第六章(4)…… 誘惑するもの
わずかな間、意識が飛んでいたらしい。
身体のどこかが異常をきたしたのはわかった。妙に鼓動が早くなって呼吸が荒くなる。
車の後部ドアにもたれかかって務をつかむ手に力が入り、強く押しつける姿勢となった。
おい、と務に強めに声をかけられ、我に返る。
務の声色にいらだつ。言い訳はいい加減、聞き飽きた。
相手の身長より、こちらのほうが高い。力負けをしていない。負ける気がしない。
ちょうどいい。耳元に口を寄せる。
「無駄口を叩くな」
相手の身体が強ばるのが伝わる。
反射的にこちらに務の顔が向いた。横目でとらえた表情。たしかに反発の色があった。
しかし、目が合ったとたんに、明らかな狼狽がよぎった。
驚愕で務が目を見開く。小さく息を飲んで、みるみる顔色が青ざめる。唐突に理解した。そうだ、あれはまるで死人を見た顔。
なにを見たのかと不思議になる。だが、相手の反応にひどく気分が晴れる。湧き上がる衝動にほくそ笑む。
ふいに両腕で胸を押された。肘を使って、全力で突き飛ばされる。
二人の間に距離が開く。
前に出た務が、瞬時に腕を振り上げた。体重を乗せた拳が首の脇に打ち込まれる。
長さのない、固く、小さい棒のようなものが肉にめり込む。
強い打ち身の衝撃が残った。
再度、振り上げる動作を目で追う。今度は顔を狙われる。
真正面から飛んでくる握りこぶしは、小指側が向けられている。折り曲げられた小指の合間に金属の小片らしき色が覗く。
顔を逸らすが避けきれなかった。
頬を斜めにかすめ、衝撃が滑って伝わる。
勢いづいて相手が前のめりになった。務の顎が上がっている。迷わず、無防備な喉元を右手でつかんだ。
引き起こし、力任せに締め上げながら、壁際に追い詰める。
頬から顎の下へと垂れ、なにか小さなものが滴り落ちる。視点を落とす。
ぽたり、と床に赤い色を開く。一歩進むたびに赤い数が増える。
生きている証が外に漏れ出す。血を見て、さらに気が高ぶる。
忌々しい。
浮かんだのはその一語だけだった。
灰色のコンクリート壁に突き当たり、務の身体を勢いのままに叩きつける。興奮の渦中に飲まれて、思いどおりに動く肉体が愉しくてしかたがなかった。
左手で相手の右手をひねり上げる。
利き手でなくても容易に強いる。
力をこめ、握ったままの拳を壁に何度も打ち付ける。開いた手のひらから滑り落ちたものが床で跳ね、軽い金属と樹脂の転がる音を立てる。
視線を走らせると、足元に車のキーがあった。左足で踏んで、後へと蹴り出す。
床を滑る、硬質な音が遠ざかる。
抵抗できないようになるまで、相手の後頭部を壁に打ち付ける。務が顔を歪め、苦しげに呻くのが聞こえたが、気にかけもしない。
目の前の生者が苦しむのが嬉しくてたまらない。
務の身体は見た目以上に痩せていて、瞬発力はあっても持久力が続かないらしい。すでに息も絶え絶えになっている。
「あんた、見てないでなんとかしなさいよ」
修哉と須藤務が争うのを、アカネとグレは遠巻きに眺めていた。
アカネが渋い顔でグレに言う。姿は崩れたままで戻っていない。
グレは、腕組みをして淡々と応じる。
「今しばらく続けたところで、生者は死にゃあしないと思いますが」
「そうかもしれないけど」
アカネとグレは考えあぐねていた。効果的な次の一手をどうするべきか。ようすをうかがうしかなかった。
人憑きに乗っ取られたとはいえ、即座に修哉自身が生命の危機に陥るわけではない。だが、修哉の目は据わりきっていて、放置すれば延々と務の頭に攻撃を続け、叩き殺しかねない。
薄い笑みが修哉の表情に浮いているのを見て、アカネは眉を寄せ目を細め、思い切り顔をしかめた。肉が削げて頬骨の覗く肌ながら、表情はよく動く。
「あたし嫌よ、あんなシュウを見るの」
グレはまったく意に介さない。
「溜まりに溜まった恩讐を、自らの手で晴らせるのが嬉しくてたまらんのでしょうが……取り憑いた須藤の母親がやりたい放題をしでかしてるのに、傍目からは兄さんが暴行してるとしか見えないのがなんとも、」
厄介ですな、とグレは語尾を口の中で発した。
「ねえ、シュウの身体で、須藤の息子を始末させるつもり?」
「積年の恨みを晴らすという意味では、このまま放ってそうさせるのも悪くないかもしれません。うまくいけば、人憑きが満足して兄さんから離れるかもしれませんから」
修哉の生命を守るのが、現時点で最重要事項ではある。だが、これは——
