7.与えられた呼び名

 神様の元に来て、半月が経った。

 リオとルカが色々教えてくれるし、とても良くしてもらっているおかげで、不自由ないどころかとても楽しい生活を過ごすことが出来ている。


 神様も素っ気ないような風を見せながらも、わたしを気遣ってくれているのだろうというのが伝わってくる。この神殿に置いてもらえるというだけで、有難い話なのに。

 こんなにも穏やかな気持ちで過ごすのは、母が生きていた時以来だ。穏やかで優しくて、温かな場所。あの裂け目に飛び込む時は、こんな時間を過ごせることが出来るようになるなんて思ってもいなかった。



 ある日の朝、わたしは厨房で朝食の片付けをしていた。

 双子たちはお洗濯をしに行っている。


 洗い終わった食器やお鍋を水で洗い流していくのだけど……その水を自分が生み出しているというのが、なんともいえない楽しさがある。

 魔法を使えるようになったあの日は、冷たい水を出す事しか出来なかったけれど、あれから練習を重ねたことで、今ではお湯を出すこともできるようになっていた。


 魔法を使えるということが、こんなにも便利なものだなんて。

 井戸で水を汲まなくてもいいし、竈で起こした火にお鍋をかけて、水を温めなくてもいい。


 洗い終わった食器に温かな風を掛けて乾かしていく。

 乾いたら棚にしまっておしまい。双子たちのお洗濯を手伝いに行こう。


 あの二人の魔法は凄いから、わたしが行った時にはもう終わっているかもしれないけれど。

 シーツもシャツも風に舞って、二人は手を使うこともない。初めて見た時は驚きで声も出せなかったほどだった。あの二人のように、わたしも魔法を使えるようになりたいから、毎日練習に励んでいる。


「よし……終わり、かな」

「へぇ、使えるようになってきたな」

「ひ、っ……!」


 棚の中に綺麗に並んだ食器を見て、満足したわたしはうんうんと頷いていた。

 そんなところに不意に掛けられた声に、驚きを隠せずに飛び上がってしまった。


「そんなに驚くことか?」

「……足音くらい、立ててください」


 振り返った先には豹の姿の神様が居た。

 ばくばくと心臓が騒がしくて、胸を押さえながら震える息を吐き出すと、神様が眩い光に包まれる。


 その光が弾けた時には神様は人の姿になっていた。

 短く整えられた黒い髪。赤と黄色の瞳に呆れの色が浮かんでいる。


「肉球だから足音は立たないだろ」

「肉球! 今度触らせてください!」

「断る」


 肩を竦めた神様は作業台の前にあるスツールに腰を下ろした。

 背の高い神様にその椅子は低いみたいで、足を縮めて座っている。


「肉球は大事ですもんね……。爪切りなどする時なら……」

「断る」

「ひどい」


 軽いやり取りが楽しくてくすくすと笑みを漏らすと、神様も目を細めている。

 それにしても、神様は何か用事があって厨房に来たのではないだろうか。双子たちなら裏庭の洗濯場に居るけれど……。

 そんなわたしの考えを読んだかのように、神様は食器棚を指さした。


「紅茶を淹れてくれるか」

「はい、もちろん。……わたしが淹れたものでいいんですか?」

「特別まずいものにはならないだろ。飲めればいい」

「リオとルカほど上手ではないですが、飲めるものなら大丈夫です」


 わたしにも出来る内容で少しほっとしながら、ヤカンへと生み出した水を注いでいく。

 指先に起こした火を竈に移し、風を吹かせて火を強めた。


 お湯を作れるようになったといっても、ぐらぐらに沸いた熱湯は難しい。出来ない事もないのだけど、水を生み出す手の平が火傷をしたら大変だからと双子たちに止められているのだ。


「子爵家に引き取られるまでは、何をしていたんだ?」


 わたしを急かすこともなく、神様が話しかけてくれる。そちらに顔を向ければ作業台に頬杖をついた神様が目を細めている。


「神殿で下働きをしていました。先月に成人になったものですから、下働きではなくて受付業務に就ける予定だったのですが……」

「……お前、まだ十八なのか」

「え、見えないです?」


 神様からの返事はない。

 まだ十八・・・・ということは、それよりも上に見えていたのだろうか。わたしの問いに答える事はなく、神様はふいと顔を背けた。


 別に何歳に見えていても構わないのだけど、神様の気まずそうな様子が可笑しくて笑みが漏れた。


 銀色のヤカンがカタカタと揺れ始めた。ふたを開けて中を覗くと大きな泡がぼこぼこと立っている。

 食器棚から取り出したカップとソーサー、それからポット。白い陶器にいちごの花が描かれていて可愛らしい。

 まずカップとポットに熱湯を注いで温める。これが大事なのだとリオが教えてくれた。


「下働きをする前は?」

「十歳からは神殿の隣にある学校に通っていました。十六歳で卒業した後はそれぞれ職に就くのですが、わたしはそのまま神殿で下働きを選びました」

「なんで神殿を選んだんだ?」

「成人したらそのまま神殿で働けるというお話だったんです。母が信心深い人だったもので、わたしも幼い頃から神殿に出入りをしていました。だから……なんというか、身近にある場所だったと言いますか……」


