第七章(2)…… 氷解する段階


 頭の中で声が反響する。聞き慣れた声と少し違う。

 自分のなかで聞こえる声ではなく、自分の声なのに声質が違って聞こえ、妙な感じがする。


「本当は……濁流のなか、死にそうになってもがいてるときに、すげえおっかないものにしがみつかれたんだ。あれがなにかわからないけど、すごい怖かった。濁流のなかに引き込まれて、浮き上がれない。逃げようとしても逃げられない。本当に――」




 これは――、他人が聞く自分の声。


 修哉は悟った。これは、過去に自分が発した言葉。

 流される、どこにもつかまるところはない、足がつかない、黒い水、途切れる呼吸音、咳き込んでも肺に流れ込んでくる液体、このままでは死ぬと自覚する。


 そうだ、ここでいつもなにかにつかまれて、更に水没させられる力がかかる。しがみつく、しがみつかれる、浮く、沈む。幾度も。

 真っ黒な濁流のなか、混乱する思考で必死に暴れる。




 迷っている暇はなかった。

 重力で下方へ引っ張られ、足先から飛沫を散らし、冷たい水中へと身を投じる。同時に、猛烈な圧で押し流される。


 あっという間に足場が消えた。予測よりずっと状況は悪い。こんなにも自由がきかない。いくら泳いでも、流れに逆らう推進力にならない。耳穴に水が入り込み、詰まる。逆巻き、轟く音がこもってよく聞こえない。


 暗夜の水に揉まれてめちゃくちゃな視界に時折、街路の照明が流れて映る。

 なんとか追いつく。目標をつかんだとたんに、しがみつかれて身動きが取れない。突然水中に放り込まれ、パニックになって猛獣を抱えるような勢いで暴れまくっている。服が邪魔でどう足掻いても、うまく動けているともわからない。


 もがくものは小柄なのに、必死すぎて手がつけられない。予想外に絡まってきて手足の自由を奪う。水中へと引きずり込まれる。濁流は速く、足はつきそうなのに滑り、すこしも定まらず、立つことができない。


 身体が重い、うまく動けない。

 このままではふたりとも助からない。


 流される。身体の方向が定まらない。流される。息ができない。

 どっちが岸だ、確かめたところで進む力が全然足りない。


 考えが甘かった、できると思ったのに。もう遅い、こうやってひとは間違いを冒すんだ。判断力が落ちていたんだ、自分を過信しすぎてしまったのかもしれない。


 どうしてこんなことになったのか。

 助からない。助けられない。

 支えきれない。

 死ぬかもしれない。


 次々と浮かんだ思考が、留まることなくこぼれて、暗い穴の底へ滑り落ちていくようだった。混じるのはあきらめにも似た絶望。

 水面から押し上げ、やっと子どもの横顔をとらえる。


 必死にもがき、しがみついていたのは、この子どもだった。

 ふいに雲間から月がのぞき、わずかな光に視界が戻る。ずぶ濡れの身体、子どもの柔らかな細い髪が濡れて肌に貼りついている。

 すでに力を失い、ぐったりしている。ふいに修哉は気づいた。


 これは——自分だ。幼い頃の。あの日の。

 そして気づく。自分の記憶ではないと。これは——そうだ、他人のものだ。たぶん、これは——



 

 アカネさんの、見た記憶。最期の、瞬間の、


——ああ、そうだ。

 いつから本当のことを忘れてしまっていたのだろう。


 あんなに怖がっていたのは、自分を救おうとして目の前で力尽きて、流されていく女の人を見てしまったから。

 懸命に岸の上に助け上げようとして、自分は地上に上がれずに悲しい眼をして笑いかけ、次第に離れていき、黒い水の中に消えていく顔を見てしまったからだ。


 自分のせいで、人が死んでしまった。その事実を確かめようとしてもできなかった。目が覚めた時には、落水してから丸一日が経過していた。大人に聞いても目撃者はおらず、だれかが死んだという話も出てこない。だから、ぜんぶが自分の悪夢だったと思いたかった。


 だが、光景は記憶にこびりついた。だれがなんのためにこんなことをして、自分のかわりにだれが死んだのか、まったくわからない。


 あのとき、自分が死ぬはずだった。

 生きなきゃいけない理由がわからなくなった。あの女の人が自分をやっとの思いで岸まで運んで、あの人は力尽きて、流されてあっという間に見えなくなって、それで——


 夜、暗い部屋にいると、天井に黒い闇と水の中に消えた顔が映る。心臓が脈打つたびに、こちらへと近づいてくる。

 こわかった。夜になると思い出す。きっと、あの女のひとは荒れ狂う水の中から現れて、本当は死ぬはずだった自分をいつか連れに戻る。生き残った側の表世界と、息絶えた側の裏世界を入れ替えにするために。


