第1話 

「次はーー久喜」


 き、の発声がやや低音に籠り、僕は少しだけ不安になった。電車を降りてエスカレーターに足を掛ける。うっかり右側に入ってしまった。「早く歩けよ!」と若い声に急かされて、渋々に階段を上がる。条例でエスカレーターは立ち止まるように決まってからというもの、どうしたら良いのか分からない。若者がこづくように手摺をガッガッ掴むので、僕はもういたたまれない気持ちになって、すっかりいつもの弱気が顔を覗かせてしまった。

 慌てて駆け上がると、登りきったタイミングで踏み切りを誤った。盛大にすっ転んでうつ伏せになる。ドカドカ後ろから人が続くので、ぺたぺた這いつくばって前へ進む。あぁなんて惨めなんだろう!慌てて立ち上がりJR線への乗り換え口へ急ぐ。脛ずきずき痛い。改札をぴったんタッチする。

 乗り換えの列車が見えて、慌てて階段を駆け下りる。一番最後の段。これも苦手だ。だだんと二度踏みして足を挫いたことがある。脛の痛みを堪えてそろりと注意深く着地する。くっと見上げると、ぷしゅっと音がして扉が閉まった。

「あぁー……ああぁー!……」

 声にならぬ呻き声が漏れ出て、ぼう然自失。なんのために、なんのために!急に膝小僧にもずきっと鈍い痛み。ぐっと下を向く。擦り切れて縮れた布がぺろん!と捲れている!うっすら黒みがかった血が滲むので、僕はもうすっかり萎えてしまった。


 「はい、臨職さんー。これお願いしますね」

 隣の課から声が聞こえる。管理部署のほうだろう。きっと中山主任に違いない。はいーと女性の声が聞こえる。いつもの日常。

 「幸太郎さーん。これお願いねー」

 光枝さんに呼ばれる。僕は、はい、と短く返事する。

 設楽光枝はいつも親しげに話しかけてくる。薄手の白いブラウスからぱんぱんに張った薄茶色の下着が透けてみえる。窮屈そうな黒いパンツにゆったりサンダル。職員証のグリーンの紐が左右に揺れる。三音程高いトーンで僕に語りかけるのは、決して親しみなどではない。僕のことを見下しているのだ。光枝には、僕より2つ年上の息子がいるらしい。慶應義塾大学法学部を卒業後、外資系コンサルに入って5年で退職。今は仲間と独立して都内のタワマンにセカンドハウスがあると自慢気に語られたことがる。夫は昨年、一部上場企業を部長で定年退職したのだとか。そんなことはどうだっていい。

 「昨日の定期演奏会はいったの」

 いつも左側に座る。それが僕には大変に苦痛だ。「いえ……まあ、ちょっと……」正面を見たまま、目をしょぼしょぼしながら声を絞ると、光枝はまんまるに目を見開いて大げさに驚いて見せた。「あらーまあ!何かあったらなんでもいってって!あなたの味方よ!」といいながら立ち上がると、仄かにツンと鼻をつく刺激臭が漂って、僕は若干の吐き気を催した。

 光枝が離席したあと、チケット発送の袋詰めを進める。〈第99回埼玉フィル名曲コンサート〉と表記されたチケットを、たんたん袋に詰める。表面には薄緑色でさいたま芸術館の文字とともに、市章が印字されている。さっとめくると中袋があり、座席表が見られるようになっている。2階建て1,100席の大ホール。大ホールとはいえ席数は少ない。縦長の直方体、いわゆるシューボックス型と言われるよくある2階建てのコンサートホールだ。

 さっさっとチケットを取り分けて、送付表の枚数と確認する。S席1階11列10番、11番。これはタテオカミツオの分。よくみる名前ばかりなので、大体席の好みはわかる。今度の演奏会はソリストがピアノだ。向かって左側、できればピアニストの手元が背中越しにでも見えるあたり。

 ふうと溜め息が漏れる。昨日もソリストはピアニストだった。ああ聴きたかった。ラフマニノフの調べをただ何も考えずに会場で微睡みながら。ここのところピアノばかりが続くけれど、それは仕方がない。ピアノは券売が良いし、曲もわかり易い。僕だって結局はピアノが一番好きだ。それなのに企画課の伊黒のやつったらなんだ。「名曲ばかりで聴衆は飽きないですか」だって!そんなことみんなわかってる!わかっているけれど“売れる”ことがまず一義的に大事だって、財政難の市政のハコモノはは。それに、地方の公共ホールでのマニアックな演目なんて誰が聴きにくるのだろうか。

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