第六章(5)…… 夜の怪談


 アカネは修哉の輪郭から、ぬるついた半透明のものがにじみ出るのを見た。


 グレが、修哉の耳に囁き続けている。

 修哉の内部からあふれ、こぼれ落ちて足元の床を濡らす。修哉の胸のあたりに人の頭のようなものが現れる。


 それは小柄な女性の身長ほどの大きさだった。修哉の足から、一本の足が進み出る。女の上半身が修哉の肉体から抜け出て、反対側の足からも前へと踏み出す。


 生者と亡者、両者が完全に分離する。

 残された修哉から、がくんと力が抜けた。


 唐突に、それまで須藤務を締め上げていた手からも力が抜ける。務の身体を押さえていられなくなり、腕だけでなく全身の力を失って両者の体勢が崩れる。


 修哉はその場で床に膝をついた。務は壁に身体をあずけ、ずるずると床にへたりこむ。

 両者ともに、動くこともできずに呆然と自失している。




 どうしても手に入れたい生者が目の前にいる。


 長髪の男は、床に落ちているなにかをひったくるようにつかみ上げるやいなや、素早く身をひるがえした。

 車の中に全身を滑り込ませ、力任せにドアを閉めた。車体が揺れ、施錠の衝撃音が大きく響き渡る。


 亡者は男に惹かれて、一心に後を追う。

 左右に振れながら前に進み、裸足のかたちが歩く跡となって残る。床がひたひたと濡れる。

 つま先をすこし引きずり、ふたつの線が揺らぎながら車に近づく。




「兄さん、ご無事ですか」

 へたりこむ修哉に、グレが声をかけた。

「あ……あ、大丈夫、とは言えないかもしれない、けど」


「なにがあったかわかりますか」

「いや――しばらく記憶が飛んでて」


 うまく視点が合わない。右手で額を押さえ、訊かれたことに答えようと覚えている記憶を探すがなかなか出てこない。

 グレの両脚を認め、見上げる。

 腰を屈め、グレがこちらを覗き込んでいる。無意識に周囲を見回し、アカネの姿を探していた。


「アカネさんは――?」

「兄さんの後ろにいます」


 背後からそっと両手が添えられる。見ようとすると、声がした。


「こっち見ないで」

「――え?」

「ちょっとのあいだでいいから」


 左耳に届く声が近づいた。肩に置かれた手が背を滑り、心臓の真裏のあたりに、両手を重ねられる。

 浅いが、体内に触れられている。アカネの手がすごく冷たいのに、不思議と不快感はなかった。


「あなたが無事でよかった」


 アカネの真意がどうであれ、偽りのない言葉として伝わる。

 うん、と声を出して頷き、修哉はアカネの気持ちに応えた。


 そして呼吸を整え、グレを見上げる。視線が合う。

 こちらを見守っていたグレの目線が、うながすように車のほうへ向いた。つられて視てしまう。


 異形の者がいた。


 白いSUV車に近づいていく、半透明の姿。アカネやグレのように、服を着ているようには見えない。

 全体が水を吸ってふやけているのか、身体の線がとろけたように崩れていて、はっきりしなかった。


 水の中で漂うように、ゆらり、ゆらりと左右に上体を揺らして歩く。

 全身から水が滴る。ぬるい、風呂場の湯気のような臭気が漂う。


「あれ……須藤の母親ですか」

 修哉は、あれがだれなのか確認していた。

 ええ、とグレがうなずいた。「さっきまで兄さんのなかに居座っていた人憑きです」


「ずいぶん形が変わってる、けど」

 須藤務の上にのしかかっていたときよりは、いくぶん人に近い形状になっている。


 修哉はアカネの言葉を思い出していた。怨霊となって正気を失っているほど、見せたい姿ではいられない。そう言ってなかったか。


「おそらく」とグレは修哉の疑問に答える。

「——今は須藤の息子に対する恨みより、情夫への執着が優ってるんでしょう」


 務の母親——須藤千加は、運転席の窓から車内を覗き込み、確認しようとしている。

 視力がよくないのか、すこしでも乗車している者に近づこうとして、暗い車内を透かしながら、より良い位置を横歩きで探す。


 背中が丸まっていて、横顔を見るかぎり歳よりもかなり老いた印象があった。果たしてあの亡者は、すでに己が死んだと気づいているのだろうか。

 おそらく風呂場で水死した時から、あの亡者の頭のなかの時間は止まったまま。おかしなものだ。同情、なのだろうか。


 グレにも釘を刺された。修哉自身も、その思考が危険だとは理解している。だが千加と同化して、覗き見た記憶に一度は染まってしまったせいか、死してもなお生者に囚われている姿に哀れを感じる。