 暗い水に引きずり込まれて、二度と戻ってこられない。

 そんな幻覚を見る。だから同じような濁流に近づくのを拒んだ。


 夢で追われる。ひとときも安心できない。

 自分のせいで、自分の身代わりに死んだひとの顔をずっとずっと覚えたまま平然と生きていく。無理だった。あの歳ではできなかった。


 周囲にそれとなく大丈夫だよ、もう安全だよとなだめられて、思い返すうちにすこしずつ事実は空想と置き換わった。都合よく、いつしか完璧に書き換えられてしまった記憶。

 都合のよい現実へとすり替えられ、ついに真実だと受け入れていた。



 なにかのきっかけで思い出しかけると、自己を守るために身体が拒絶を起こした。ずっと自分に嘘をついてきたのだ。

 自分のせいじゃないと。自分が原因ではなかったと。そうでもしないと正気でいられなかった。あの子どものころに、ほかに方法はなかったんだ。あのころの自分が告げている。


 ごめん、ごめんよ、アカネさんごめんなさい。

 ぼくがあなたを死なせた。




 修哉の左の肩からようすをうかがっていたアカネが動く。背後から抱きかかえるかのように修哉に寄り添う。

 懐かしいような感覚があった。アカネと重なっている。


 アカネと繋がっている奥底から、伝わってくる。過去の思い。彼女が見てきた記憶。

 ひとつの視点が脳裏に広がる。これは彼女の目線。ひとりの子どもに寄り添い、いつも見守ってきた。


 眠っているのに泣いてうなされて、過去の記憶に押し潰されそうになっている。


 悩んで、もがき苦しむ姿に心を痛め、ずっと届かぬ声で宥めていた。


 助けようとして失敗した女のこと、いつまでも覚えているなんて。ばかみたいなあたしを、こんなにも思ってくれるなんて。小さなあなたが、生きるつらさを抱え続けている必要なんてないのに。


 いいの、忘れていいんだよ。

 おたがいに運が悪かった。覚えていてくれなくてもだいじょうぶ。

 忘れよう、きっと忘れてしまえる。


 見えない姿で近づいて、そっと抱きしめようとする。やさしい笑みを浮かべ、泣いている少年の顔をのぞきこむ。


 その顔は、昔の、子どもだった自分の顔。アカネは言っていた。あたしがシュウといるのは、もっとずっと前からだから。

 アカネはまじまじとこちらを見つめて言った。まだこんな小さい頃、と片手を下げて修哉の背丈の半分ほどを示した。


 気づいたら、いたの。

 オレが、アカネさんの死んだ理由だったからだ。だから、オレに憑いた。


 あたしは……シュウのそばにいたのよ、ずっと見てきた。

 だから、酷い目に遭って欲しくない。

 あの言葉は偽りのない真実だった。視界が淡く揺れて、流れる。


 アカネはするりと修哉から抜け出して離れると、泳ぐように漂い、務に近づいた。

 そして両手を伸ばして、務の頬に触れた。


 ごめんね、とアカネは言った。


 務にはアカネの姿は見えない。触れていることにも気づいていないはずだった。


「あの日、ぐずぐずしてないで早く歩いていれば、たぶんあたしはあの時刻に橋にたどりついてた。間に合っていれば、あなたは人目を気にしてあんな犯行をしなくてすんだはず。でも」

 柔らかく微笑む。その両眼が優しく細まって、目じりに小さな光が反射する。

「どんなに望んでも、過去に戻ることはできない」


 アカネの言葉に、修哉は胸が痛むのを感じた。

 その意味はなによりも、よくわかる。死んでしまっている者の声は本来、生者には届かないから。


 生きていればこそ。

 死んでしまったときに彼女の時間は止まってしまった。なにかを成し遂げることはもうない。その時がくれば、永遠に現世から去るしか道は残されていない。


 アカネが言う。


「自分が望む未来へ、近づく努力はできる。生きてさえいれば」


 修哉も、声に出して務に言っていた。

「もう終わった。もういいんだ。だから」


 務が、修哉の顔を見上げる。

 その視線が、半分透けたアカネの顔を通り抜ける。

 アカネが務の顔を覗き込む。緩い波を描く髪がふわりと揺れ、務の顔にかかる。


「あたしみたいに死んでしまったら、なにもやりなおせないもの」

 残念だけど、と言って、務の額に額を寄せる。あの頃はあなたも子どもだった。誰も救ってくれなかった。つらい場所から逃げ出したかっただけなのに。


 あたしは、子どもを助けたかったの。

 あのとき、あなたのことを知っていたら、修哉だけでなくあなたも助けてあげたかった。みんなが幸せであるべきだと願うから。


 アカネが言う。

「どうか生きてほしい」

 修哉も、同じ言葉を発していた。アカネと声が重なった。


 はじめて聞いた音のように、須藤務は表情を凍らせた。息を飲み、数秒ののちにふたたび息を吸う。


 見張った両眼が、閉じられる。込み上げる感情を堪えるように、目をぎゅうと閉じたまま顔を歪めた。


 望んでも、目の前には固く閉ざされて、けっして動かない扉があった。温かい世界からは、ずっと断絶されてきた。

 進む先は塞がれていた。ほしいものは決して手に入らない。そう思い込んでいた。


 ようやく、扉を開ける鍵を手にした。取っ手を探り当て、鍵穴へと差し込み、ひねる勇気を振り絞る。

 先に進む、新たな道が扉の先に拓ける。


 解放の時、閉じた目を開き、務が前を見る。


 階段の踊り場に、修哉と務だけがいる。

 務は修哉を見上げて、震える唇を動かし、感情とともに声に出した。


「十年前はすまなかった。俺が悪かった」



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