いつのまにか殺人事件

小谷灰土

第1話 いつのまにか容疑者


 

 事件は隣の部屋で起こっていた。



 ここは熱海の某旅館。海岸にへばりつくようにして建てられたその旅館は、古びていたがロケーションは最高だった。櫃木瑛士ひつぎえいじは、退職という名の長期休暇をとり、自由を謳歌していた。最後の勤務を終えて、帰りの電車内でたまたま目についた熱海の旅行案内が、彼の心を一瞬にして奪ったのである。広告写真の鮮やかな青空と大海原に溶け込むような露天風呂は、彼の日頃の濁った心を晴れやかにさせるのに十分だった。


 いつのまにか退職して、いつのまにか電車に乗って熱海に降り立ち、いつのまにか一泊しているうちに、夜が明けるといつのまにか隣人が殺害されていた。どうしてこう人生というものは、いつのまにか過ぎ去ってしまうのだろう。窓いっぱいに広がる素晴らしい大海原を眺めながら、彼は首を傾げた。


 コンコン


 彼の部屋のドアを叩く者がいる。


「すいません、櫃木ひつぎさん、少し話を伺いたいのですが」


 男性の声だった。ドアを開けると、小太りのスーツ姿の中年が立っていた。手には警察手帳を持っている。彼の背後には、相棒と思しき背の高いイケメンが控えていた。


「静岡県警捜査一課の柏原と申します。お休みのところ誠に恐縮なんですけど、少しだけお時間頂けないでしょうか?」

「ああ、いいですよ。どうぞ」


 二人を部屋に招じ入れて、彼はドアを閉めた。


「いやあ、実に大変な目に遭われましたね」と柏原は明るく言った。「よりにもよって旅先の隣室で事件が起こるなんて、あなたもなかなか運が悪い人だ。休暇かなにかですか?」


「ええ、まあ、そんなところです」


 瑛士が敷いた座布団の上に二人は座り、彼はその向かいにあぐらをかいた。


「死因はなんですか?」瑛士はきいた。


「窒息死ですね。首になにかで絞められたような跡があります。でも不思議なことに、部屋の窓も扉も鍵がかかっていて、人の侵入した形跡がない。つまり、密室ですな」


 柏原が胸のポケットから煙草を取り出し、瑛士に見せる。吸ってもいいか、という合図なのだろう。「どうぞ」と言って、瑛士はテーブルの灰皿を刑事に近づけた。柏原は恐縮しつつも、嬉しそうに火をつける。


「昨夜は、ぐっすり眠れましたかね?何か不審なことや思い当たる点などがあれば、些細なことでもいいので教えていただきたいのですが」


 温和な表情のなかに、時折見せる眼光の鋭さが、瑛士を不安にさせる。


「残念ながら、ありませんね。今朝、目が覚めて旅館の人に伺ってはじめて、事件のことを知った次第で」


「そうですか。ところで、櫃木さんは、隣人の方はご存知ですよね?」


「ええ、昨日、熱海駅からの送迎バスで見かけましたし、旅館に着いてからも何度か軽く話はしましたよ。見た目は強面のじいさんですが、話してみると気さくな方でした」


 それまで瑛士の証言を手帳にメモしていたイケメンが、柏原に何やら目配せを送った。瑛士の不安感が募る。柏原はわかったというように頷いて、瑛士に言った。


「実は昨日、あなたが被害者の黒山と話をしていたとき、旅館の者が見かけていましてね。とても楽しそうに話をされていたとか。で、旅館内で黒山が目撃されたのは、それが最後なんですよ。どういうことかわかりますか?」


「ど、どういうことです?」


 身を乗り出して、瑛士はきいた。


 柏原は笑いながら首を振った。いまさら、何を言うんだというような顔をしている。


「え、わからない? では単刀直入に申し上げましょう。黒山殺害に関して、あなたが何らかの手がかりを握っているのではないかと私は言っているのですよ。あなた、夜の十一時にロビーで、黒山と何の話をされてたんです?」


「とくにこれといった話はしてませんけど……。自分は書店の店長をやっていたんで、その話を聞いてもらっていただけです」


「やっていた?」


「辞めたんですよ。辞めて休暇でこちらに来てるんです。だから今は無職です」


「ほう」眉間にしわを寄せた柏原が、煙草の灰を灰皿に落とす。「ではあなたは現在、お金に困ってるわけだ。黒山はね、資産家なんですよ」


「な⁉」


 イケメンがメモする手をとめて、瑛士をまじまじと見つめている。柏原はくゆらせた煙の奥から鋭い視線を送っていた。


「どうして俺が疑われなくちゃいけないんですか! おかしいですよ!」


 瑛士の声は怒りに震えた。


「まあまあ」相手は余裕の手振りで、瑛士を制す。「カマをかけているだけですよ、本気にしちゃいけない。本気にせざるをえない理由がおありなら、話は別ですがね」


 柏原はそう言うと、イケメンと顔を見合わせて快活に笑った。その笑顔が瑛士には憎らしかった。二人は小声でひそひそと話をすると、柏原が煙草を灰皿に押しつけた。


「わかりました。いいでしょう。あなた、滞在予定はいつまでですか?」


「明日までです」


「ではまだ時間はたっぷりありますね。また伺いますよ。言っときますけど、逃げたら余計に疑われるだけですからね。くれぐれもお気をつけください。ご協力ありがとうございました」


 二人は立ち上がって、部屋を出ていった。


 瑛士は硬直した身体をへなへなと弛緩させ、テーブルに突っ伏した。


「なんで俺なんだよ」


 すると突然、バンッと押し入れが勢いよく開いたかと思うと、中からよれよれの着物と袴姿の男が出てきた。「いやいや、とんだ災難でしたね」


「だ、誰ですか、あなたは!」


 面食らった瑛士は後ろに身を引き、叫び声を上げた。


 男は部屋に残った煙草のけむりを振り払いながら、瑛士に言った。


金田一郎かねだいちろう。探偵です」

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