 ずぶ濡れの女はゆっくりと手のひらを開いて、運転席横の窓ガラスを叩いた。


 べたり、と打ち付けられて濡れた音が立つ。ひとつ。


 運転席のやや上。小柄な手形がくっきりと現れる。


 車内の男は、真横で突然起こった現象に目を見開いていた。口が半開きになっている。

 手形から湧き上がるように水滴がつき、ぼろりと垂れてガラスに沿って滴る。 


 静かになった。

 その場にいる者が息を飲み、車に注視を向ける。 


 べたん、べたっと音が続き、両手をついて舐めるような動作でガラスの向こう側を、ゆるゆると覗き込む。


 ひどく執着しているのがわかった。

 そうだ、まさに執着。心の底から欲しがっている。手に入れたいと強く、狂気に浸った思考で恋い焦がれる。

 務に対し、腹の底で煮えたぎる恨みと殺意は、愛する男への凝縮された垂涎へと入れ替わった。その違いは明白だった。


 運転席の横から前にへと移動し、よっつ、その横に、いつつと手形が増えていく。


 水が滴る手形が次々と現れる。増える跡を追い、運転席で身じろぎも出来ずに男の見開かれた目線だけが動く。その顔に純粋な恐怖が貼りついている。


 フロントガラスの向こう、前方の空間には誰もいない。

 ふいに、白い車体が揺れた。

 すくみ上がった長髪の男が視点を漂わす。

 フロントガラスになにか、重量のあるものが載ったかのように前輪が沈み込む。ボンネットに異様な存在が這い上がったのがわかる。


「なんだ……なんなんだよ、いったい」


 顔色を失い、運転席の男はうわごとのようにつぶやく。

 異質の存在を確かに感じる。金属板の上に圧がかかり、みしみしと音が立つのが車体越しに伝わってくる。


 ガラスを叩く音は次第に増えた。

 幾つもの手形がついては、土砂降りの雨が激しく大地を叩くように、フロントガラスに水滴が舞い踊った。湧くはずもない場所から、とめどなく水が滴る。


 ビシャリ、バシャリと連続してガラスを叩く音。合間に、声まで聞こえるかのようだった。——……入れて、ねえ、なかに入れてよ。


 やっと、ほら、これで一緒になれる。


「わああああああ————ッ!」

 たがが外れたかのように、中野は叫び声を上げた。発狂したかの絶叫だった。


 声が涸れるほど叫び続け、声は車外にも届いた。

 必死に震える手でキーを射し、急ききってエンジンをかけ、闇雲にアクセルが踏み込まれる。


 車が急発進する。タイヤが滑り、黒い轍の線を地面に描いた。

 ハンドルが切られ、床を噛んで甲高い摩擦音が立つ。


「グレ」


 車が走り去るのを見送っていたアカネが声をかける。


 グレが反射的に返事をする。

「はい、姐さん」


「あんた……かなりの悪党ね」

「それは、褒め言葉でしょうか」


 生前のきれいな容貌を取り戻し、アカネが立っている。その顔に、ふわりと蠱惑の笑みをたたえる。


「当然じゃない、ほかの生者がどうなろうとあたしには関係ないもの」

 なかなか面白い見世物だったわ、と手放しで絶賛する。グレは深々と頭を下げ、神妙な声を出した。

「ありがとうございます」


 さて、とアカネが両手を腰に当てて言う。

「評価のついでに、もう一働きしてもらおうかしら」

 グレに顔を向ける。「あんたの全力出し切ってあの車を止めて」


 アカネに言い渡され、すぐに理解したらしい。グレの顔にいかにも底意地が悪そうな笑みが浮いた。

「承知!」

 消え失せる瞬間に、ばらりとグレの姿が崩れて見えた。


 左肩の定位置に気配を感じ、修哉はアカネを見て訊ねた。

