておいた。


 卒業を目前にして、書道部でもささやかな卒業イベントを開催した。

 3年間一緒に頑張ってきた部員たちは、卒業後に打ち上げをすることを誓いながら花束と色紙を受け取った。花束はリボンを添えてそれぞれの生徒に合わせた色にしてある。

 高校3年間、週に3日、この部室で頑張ってきた。

 賞をとった生徒もいたし、卒業後に御朱印を書くバイトをする生徒もいる、そうでなくとも、ここでの3年間が今後の人生で大切なものになりますように、と祈らずにはいられなかった。

 ところで、ずっと一緒に頑張ってきた仲間と一緒に柴田が並んでいた。

 柴田先輩にも花束を準備した方がよいでしょうか?と、善良なる田中くんが言い出したので、この男子生徒の腕にも花束と色紙が抱かれている。

 そして、柴田は卒業生の誰よりも顔を歪めて泣いていた。

 激しい嗚咽を繰り返しながら、みんなのこと忘れないからぁと叫んだ。

 いや、部員じゃないから。

 と、心の内で思っていたが、色紙を大切そうに抱き締めるので、まぁいいかと思い直した。


 最後に写真を撮りたい、そう言ってくれる女子生徒たちと並んで、私は微笑んでいた。写真を撮って、卒業アルバムにメッセージを書き連ねて、またね、と言葉を交わす。

 わ、綺麗な字。と褒められると少し嬉しかった。

 卒業式は滞りなく終わった。桜はまだ咲いていない3月の真ん中だった。

 多くの生徒が打ち上げに勤しむ中、私は夕焼けの静かな廊下を歩いていた。

 最後に教室に行きたかった。

 何の音もしない、自分のスリッパの音と衣擦れの音だけが聞こえる。昨日まで賑やかしかったのが嘘みたいに思えて、今日という日が信じられなかった。

 そう思って廊下を歩いていると、見覚えのある男子生徒が、丁度教室の扉を閉めて出ていくところに出くわした。

 彼に手を振る。柴田は私をじっと見た。目元が腫れていて赤い。

 ラブレター、卒業式、泣き腫らした目元。

 私はひとつの可能性に気が付き、あえて触れないことにした。

 そうゆうこともある。

「柴田、卒業おめでとう。留年しなくてよかったね」

「お、あんがと」

 柴田は地毛の柔らかな黒がつむじにだけ見えるようになっていた。

 胸に差した花が少し曲がっている。

「就職できたんだってね」

「おかげさまで!いや~履歴書で死ぬとこだった、まじで」

 苦笑した。

 確かに、最初の頃のみみずみたいな字を並べられたら、面接の前に一発で落ちる。

 柴田はピアスも外し、ネックレスも下げていなかった。学ランの詰襟をきっちり上まで留め、胸に花を差している姿はいつもよりも大人びて見えた。

「あ、ね、せんせ。しゅーたいせー見てよ」

「難しい言葉覚えたね」

「おん、覚えた。がんばった」

 小学4年生の漢字ドリルを前に頭を掻いていた姿を思い出す。最初は普通に引いたが、それでも果敢に挑む姿は美しかった。

 きっと、卒業してもなんとかなるだろうと思った。

 柴田にはついぞ言っていないが。

 柴田は私に二つ折の紙を手渡した。

 ノートの切れ端であることは一目瞭然である。

「ありがと。お~、読める読める」

 そこに書かれていたのは、ここ半年のお礼だった。

 大きく、伸びやかな文字が彼らしく堂々と書かれていた。生徒からの手紙なんて、中々感慨深いものがある。

「今から、ラブレター読んでもらうんだ」

 柴田が妙に大人びた笑顔ではにかんだ。

 夕暮れの日差しを含んで、輪郭が曖昧に揺れる。

「応援してるよ」

「実はさ、なんか気持ち伝わったらそれでいっかなーとも思ってんだよね。最初の字だと伝わりもしなかったのが、今は伝えられんじゃん?すげくね?」

 言い訳するように柴田は饒舌に喋った。

「つか、相手困るかもだしさ」

 柴田は気が付かないだけで結構気を遣う。

 部室で墨汁がこぼれた時、率先して掃除に来ていたし、廊下で部員に会うと頭を下げた。

 まぁ、それだけ真剣に思っているなら、結果がどうあれ財産だ。

 若人の青い春、いいねぇと笑う。

 自分にはない痛々しいくらいのまっすぐさとひた向きさに感心すらした。

「がんばれ」

「あんがと」

 柴田は手を振って去っていった。

 大きな手の平だった。いつもペンを握りしめている手の平だった。

 なんだか涙腺がじわりと緩む。

 廊下は走るなと言うところだが、片手に抱えた卒業証書に免じて、今日は不問にした。

 その後ろ姿に手を振って、ささやかに応援する。

 そこで、ふと気が付いた。

 柴田って私の受け持ちじゃないのに、なんでこっちの教室から出てきた?

 まぁ、いっか。

 初めて3年生の担任をもったが、卒業がこんなにももの寂しく、充実感のあるものだと思ってもみなかった。

 書道部で顧問やったり、進路指導したり、ああ、生活指導で生徒を叱ることもあった。

 ぼんやりと思い出に浸りながら扉を開ける。誰もいない教室に、カラカラと乾いたキャスターの音が短く響く。

 西日が射し込んで、窓が柔らかなオレンジ色に染まっていた。


 そこには、柴田の渾身のラブレターが残されていた。

 深い緑の黒板いっぱいに白いチョークで書かれたそれに、思わず息を飲む。

 のびやかで、広がりがあって、自由な字。

 何度も消して、書き直した跡がある。

 1文字1文字、丁寧に書かれていることが一瞬で分かった。

 この半年間、何度も読んできた字だ。

『桐野先生』

 ついぞ呼ばれたことのない私の名前が、一際大きく書いてある。

 そうか、これが、あの日のみみずの正体か。

 誰もいない夕方の教室で、しばらく柴田の文字を追う。

 それから、指で触れた。

 夕陽に照らされ、少し温かかった。

「たしかに困るわ」

 手の中でノートの切れ端がくしゃりと鳴った。

「消せないんだけど」

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