第十二話「風邪を引いてもキミは一人」


 薄暗い部屋の中で何度目かの寝返りをうつ。


 額に貼った冷却ジェルシートの効力はすでになくなり、体温と同じ物体が額に張り付いているだけだった。時間は朝の十時過ぎだった。


 先日、深夜のプールで吐息とはしゃいだ。それは青春の一瞬が帰ってきたと言っていい体験だった。だが、夜のプールはファンタジーな世界ではなかった。その後、二人共震えて帰ったのだ。


 「年寄の冷水…」


 熱に浮かされてつまらないことしか言えない。眠気もなくなったのに布団に縛り付けられている。風邪はいくつになっても辛い。


 静かな室内で一人いると、忘れていた孤独が蘇る。孤独は、何よりも辛い。


 玄関が相手誰かが入ってきた。魔法少女たちは全員、俺の部屋の合鍵を持っている。すでに俺にはプライバシーもなくなっていた。


 「おーーい、生きてる~?」


 リンカが入ってきた。


 「こっちに来るなよ」


 俺は咳まじりにリンカに忠告する。病人のいるリビングには入ってほしくない。


 「分かってるー、色々買ってきたから」


 リンカが冷蔵庫に何かを詰めている音が聞こえてきた。気を利かせて病人の食料を買ってきてくれたようだ。


 「ありがと、買いに行くの面倒だった」


 俺は襖越しに礼を言う。


 「ゼリーとか、そんなのばっかだよ。プリンもある」


 彼女の気遣いが温かい。少女の優しさは万病に効く。


 「といっても、吐息の見舞いのついでだけどね」


 「え?あいつも風邪なの?」


 「聞いてない?そりゃ知らせないか。あんたも病人だもんね」


 吐息も俺と同じく風邪をひいていたのか。たしかにわざわざ知らせないだろうな、あの子なら。


 「ねぇ、そっちにマスクある?あるなら付けて」


 襖の向こうのリンカからのお願いを聞き、寝たままマスクを付ける。


 「付けたぞ」


 それを聞いたリンカが、襖を開け、ダッシュで俺の枕元に駆け寄り、おでこについた冷却シートを見ると、それをペリッと剥がして、


 「ママのおまじないだよ」


 そういって俺のおでこに唇をつけて、


 ゆっくりとキスをした。


 そのおでこにまたぬるい冷却シートを貼り付けて、部屋から出ていった。


 俺はおでこのシートを押さえながら、


 「うがいしてけよ」


 とお願いした。ガラガラペッという、うがいの音のあと、彼女は無言で出ていった。




 


