29.指先に灯る熱
繋いだままの手が熱い。
でも離すなんて出来ないくらい、この温もりはわたしの手に馴染んでいる。触れ合う指先にそっと力を籠めると、応えるようにディエ様も同じようにしてくれた。
「バカなお前にもう少し説明するとだな」
「悪態がひどいです」
わたしは本当にディエ様のお傍に居たいだけなのに、ディエ様のお口が悪過ぎる。大体、俺の傍に居て欲しいと言ったのは……いや、それはちょっと盛りすぎか。
気持ちはきっとそうだと思っているけれど。
「別にわたしだって、死にたいと思っているわけではないですよ。ずっと……ディエ様と、それからリオとルカと一緒に居られたらいいって思っています」
「人の子は死ぬのが怖いんじゃねぇのか」
「まぁ……怖いですよね」
「それならやっぱり──」
眉を下げているディエ様は、どこか迷っているようにも見える。
わたしの事を思って、人の世に戻そうとしてくれているのだろう。でもわたしはそんなのごめんだった。
「ディエ様、わたしは人の世に戻ったとしてもずっと……心をここに残して生きていく事になるでしょう。人の世でどれだけ素晴らしい事があったとしても、きっとわたしは心を動かされない。何もかもが霞んで見えてしまう。そんな未来がもう分かっているのです」
「……人の世に戻れば、ここの事なんてすぐに忘れられる」
「そんなの無理です。だって人の世にはディエ様がいないじゃないですか」
「何でそこまで想ってくれてるかは分からんが、お前ならすぐに良い相手も見つかるだろ」
息が出来ないくらいに、胸の奥が苦しいのに。
この気持ちを他の人に向けろと、ディエ様はそう言うのだろうか。こんなにもわたしの心を奪っていながら、そんな残酷な事を言うだなんて。
「……そんなの、嫌です。わたし、ディエ様への気持ちを失くしたくない。あなたを好きなわたしのまま、死にたいです」
振られたあの図書館の比じゃないくらいに、胸が痛い。
分かっているのだ。ディエ様はわたしを思って言ってくれているのだと。
だけど納得が出来るかは、また別だ。
絡めていた指から力が抜けていく。繋いでいた手が解けてしまうと、指先に灯っていた温もりが一気に失われていくのが分かった。
「……悪い」
離したばかりの手が、また掴まれる。痛いくらいに握られているのに、それが嬉しいのだからわたしはどうかしているのかもしれない。
「俺の覚悟が足りなかった」
「わたしを看取る覚悟、ですか?」
「違ぇよ、バカ」
くつくつと低く笑ったディエ様の瞳に、迷いの色はもうなかった。真っ直ぐにわたしを見つめる眼差しの力強さに撃ち抜かれる。
先程まで胸を占めていた悲しみがゆっくりと引いていくのが分かった。
「
ディエ様がわたしの名前を呼んだ。
低く滑らかな声で紡がれるわたしの名前。それだけで鼓動が跳ねて落ち着かない。
「でもそれを選べば、お前は人では無くなってしまう。永久の時を神域で過ごし、死を迎える事も無くなる」
「……それをする事で、ディエ様に不利益は?」
「俺の事はいいんだよ。大事なのはお前の気持ちだろうが」
「いやいや、だめですよ。それを選んで人で無くなるのはいいんですが、ディエ様に何かあるのなら選べません」
「人で無くなるのはいいのかよ」
「人だろうが人で無くなろうが、わたしがわたしで在る事に変わりはないですから」
わたしの言葉を耳にしたディエ様は一瞬目を丸くしたかと思うと、声をあげて笑い出した。
そんなに可笑しな事を言っただろうか。いまにもお腹を抱えてしまいそうな程に笑っているその様子が珍しい。ディエ様は長い指先で目尻に浮かんだらしい涙を拭うと、柔らかな笑みを浮かべたまま大きく頷いた。
「俺に不利益なんてねぇ。お前が人で在る事にこだわりがないなら、それでもいい」
ディエ様がわたしの頬に触れる。握られた手と、触れられた頬。どちらも熱いのに心地が良いのはなぜだろう。
頬に触れる大きな手に、わたしは自分の手をそっと重ねた。
「クラリス、俺の命を分けてやる。それでお前が死んでしまう事はない」
「えっ」
命を分ける。
命を……分ける?