「どうして追いかける必要が?」

「放置したらあの車、事故起こすわよ。なにも知らない人たちが巻き添え食らったら大惨事になる。だから、ここを出すわけにいかないの。止めなくちゃ」

「——え」


「免疫のない一般人は、シュウとは違うのよ」

「……」

「シュウも見たでしょ、アレの姿」


 想像はつく。あの怨霊。焦げ付くような醜悪な恨みと殺意を、修哉は身をもって体感した。どう足掻いてもあれには逆らうすべがない。

 だが、修哉から離れた時には、ずいぶんと人に近いかたちに戻っていた。修哉を操って須藤務への恨みをいくらか晴らしたせいなのか、それとも本当に欲しかった生者に対する執着が優ったのかは分からない。


 きれいなままを見て欲しいわ、と言ったアカネを思い出す。

 妄執に囚われていても、恋い焦がれた男の前では人の姿になりたいものなのだろうか。


 まだ、自分のなかに須藤千加の記憶が残されている。千加の妄執に取り憑かれたら、きっとまともではいられまい。


 務が中野と呼んだあの運転手は、どこまで視えていたのだろう。

 須藤の母親の姿を見ただろうか。ただ、現象だけが見えたのか。もしくはなにも見えていなかったか。


 須藤務の生気を喰った憑き物は肥え太り、強大な力を得た。だが、息子に執着して離れられずにいた。


 ちょうどそこに修哉が現れた。手頃な相手に乗り移り、たまたまそこに居た、より強い執着へと乗り換えた。


 だが、本当にそうだろうか。


 愛情に飢え、死しても決して満たされずにいた須藤千加は、侑永を見殺しにした恨みのあまりに、務から離れられずにいたのだろうか。

 彼女が愛した、昔は見栄えがよかったであろう男。倫理観を問い正そうとしても、もはや意味がない。生前、ずっとずっと一緒にいたいと願っていた。家族に偽ってまで、あの男の子どもを生み、育てた。

 どうしても手に入れたかった。夫と、夫との子どもを殺してまでも。


 あれが、千加が心から欲しいと願っていたものだったのか。修哉はなんとも言えない気持ちになった。絶対に幸せになれないのに、ただ幸せになりたくて慕い続けた。明らかな矛盾が胸につかえた。


 だとしても疑問は残る。修哉にはわからなかった。あれだけの執着があって、どうしてはじめからあの男に憑かなかったのだろう。

 まるで、縛られていたかのようだ。好きな男のもとに行きたいのに、離れることができない。だから強い憎しみと殺意を抱き――


 階下で甲高いブレーキ音がした。意識が現実に向く。

 続いて、激しい衝突音が轟いた。停車していた車に衝突したのか、けたたましい警告音が断続的に響き渡る。


 周囲の注意を引いたらしく、騒がしくなる。外に助けを呼ぶ声がして、人だかりができつつあるようだった。

 救命で動き回る音が上階まで伝わってくる。


「アカネさん、今のは……?」

 大丈夫、と左肩の上でアカネがうなずいた。「あれは不可抗力ね。グレに脅されたとしても、勝手に出庫しかけてた車に突っ込んだんだもの」


「だれか怪我したんじゃないですか」

「速度出せる場所じゃないから、大事にはならないわよ」

 さして気もかけず、右手をひらりとひるがえしてアカネはこともなげに笑った。


 突っ込まれた相手の立場からすればたまったもんじゃない。子細を突き詰めれば自分も片棒担いだようなもんだけどな、と修哉は思った。

 とはいえ、追いやったのは死者たちだ。この世のどこにも、なんの証拠もないから罪に問えもしない。


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