「今あの子の意識がどうなってるのかわからないけど、たぶん……シュウはこんなことしたくないと思うわ」
本人の意志とは別に、修哉の肉体はリミッターが外れた状態にあるらしく常人とは思えないほどの怪力を発揮し、大人の男を片手で持ち上げようとしている。
務は必死の形相で、両手で喉元を締め上げる手をはずそうと抵抗する。しかし、つまさきで支えなくてはいけないほどに吊り上げられて息が詰まり、次第にあらがう力が弱る。
淡々と作業をこなす機械のように、修哉は無表情に務を壁へ打ち付けた。まるで死へのカウントダウンを数えるかのようだった。
ゲームの世界なら、須藤務のライフゲージがすこしずつ削れてグリーンの表示から黄色の域に移りつつある。そのうち危険を示すレッドゾーンに突入し、死を待つ残りわずかな時間となるに違いない。
まあ確かに、とグレが重低音の声で言い放つ。「人殺しの生者が現世で真っ当に暮らすのは大変でしょうなぁ」
思いのほか、気楽な口調だった。
あのねえ、とアカネが言い返そうとしたときだった。
抵抗し、しきりと腕に絡みつく務の両手を煩わしく感じたのか、修哉が空いている左手で相手の手首をつかむ。つかんだ右腕を横目でとらえ、務が右こぶしの内側になにかを握っているのに気づく。
手首を握り潰そうとする力で、壁に何度も強打する。耐えかねた務が、手の内に握っていた車のキーを取り落とす。
修哉は即座に踏み付け、背後へと蹴った。
床を滑り、アカネとグレの間にキーが止まる。
「……おっと」
目線を落としたとたん、動き、横から近づくものに気づいた。
アカネとグレ、両者の視線がそちらに向く。白い車の運転席側、開いたままのドアから人影が動いた。
車内にいた男が、身を縮めて周囲を確認する。運転席から床に足をつき、四つ足の動物のように這い出す姿勢で車外に出る。
あら、とアカネが反応した。「死んでなかったのね、売れないバンドマン」
なんですかそりゃ、と言いながらグレは腰を曲げ、這いつくばる中年男の顔を覗き込むと値踏みするかの目線で下から上へ
死にかけたせいか、もとからなのか生命力が衰えているらしく、防壁が弱って薄らいでいるのがわかる。アカネとグレの間、床に転がる車のキーに向けて腕を伸ばして取ろうとしている。
同時に用心からか、壁際でつかみ合っている務と修哉へと目を向ける。
音を立てないよう気を配っている。男は、務と争う修哉の背にちらりと目を走らせた。両者の争いに関わる気はさらさらないらしい。
「これが須藤の母親の情夫ですか」
グレは妙に古めかしい言い回しをしながら、再びまっすぐに立った。
情夫の実年齢はわからないものの、須藤務より一回り以上は年高に見える。長髪を首の後ろでひとつにまとめ、派手な色合いの模様が入ったシャツを着ている。
若いころはかなりの優男と思わしき面影があった。しかし日々の生活が荒れているのか、天井からの薄暗い照明のせいなのか、目の下やほうれい線といった肌のたるみが目立って見える。
「そうよ、見るからに小悪党よね」
「……いけ好かんヤツですな、やりようも」
グレがやけに底意地の悪い顔つきになる。キーに伸ばす男の手を、よく磨かれた革靴の足で上から踏み付ける。
手を通過し、グレの足が地面につく。男の顔が驚愕で歪み、弾かれたかのように手を引いた。
隠し切れない不審が表れる。男は引っ込めた手を上下に振った。まるでなにか熱いものに触れたかのように。
「なにやってるのよ、グレ」
呆れた口調でアカネが訊ねた。
「味見ですよ」とグレが応じた。ものを食べたあとのように親指で唇を拭く。口を開き、下唇を舐める。
不味い、と吐き捨て、顔をしかめる。
「なんですかね、若いから旨いってわけでもないでしょうが、こうも兄さんと違うとは」
「あんた、シュウにやったら次は容赦しないわよ」
アカネは怖い顔でグレを睨んだ。わかっています、と素直にグレは応じた。
でも、とアカネは表情を緩めた。「それ、シュウには言わないで。生者からしたら明らかに異常だもの。味がするし、好みもあるなんて知ったら」
ものすごく引かれるわよ、とアカネは声の調子を落とした。
「さすがに人ではなく、バケモノ扱いされるのは嫌」
「勿論、承知しています」
グレは四つ這いの男に視線を落としたまま、呼びかけた。その雰囲気がやけに暗くなる。
「そういやあ、思い出したんですが」
アカネには、うつむき加減のグレがどんな表情をしているのかわからない。
「姐さんは、我々は執着が満たされれば消える、そうおっしゃいましたね」