 胡乱な頭でなにも生産的な行為ができない。病気の最悪なところはそこだ。布団の中で漫画を読む気にもならない。


 天井をぼんやりと眺め続ける。


 心に孤独が蘇り、孤独が糸を引き始める。


 まるで、昔に戻ったみたいだ…


 「昔?」


 俺は昔を思い返すが、今と変わらない。この部屋で同じ様に生きてきた。一人で…たった一人でいつもこんな部屋に…。


 「ここは、世界の破壊者が住むに相応しい」


 俺の布団の上に、男が立っていた。


 その男の顔は透けており、顔の向こうの天井が見えた。


 「だれ?」


 悪寒が強まり、心が弱まっている。強い言葉が出ない。


 「こんな所で、一人で、十年も住んでいれば、悟りも開けるというものだ。この世界に価値なんて無いって」


 「思ってない、そんな事は」


 俺はすでに泣きそうだった。


 「思ったんだよ、だからキミは、ボクたちと契約した」


 男が顔を近づける、見たこともない美少年顔だった。顔は透けて天井がよく見えた。


 「だからキミは、世界を破壊したんだ」


 男の顔が限界まで近づき、その目だけが辛うじて見えた。俺は恐怖した、その目はあのダイナーで見た赤い夕日と同じ色だった。






 天井を見ている。


 天井を見ていると時間を忘れる。


 なにか、なにかを見たような気がするが、部屋は先程と同じ時間が停滞している。何も変わってはいない。


 冷蔵庫からリンカが買ってきてくれた物を何か口にしたかったが、その気力もなかった。




 「落土~?」


 昼過ぎ、エリがやって来た。


 「こっち来るなよー」


 と警告したが、彼女は構わず部屋に入ってきた。マスクをしているから大丈夫といった感じだ。


 「お、まだ生きてたか。リンカが心配してたよ。キスもしたって」


 あいつ、なに言いふらしてるんだ。


 「おでこにだ」


 「そうそう、おでこ攻略したって言ってた。私にはどこくれるの?」


 「どこもあげません。ウィルスもあげないから、早く帰りなさい」


 俺は急いでマスクをしようとした。


 「そのままでいて、うちのトーテムが検査のために唾液を取れっていうんだ。門の所有者の病気の調査がしたいって」


 エリはどこから持ってきたの、唾液採取の道具を一揃い持ち出してきた。


 「口臭いぞ」


 言われるとショックなので先に言っておいた。


 「いいよ、別に」


 そういって俺の口の中に綿棒を突っ込んでサンプルを採取する。どこでやり方を覚えたのか。エリが顔を近づける。マスクをしているとはいえ不安になる。


 「よしオッケ。この情報が、私達の次の代の魔法少女たちに伝わるのね」


 「役立つといいな」


 俺たちは少しだけ、未来に思いを馳せた。


 「で、こっちは私からのお土産」


 エリは小さい水筒を持ち出した。


 「うちのお祖母ちゃんが作った風邪薬」


 小さなカップに注がれる緑色の液体。色々浮いているのを見て俺が顔をしかめる。


 「その顔で正解。うちの庭で育てている色々な薬草を煎じたもの。友達のお見舞いって言ったら作っちゃったの」


 「…効果は?」


 「私も風邪を引くと飲まされた。効果は…風邪だよ?なに飲まされたって治るよ、普通」


 気持ちの問題ということらしい。


 「私とマムは、こう呼んでる『風邪を引いた人の罰ゲーム』、さあ、飲んで」


 俺は諦めて飲み込んだ。味覚の神経伝達よりもはやく嚥下することに努めた。


 「ひどい味でしょ」


 エリはひどく可愛く笑顔を作った。


 「吐息にも飲ませるのか?」


 「友達にこんなの飲ませられるわけないでしょ。飲んでいいのは家族だけだよ」


 そういいながら荷物を片付けているエリ。


 俺の顔を見返すと、おでこの冷却シート、口にかけ直したマスクを見た後、マスクの紐が掛かっている耳を見た。獲物の弱点を探す眼だった。


 マスクをずらし、飛びついて耳に唇を当てる。それだけなら可愛い挨拶だったが、ニュルリと耳に舌が入って、得も言われぬ音が俺の神経を満たした。


 「オフっ」


 思わず声を上げる俺。チュっと音がして耳から唇と小さな舌が離れた。唾液の糸が一本だけ伸びて途切れた。


 「お大事にねー」


 こちらの顔を見ずに彼女はそそくさと去っていった。


 耳を抑えた俺も、彼女の顔は見られなかった。






 不穏が音を立てている。 


 不穏が音を立てている。


 夕日の赤い色の部屋、俺の寝ている布団の上に男が立っている。俺は怖くて、それを見ることができない。




 玄関が開き、誰かが入ってきた。


 入ってきた人物の動きは遅く、モゾモゾとやって来て襖を開けた。


 ブランケットを肩にかけた吐息だった。


 彼女の家はすぐ隣だ、たしかに病人でも移動できない距離じゃない。


 「お前な…」


 ソソソと寄ってきた彼女。病人の自覚があるのか無言だった。


 俺はその辺に座らせるわけにはいかなかったので、布団から上体を起こし、自分の布団を開いた。


 彼女はその中にそそくさと入ってきた。


 二人で一つの布団に寝るわけにはいかないので、俺は座ったまま彼女を懐に収めて、一枚の布団で二人を包んだ。


 小さな布団のテントの上に二人の顔が並んでいる。お互いにマスクをした風邪ひきの病人だ。


 「お前な、病人は寝てるのが仕事だって」


 「退屈だった……みんなお見舞いに行ってて…私だけ寝てた」


 「そっちにもみんな行っただろ」


 「私だけ、お見舞いしてない。もらってない」


 「なにもあげません」


 布団の中は二人の病人の体温で蒸し始めていた。吐息が甘えるようにおでこ同士をこすり合わせてきた。


 「そっちのほうが熱っつい」


 「そうか、どっちかというと吐息の方が熱いだろ」


 「おんなじプールのおんなじ風邪だね」


 「そうだな、お互い夜のプールを舐めすぎた」


 俺はあの夜の彼女を思い出す。下着姿でも構わず抱きついてきた彼女。水で透けた下着でもお構いなしだった。今、布団の中にあるのは、自分の汗で濡れた寝間着姿の彼女だ。ヌチャヌチャとしたお互いの汗が混ざり合っている。二人ともしばらくの間、お互いの体温と湿度を感じあっていた。


 「一人で大変だった?」


 「俺くらいの大人になると病気になってもいつも一人だよ。もう慣れてる。お前には家族いるだろ」


 「落谷さんが歳とって大変になったら私が」


 「駄目だ、お前にはそんな事させない」


 俺がアッサリと断ったため、マスクの下の顔をふくらませる吐息。俺が断言したことを彼女は分かっていない。二十年、三十年という時間を一八歳の彼女は分かっていない。


 彼女が体を擦り寄せてくる。湿った衣服同士が水音を立てる。彼女はこの中がどこまでも熱くなればいいと思っている。


 「おんなじ、ウィルスだから、私達二人だけ。二人だけならどれだけ移し合ってもいいんだよ」


 彼女がマスクを近づけてそう言った。


 「だからといって、移し合ってたら、いつまでたっても風邪はなおらないぞ」


 「二人だけいつまででも、同じ風邪を移し合ってようよ。そうすれば、誰も近づけない」


 彼女の顔が近づき、マスクとマスクが触れ合った。


 彼女は更に押し付ける、マスクの下の唇を探して。しかし二枚に重ねたマスクはお互いの呼気から全ての要素を阻害する。重ね合っているのはマスクだけだ。何も触れてはいない。


 吐息の熱い吐息が俺のマスクの中に吹き込まれたが、俺は彼女に何も与えなかった。


 一人、満足したかのようにマスクを離す吐息。


 すっと立ち上がり、汗まみれの体を俺に見せつけた。上気し続ける彼女の体、熱に浮かされた顔。俺も立ち上がり、彼女の顔を両手で包んだ。少しでも冷やしてあげたかった。


 「さ、家族が心配する前に、帰るんだ。風邪ひきの子とは、遊んであげない」


 吐息は素直にうなずき帰っていった。


 こちらを振り返る彼女の顔は、まだすこし熱に浮かれていた。




 俺は再び布団に潜り、平凡な日常を夢見て眠りに入った。布団の中は彼女と俺の汗で湿り、匂いが染み付いていた。




 

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