「不利益どころの話じゃないですよ! だめです! 絶対にだめです!」
わたしが生きる為にディエ様の命を頂くなんて絶対に良くない。
慌ててわたしが否定の言葉を口にしても、ディエ様は余裕そうに笑みを浮かべている。わたしの頬を親指でそっと撫で、そんな仕草にもわたしの胸は苦しくなるばかりだ。
「別に命全てをやるわけじゃない。命ったってほんの欠片だ。俺に何かあるわけじゃない」
「……でも畏れ多いです」
「俺がいいって言ってんだ。俺の命を受け取るか、人の世に戻るか、選ばせてやる」
「そんなの……」
人の世には戻りたくない。
ここに居られるなら死んでしまってもいいと思ったのは本当だけど、ディエ様達と長く過ごせるならそれに越したことはない。
でも、ディエ様の命を分けて頂いて、わたしに何が返せるというのか。
「……お返し出来るものがありません」
「お前がここに居られる。それだけでいいだろ」
「そんなのわたしの願いが叶っているだけじゃないですか」
「俺もそう望んでいる」
予想外の言葉に、わたしは思わず固まってしまった。
頬を親指で擽られても、それが擽ったいというのは分かるのに動けない。
だって、今……ディエ様ははっきりと『望んでいる』と言って下さった。
わたしが、ここに居る事をディエ様も望んでくれている?
先程までも、そんな風の事を言っては下さったけれど……でもこんなにも直接的に言われると、どうしていいか分からなくなってしまう。
「命を分けてもいいと思うくらい、お前の事は気に入ってんだ」
「……ディエ様はもしかして、わたしの事が好きなんですか?」
わたしの気持ちと同じ温度を持って下さっているのだろうか。
ほんの少しの期待を含めて紡いだ問いに、ディエ様は目を細めるばかりだ。
「嫁に来るか」
「ちょ、っ……と、待ってください。理解が追い付きません」
「何だよ、嫁に貰えって言ったのはお前だろ」
「それはそうなんですけど、ええっと……」
まさかの展開に眩暈がしてしまいそう。
ぐらりと後ろに倒れてしまいたいのに、それを見越したかのように握られていたはずの手がわたしの背に回っている。
倒れる事も出来ず、距離の縮まっているようなディエ様を見つめる事しか許されていない。
「わたしの事を好きかと聞いたのに、嫁にだなんてちょっと答えになっていないと言うかですね……。わたしの気持ちが追い付いていないと言いますか、
「別に揶揄ってねぇが。頬を舐めたらキスなんだったか? もう一回舐めてやろうか」
「絶対揶揄っているじゃないですかー!」
喉奥で笑うディエ様は心底楽しそうに見える。
「俺は覚悟を決めた。お前も決めろ」
「何の覚悟ですか!」
「俺の嫁になる覚悟。お前は俺が好きだと言っていただろ? いいから黙って嫁に来い」
「そんな簡単に頷けないですよ!」
ディエ様の事は好きだけれども!
想いを返してもらう事なんて考えていなかったから、こんな時はどうするべきなのかが分からない。
「簡単だろ。お前は俺が好き。俺もお前が気に入っている。それなら嫁に来てもいいだろうよ」
「そんな簡単にお嫁さんを取らないで貰えます?」
お嫁さんになりたくないわけじゃない。
ただ、わたしでいいのか不安になるのだ。
それに……この場所でわたしを生かす為に、そんな……お嫁にだなんて言っているのではないかとも考えてしまう。
「少しだけ時間をやる。お前も覚悟を決めるんだな」
ディエ様は頬に触れていた手でわたしの手を取ると、指先にそっと口付けた。
唇の触れた指先に炎が灯っているんじゃないだろうか。そんな事を思ってしまう程に指先が熱い。じんじんと痺れてしまうくらいに。
わたしの手を寝台に下ろしたディエ様は立ち上がり、背を向けたかと思えば部屋を出て行ってしまう。
言葉を掛ける事も出来ずに、わたしはその背を見送るしかなかった。
一人きりの部屋で、今のことを振り返る。
このままだとわたしは死んでしまう。生きる為には人の世に戻るか……ディエ様の命の欠片を頂くか。
……それと嫁入りがどうやったら繋がるのか。もしかして、命を分けるのはお嫁さんにだけなのだろうか。
それならば猶更、お嫁さんにはなれない。
ディエ様にはこの先、お嫁さんにしたいと思う人が現れるかもしれないもの。
わたしのいない世界で、ディエ様の隣に誰かが居る。
そんな未来を思い描いて、なんだか泣きたくなってしまった。
ちょっと混乱しているのだ、きっと。
だから少しだけ休んで、それからまた考えよう。
わたしは寝台に横たわり、上掛けの中に潜り込んだ。頭まですっぽり覆ってから目を閉じてみたけれど、指先が痛いくらいに熱くって、眠れる気配なんて全くなかった。
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