 お湯を捨てたポットに茶葉を入れる。この茶葉は大きいからティースプーンに大盛にすると習った事は忘れていない。

 習ったのはもう一つ、熱湯は勢いよく注ぐということ。


 お湯を入れてポットの蓋をする。ポットに布製のカバーをかぶせてから、蒸らし時間を測るために砂時計をひっくり返した。


「それに……わたしが神殿のお手伝いをすると、母が嬉しそうにしていたんです。それもあって神殿で働きたいと思うようになりました」

「母親を喜ばせるために?」

「苦労しているのは知っていましたしね。就きたい職も特になくて、適性が無いから魔導士にも神官にもなれなくて……だから、働けるなら何でもよかったんです」


 食堂やパン屋、服屋からは働かないかと誘われていた。この見目をいかした仕事に就けば、もっと稼げるのも知っていた。

 でも……働くなら、母が喜ぶところが良かったのだ。


「それに神殿は気持ちが良いところでしたから。いい匂いのする、暖かな場所でした。神様のご加護のおかげですね」

「さぁな」


 お喋りをしている間に、時計の砂は全て落ちていった。

 カバーを取って蓋を開け、スプーンでひとまぜ。温まったカップからお湯を捨てて、茶こしをつける。最後の一滴までポットから注ぐと、湯気とともに花香にも似たいい香りが立ち上っていった。

 うん、見た目は上出来。濃い琥珀色の紅茶で満たされたポットをソーサーに載せて、神様の前に置く。

 神様はお砂糖を使わないから、紅茶だけを用意した。


「どうぞ」

「ありがとう」


 神様がお礼を言った。

 それに驚いてしまったわたしは、紅茶を出す時に使ったトレイを胸に抱きかかえた。そうでもしないと落としてしまいそうだったから。


 わたしの動揺を気にした様子もなく、神様はカップを口に寄せる。喉が動いて、飲んだのが分かった。


「うん、美味い」

「本当ですか? 良かった!」


 美味しいと言われて、嬉しさで飛び上がってしまいそうだった。あとでリオにお礼を言わなくては。根気よく教えてくれた彼女のおかげだもの。


 リオ、それからルカの顔を思い浮かべると……ふと頭に一つの考えが浮かんだ。

 紅茶を楽しんでいる神様を見ながら、わたしはそっと口を開いた。


「あの……わたしも主様ぬしさまって呼んだ方がいいですか?」


 リオとルカ、あの可愛らしい二人は神様のことをそう呼んでいる。わたしもこの神殿にお世話になって、神様に仕えているのだからそう呼んだ方がいいのだろうか。


「好きに呼べばいいが……お前にぬしと呼ばれるのも違和感があるな」

「ではこのまま神様で? 神殿に伝わっているお名前を呼ぶのも失礼でしょうし……そもそも合っていないんですよね?」

「そんな話、よく覚えていたな」

「覚えていますよ。でも本当のお名前は教えて下さらなかったですもの」


 カップをソーサーに戻した神様が口端に笑みを乗せる。悪戯っぽく見えるその表情に、わたしの鼓動が大きく跳ねた。


「〇※*☆!〇**…」


 神様の口から紡がれる言葉を、聞き取る事が出来なかった。

 音として聞こえてはいるのだけど、理解が出来ないというか……何と発音しているのかが分からない。


 大きく首を傾げたわたしを見て、神様はくつくつと低く笑っている。


「俺の名前は人には聞き取れない」

「そうなんですね……何だか残念です。わたしでは神様のお名前をお呼びできないと思うと……」

「ディエ」


 しょんぼりと肩を落としたわたしに、神様は一言だけを口にした。

 今度ははっきりと聞き取れるけれど、それはもしかしたら──


「……神様の呼び名、ですか?」

「それなら呼べるだろう」

「ディエ様!」


 名を呼ぶことを許して下さった。それが嬉しくて思わず大きな声で名前を口にすると、ディエ様は顔をしかめてしまった。


「声がでけぇ」

「だって嬉しいんですもの。ふふ、ディエ様」

「うるせぇ」


 お名前を口にする度に、胸の奥が暖かく照らされるよう。許された呼び名が嬉しくてにこにこしてしまうのも抑えられない。

 それからわたしは何度も『ディエ様』と口にしてはうるさいと叱られてしまったのだけど、ディエ様は名を呼ぶことを禁じたりはしなかった。


 差し込む柔らかな陽射しの中、幸せに満たされた時間だった。

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