第七章(3)…… 夜明けへの足どり
階段を登る音を聞いた。見れば、梶山が上階へと一段飛ばしで上がってくるところだった。
ちょうど目が合い、梶山が声をかけてくる。
「シュウ、おまえ大丈夫だったか、よかった」
急ぎ足で駆け上がってくる。
修哉の傍らにいたグレが、ぎょっとしたような顔になる。うわ、と声を漏らした。
グレの反応に、修哉が気を取られて視線を向ける。
「また現れやがった」
思い切り眉をひそめて、重低音でグレが毒づく。
「兄さん、私は退散します。さっき気がついたら入り口から外にいきなりぶっ飛ばされて動けなくなったんで。あれは破壊力が凄過ぎる。これ以上は無理です」
言うなり、上階へ続く階段を突き抜け、建物の外壁に消える。あっけにとられて、グレが消えたあたりを見つめる。
踊り場に到着した梶山も、修哉の視線につられて上階への階段へと目を向けた。
「どうかしたか?」
いや、と修哉は返した。「なんでもない。それにしてもよくここがわかったな。なんでここにいるんだよ」
「それはこっちの
梶山が噛みつく。修哉はそのままを言い返した。
「おまえだって、慎重にいきたいとか言ってたくせに、勝手になにやってんだよ。軽率すぎんだろ」
「あのな……」ぐっと梶山が言葉に詰まった。
俺だってなあ、すげえ心配したんだぞ、と梶山が力をこめて言う。
「今朝カズが連絡してきたんだよ。おまえがどうやら勝手に動いてるみたいだから心配だって」
修哉は内心で驚いた。そこまで手回しが済んでいるとは思っていなかった。
「なんだよ、ひとの弟にまで味方に引き入れてやがったのか、ホントぬかりねえな」
「言うこと聞きゃしねえと思ったからな」
あからさまに顔をしかめ、指先を突きつける。「おまえは絶対、勝手に動くと思ってたんだよ!」
こんなに早いとは思ってなかったからバタバタだったけどわかってんだ俺は、と梶山が大きく息を吐く。
「で、俺は須藤夫人から早朝から勤め先を聞き出して仕事場から追跡して、丸一日費やしてここにたどり着いたってわけだ」
「あらら」
梶山の言葉に、アカネが口もとに手をやる。「糾くん、シュウより大変だったのねえ、お疲れさま」
でも、もうちょっと早く登場してくれたらすごく助かったのになー、と唇を尖らせながら文句をつける。
「おまえのこと探そうとして、下の階から確認しながら上がってきたらいきなり事故だろ」
梶山が目前で起こった事故を見て、見ぬふりで立ち去れる性格であるはずがない。
周囲に声がけして警察と救急車を呼び、けが人の面倒を見て、なんだかんだ今まで時間を食ってしまったと話した。
「やっと警察が来たから任せてきた。びっくりしたよ、事故を目撃するなんて初めてだからな。運転手、ショックだったのかずっと叫びっぱなしでさ。救急車で運ばれてったから、ようやくおまえのこと思い出して、気になったから探してたんだよ」
そして、座り込んでいる務に目を向ける。
「もう話はついたのか」
「ああ……、聞きたい言葉は聞けたから、もういい。終わったよ」
全部、終わった。修哉はそうつぶやいた。
「そっか。それならよかった」
ぽん、と右肩を軽く叩いてくる。それ以上を口にしない。しばらく無言のまま、ふたりで須藤務を見守る。
なあ、と梶山が修哉に声をかけてきた。
「で、どうするんだ? この人、このままにしとくのか」
「どうするって……?」
修哉は梶山の言っている意味がわからなかった。
「警察、別件で下に来てるけど、連れてかなくていいのか?」
「いいもなにも……オレにも誤解があったし、いろいろわかったこともあった。謝罪も受けた。オレの件は、もう終わったことだと思ってる」
「そうか、じゃあ俺が口出す必要はないな」
座り込んだままの務にふたたび目を向け、梶山は落ち着いた声で言った。
「俺さ、頼まれたからさ。この人に伝えなきゃいけないことがあるんだよ」
務は踊り場の柵の外へ目を据えて、動く気配が無い。
梶山は務に歩み寄ると、片膝をついて座り込み、目線を合わせた。
それから肩からかけていたショルダーバッグから、あの紙袋を取り出し、務に差し出した。
「これ、預かり物です。須藤の伯母さんから渡して欲しいって頼まれました」
差し出されたものへと務の目が向いた。手を伸ばして受け取る。紙袋を開き、内容物を確かめた。
中に手を差し入れ、斜め下へと滑らせて取り出す。出てきたのは、列車の雑誌とそれから、侑永が大切にしていたストラップだった。
務は紙袋を床に置き、膝に乗せるようにして両手で広げた。ひとつずつを手に取り、表から裏返しにして眺め、雑誌の表紙に見入る。
そのようすを見て、梶山が説明する。
「この雑誌は侑永が気に入ってよく見てたものです。俺の弟とよく眺めてました。侑永は、いつも務さんと行きたがってました。だから……この先時間ができて、気が向いたらこの侑永のストラップと出かけてみてください」
それから、と梶山はストラップの入った透明な袋を指さした。
「それは紐がほつれて壊れかけてたので、須藤さんが先日、仕立て直してくれたものです」
じっと務はガラス玉を見つめている。大きいガラス玉は欠けていたために取り替えられてしまった。深い海の中を泳ぐ一匹のクラゲの姿は、今は群れて楽しげに泳ぐ、小さな紅い金魚たちに変わっている。
革紐を通し、留め具として使われている蛍光色のビーズだけは前と同じものだった。
記憶のなかのものと確かめているのか、それともこれを持っていた侑永を思い起こしているのだろうか。
「須藤さんが、務さんにとても会いたがってましたよ」
梶山はそう言って、いや、違うな、と言い直した。
「こう言いたかったんだと思います。ずっと会えずにいて心配だから、近々、顔を見せに来なさい、と」
務は梶山の顔を見上げて、言われた意味をわかろうとしているようだった。
ふいに、両の目に理解の色が浮かんだ。
遠くにあって届かないと思っていた答えが、実は近くにあったのにようやく気づいた、そんなような表情。
決意が目の光となって表れる。
「わかりました。すべて終わったら必ずお伺いします。俺、警察に出頭して、ぜんぶ話します。だからすこし時間はかかってしまうけど、待っていてほしいんです。そう伯母に伝えてもらえませんか」
わかりました、と梶山はまっすぐに相手を見つめ、頷いた。
「よろこんでお引き受けします。かならず伝えますよ」
梶山は好青年の笑顔で、快活に答えた。
務は梶山に頭を垂れ、ありがとう、と言った。
その横顔は晴れやかで、まさに憑きものが落ちた瞬間に見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます