第1章 第4話
◇ ◇ ◇
「あぁ”ぁ”」
俺は仕事を終えて家に帰って来た瞬間、玄関に膝から崩れ落ちた。
このままこの場所で眠りたい。
何も魔術式が刻まれていない大昔の家だったら、凍え死ぬかもしれない。
だがこの家は新築だ。床暖房のお陰で凍え死ぬことは無い。
俺は現実逃避を楽しんだ後、勢い良く立った。
玄関で寝ると、本当に動けなくなる。
「ゥぁ”~~死にてぇ」
俺は疲労を我慢して、風呂場へ向かった。
両親が俺を置いて遠い国に移住して以来、一人で生きて来たから出迎えてくれる人は居ない。
母さんにも父さんにも人生があるから、仕方無い事だ。
風呂場へ向かう途中、暗い廊下の壁に設置された鉄板に触れる。
魔術式が反応し、大気中のマナが共振。球体状の灯りが浮かび上がった。
俺は灯りに背中を向けて脱衣所ですっぽんぽんになったら、体を杜撰に洗って浴槽でうたたねを楽しんだ。
俺の意識が覚醒して風呂場を出たのは、夜中の二時の事だった。
今日も残業で十一時まで働いていた為、溜息しか出てこない。
「はぁぁ」
何かすると怒られ、何もしなくても怒られ、上司同士は仲が悪くて板挟み。
こんな辛い毎日が、どれくらい続くのか。
俺は嫌気がしながら、ソファで仰向けに寝転ぶ。
窓から見える夜空を見ていると、心が安らぐ。
俺が黄昏れていると、何故か窓硝子から影が滲む様に黒点が現われる。
最初は豆粒ほどの大きさで、灯りに照らされた虫の影かと思ったが……すぐに異常に気づく。
黒点がどんどん広がって行く。
「……はぁぁ?」
遂には黒点は立体を伴って、紫電を放つ黒球として顕現する。
俺は唖然として口を開けて、その光景を見ている事しかできなかった。
しょうが無いだろう?
窓辺で黄昏れてたら謎の怪奇現象に襲われるなんて……誰が予想出来る?
だが困った事に、この世界の時間は誰にでも平等だった。
黒球の変化は止まらない。
黒球は広がり続け、夜空の星々にも似た燐光を放つ『門』へと変わる。
その門から出てきた物が何なのか、俺は理解出来なかった。
長い袖の真っ白な上着、装飾の無い茶色のズボン。艶やかな黒髪。
何よりこんなに平たい顔と胸の女は見た事が無かったっ! まるでゴーレムだ。
「よぉっと! とうちゃぁあああく! 流石ボク! 天才だ!」
間抜けな声をあげた女性は、元気良く背伸びなんてしながら部屋を見渡す。
俺は自室に現われた、謎の生命体の前で固まっていた。
こんなに驚いたのは、昼寝をしていたルシア社長の鼻息ブレスの映像に直撃した時以来だ。
「ぁ、ああ、アンタ! 誰だ!」
「おぉ、現地人。なぁ君、此処は地球かい?」
「はぁ、地球?……酔っ払ってんのか?」
俺は女の言葉に困惑した。その言語に聞き覚えが無かったからだ。
何故、神代の時代に神々に与えられた共通言語を使わないのか。
俺が使えるから会話が成り立つとはいえ、どっかの神の戒律か何かか?
俺はソファから上体だけを起こして、もう一度質問をした。
「誰なんだアンタ?」
俺の戸惑う様子を見た女は全身をプルプルと震わせると、少年が昆虫を捕ってきた時の満面の笑みを浮かべた。
「ボクの名前は、庄崎朱音(しょうざき・あかね)! 異世界から来た!」
「……はぁ?」
「異世界に行ける機械を使ったのさ! つまり異世界人だよ!」
「……はぁ」
この女……人の話を聞かない天才かよ。
俺は口を出す事はせず、彼女の様子を伺い続ける。
「この世界は何て言うんだい!? 何時代だ!? 人間はいるみたいだけど、どんな世界なんだいっ!?」
「……イノセンスだよ」
俺はこの世界、中層世界の名前を答えつつ体勢を整えた。部屋から逃げる為だ。
変な黒球の正体は分からんし、魔術式が展開されなかった事を考えると魔法や魔術式には思えない。
だがこの女の頭は、イカれてると考えるべきだろう。何をされるか分からん。
さっさと警兵に突き出して、明日の休日を楽しむ為に寝るべきだ。
そう思ったが変質者の勘は鋭く、俺の様子に気づいた。
「待て、君はこの世で最も愚劣でマヌケな行為をしようとしている」
女の瞳が俺を捕らえた時、思わず俺ははっとする。
その声音から発せられる覇気は、高い知性と教養を感じさせた。
こんな事を感じたのは、ルシア社長と初めて会話した時以来だ。
「まずはボクについて説明しよう。地球から来た真の天才科学者アカネ。そりゃもうノーベル賞も取りまくり、世界中の頭脳労働の記録を塗り替えた天才さ」
「……」
「ボクは宇宙に穴を開ける事で、隣の時空に飛び込む研究をしていたんだ。学会じゃ無駄だとか、メルヘン頭だとか馬鹿共が録に取り合わなかったがね!」
「……」
「だがまぁ良い……成功したという事は僕の理論は間違って無かった!」
「……」
「僕の言葉が本当だと証明しよう。僕が作った異世界転移マシン。ワープゲートからボクの世界を見れば良い」
興奮しっぱなしの女の子……アカネさんの圧力に俺は口をはさめなかったが、彼女の言葉で状況は掴めた。
彼女はおとぎ話の世界である科学文明の住民で、イノセンスまで科学機械を使ってやってきたと言う。
それは良いんだが……。
「黒球の事か?」
「あぁそうだとも。今はワープゲート式だがいつかは物理的な扉を繋げるつもりだ」
「……少し前に閉じてるけど」
「へ?……へぇっ!?」
アカネさんがペラペラと長話を始めた時から閉まり始めた黒球は、彼女が振り返った時に閉じてしまった。
「中を覗くから開いてくれ」
「いや、ちょっと待ってくれ。え? 閉じた……? 何で?」
突然、アカネさんが独り言を始めた。
俺はもう一度脱走をしようと思った。発狂して襲いかかって来る気がしたからだ。
悪く思わないで欲しい。俺は正しい小市民であり、市民として自分の身を守る義務があるんだ。
その直感は半分当たって、半分違っていた。
「くうっ、くっくっ……ううっ!ううっ!」
突然、アカネさんがぼろぼろと涙を零して泣き始める。
俺の足はせっせと俺の命の為に動いていたのに、突然泣き出されてしまったせいで逃げるのを止めてしまった。
彼女は大粒の涙を流しながら、膝からずるずると地面に崩れ落ちる。
俺は泣いているアカネさんの隣に座って、話しかけた。
「どうしたんだ?」
「か、帰れない」
「は?」
「帰れないんだっ!」
「……」
俺は言葉を理解するのに三拍程かかった。
「元の世界に?」
「も、との世界に……わぁぁぁあ! うわぁぁーっ!」
女慣れしていない俺は、泣き出したアカネさんの隣でオロオロしながら「泣かないでくれ」「話をしっかり聞くから落ち着いて」と当たり障りの無い言葉を吐き続けるしか出来なかった。
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