霊が執着してるなにか、それがわかりさえすれば、欲そのものを与えることでいなくなる。
たしかに言った。アカネは肯いた。
「そのはずだけど……、どうするつもりなの」
「土地縛りは、生者にちょっかいをかけるのが仕事みたいなもんでしてね」
グレは、慣れた仕草で透明な銃を構えた。いたぶる対象を見つけた目。駅で邂逅し、修哉に狙いを定めた時と同じ顔。凶暴な笑みで口の端が歪む。
なぶる両眼を向け、立てた人指し指をふらりと揺らしては、得物に照準を定める。
銃声に似た破裂音がグレの手元ではなく、車のキーの周囲で弾ける。
長髪の中年男が音に反応する。驚愕が顔に貼りつく。
経験からか音から逃れようとして、反射的に身を引いた。
駐車場の空間に二度、三度と発砲の音だけが続く。打ちっぱなしのコンクリート壁に空砲が鳴り渡り、甲高い残響が聴覚に届いた。
修哉を除いた、その場にいた者たちの視線が集中する。
修哉に押さえられていた務と、四つ這いの男の視線がかち合った。務の苦しげな顔つきがみるみる豹変し、見張る眼に急激な憎悪が満ちる。
片足で修哉を蹴り、両者の距離が遠のく。喉を締め上げる力がわずかに緩んだ。
思い切り肺に空気を吸い込む、務の呼吸音が聞こえた。
爆ぜたかのように、残りの力を振り絞って務が声を発する。
「……な、か――野――!」
務の言葉に、そして修哉を通り越して背後へと向けられた視線に、修哉は振り返っていた。
秒がゆっくりと引き延ばされたかのように感じる。
まっすぐに向けられた視線。空間だけが写る。
対象を求め、視点が揺れて下降する。床に這う男の姿がある。こちらに向けられた、その顔を視認する。
小さく息を飲んだ。
その隙に、グレは一気に修哉との距離を詰めた。修哉の背後にぴたりと張りつく。
修哉の身体にグレが重なったその時。
グレは低い声で囁いた。耳の奥、頭の芯に直接届く。
相手が人憑きであろうが関係ない。修哉に語りかければ、憑いている怨霊にも伝わる。
「あれは、あんたが欲しくて欲しくてたまらなかった男だろう」
内に秘める悪意を覆い隠し、目前に旨そうな餌をちらつかせる。
ようやく自由になったんだ、邪魔する者は誰もいない。いくらでも触れて、好きなだけかまってやればいい、と重低音で発する。
甘い響きが滲む。誘いにかけ、惑わせる。
欲しいものは奪えばいい。手に入れて、生かすも殺すもあんたの思うがままだ。
グレの言葉に、思考を囚われて修哉は立ち尽くした。中に巣くう亡者が、グレの誘惑に乗ろうとしている。
そうだ、どうしても欲しかったものだ、あれが。
ずっとずっと欲しくても、決して手に入らなかったもの。
悪魔のささやきが間近に聞こえる。奥底で疼く欲望が身を焦がし、身震いすらしてしまいそうになる。喉から手が出るくらい欲しくてたまらない。
修哉の傍らに寄り添うグレの表情は酷く歪んでいる。目がギラついて、口の端だけを歪めて嗤っている。そそのかしている。さあ、欲望に従え。
――よく見ろ、あれが。
グレの指先が示す。手が修哉の顎に添えられる。方向を定められて、修哉の目が得物をひたと見据える。
絞られるかのように焦点を結ぶ。中野をとらえる。いままでは雑然を眺めて、表面を通過していただけだった。
――おまえが生きている間にもっとも執着したものだ。
世のなかには、興味の無いものが星の数ほどにあふれている。だが、必要なのはたったひとつだけ。
山となる砂粒のなかで、光り輝く一粒を見つけるようなもの。本気になって凝視しつくして、必死になってもなかなか見つからない。それを生きている間に偶然、探し当てた。
それなのに。
あれほど望んだのに、どうしてだろう。忘れていた。これまで見ているようでまったく見えていなかった。
頭に染みこんでくるように、理解する。
見えたものが唐突に意味を持つ。
目が奪われる。息を飲み、呼吸を忘れた。心臓が高鳴る。
本当に欲しかったもの。
ああ……、心から恋い焦がれたもの。手に入るのなら、ほかは何もいらない。
一歩を踏み出す。
中野という男。生きていたときに、ずっとずっと欲しくてたまらなかった男。
見据えて近づく。相手はまったくこちらに気づいていない。
待って、待ち続けて、やっと自由になった。ようやく手に入れることのできる瞬間が訪れた。
そう、まさに今。
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