公園で箱を拾ってはいけません

@fusigineko

第1話

 都心の公園は豊かな緑の木々に囲まれ、意外なほどの静けさを保っていた。どこからか小鳥のさえずりが聞こえる。

 落ち着いた褐色に塗られたベンチが適度な間隔を保って公園をぐるりと囲む木々の下に配置されている。そのひとつの足下に、数日前から小さな木箱が転がっていた。

 大きさは弁当箱を分厚くしたくらいで、丸い穴がひとつあいている他は、フタのようなものは見当たらない。野鳥のために木の枝に取り付ける巣箱のように見える。事実、さきほども通りかかったスズメが穴から中をのぞき込んでいた。

 この数日間に巣箱をのぞき込んだのはしかし、スズメだけではない。

 学校帰りの小学生の一群。幼児をつれて遊びに来ていた主婦。空き缶拾いのホームレスなどが、この箱を持ち上げて一瞬のぞき込む仕草をしたが、小さな丸い穴からは何も見えないし、振っても何かが入っていそうな気配もない。

 みなすぐに飽きて箱をそこに置き去りにして去っていくのであった。

 

 箱がこの公園に置かれて数日がたった。

 天気予報では今日もよく晴れて、気温もぐんぐん上がるとされていた。

 公園に面した地下鉄の出口からひとりの女が上がってきた。

 女は舗道に一瞬たたずみ、日差しに目を細めた。

 脱色していない黒い髪を肩のあたりですっきり切りそろえ、ダークカラーのパンツスーツ姿である。ジャケットからのぞく白いブラウスの襟を少しはだけた感じが、きちんとした中に適度な軽快さをかもしだしている。

 公園を覆う大きなクスノキが舗道に涼しげな木陰を作っている。女は手元のメモを確かめたのち、黒いショルダーバッグをしっかりと小わきにはさむと、木陰を選ぶようにして左手に広がるビル街に向かって歩き始めた。

 

 その頃、公園の中では木陰のベンチでジャケットを脱いだ健一が休憩していた。午前中の仕事を終えて次の訪問先へ行く途中、この美しい公園で休憩中だ。

「いい天気だぁ」

健一はネクタイをゆるめ、軽く耳にかかる長さの髪をかきあげると両腕を伸ばして背中を反らせた。木漏れ日がまぶしくて一瞬目を細めた。空の青さが目にしみる。昼食を食べ終えてすでに一時間。なにをするでもなくこうしてぼんやりとしていた。

「あ~あ、こんな日は海にでも行きたいよなぁ」

声に出さずにそう思って、健一はため息をついた。

 大学を出て希望通りに中堅の広告代理店に入社して、この春で七年目だ。最初は何もかもが珍しく新鮮で、上司や先輩について走り回った。だんだん慣れてきて仕事の段取りが分かり、顧客や制作会社のスタッフとも親しくなると友だちと呼べるような人たちも増え、居心地がよくなった。最近では大きな仕事をまかされることもあり、それなりに自信もついてきた。

 順風満帆。健一自身、今までの自分を振り返ると、昔、漢字検定の勉強で覚えた四字熟語が思い浮かぶ。それほどに、これといった障害もなく順調に過ぎた日々だった。それなのに。

「なんか、退屈なんだよな」

心の中で「退屈」とつぶやいた瞬間、健一の胸を小さな罪悪感がちくりと刺した。こんな恵まれた環境にいながら退屈だなんて思っちゃいけない。世の中、リストラされた人や会社が倒産した人がゴマンといるというのに。

「でも、おれの人生、このままずーっと続くのかなぁ」

そう思うとなぜか、健一は今すぐ、どこか遠くに逃げ出してしまいたい衝動にかれれるのだ。

 アルバイトとサーフィンに明け暮れた大学時代からさほど時間がたったようには思えないのに、今の自分はすっかり社会の歯車に組み込まれ、自分の力で波に乗ったり、波に呑まれたりするスリルと緊張感からは遠く引き離されたように感じていた。

 健一の友人たちの中には、バブル崩壊後の長い不況で就職をあきらめ、株のデイトレーディングでひと財産作った者もいたし、勤めた企業を辞めて自分の事業を起こした者もいた。

「世の中には星の数ほどいろんな仕事があるのに、おれはこのままでいいんだろうか。今度の仕事だって…」

と健一は視線を脇に置いた封筒に落とす。そこには得意先の会社が新しく売り出す商品のパンフレットやポスターを作るためのデータ一式が入っている。ウエシマックスは入社以来懇意にしてもらっている顧客なのだが、今回の新商品は「マッサージ枕・もみもみ」である。枕が振動して首の凝りをほぐすというもので、健一の目から見るとデザインもネーミングもパッとしない。実際試してみたが、寝心地もいいとは言えない。それでいて二万円を超える値段がついている。どう見ても売れそうもない商品なのだが、この会社、今までもそうした健康と癒し系のグッズで売上を伸ばしている。

「こんなものがなんで売れるんだろう。さっぱりわからん」

と、健一は内心そう思う。そしてそんなふうに売れそうにない商品が売れるのはなぜなのか、その秘密を知りたいと強く思う。もちろん顧客が売上を伸ばすことができれば、広告にかける予算も潤沢になり、健一の営業成績にもプラスの効果があるので売れてくれるに越したことはない。しかし、実際に商品を作り、売って、利益を出しているのはいつも顧客の会社であって、健一の仕事はその手伝いをしているに過ぎない。「おれのやっていることは、本当に意味があるのだろうか」健一には、世の中の価値が自分を素通りしていくような無力感を感じてしまうのだ。

 今日も、午前中にウエシマックスへ行って、原稿の直しをもらってきたところだ。これから制作会社へそのデータを持っていって修正作業をしてもらう。もう三度も繰り返しているその作業を思うと健一は身体からエネルギーが抜けるような脱力感を覚えていた。

「あれ、何だこりゃ」

その時、封筒に落とした視線の先に健一はひとつの箱を見つけた。

それはベンチの下に転がっていた。

「鳥の巣箱かな」

手に取ってみると、弁当箱を分厚くしたような木の箱で、片面に丸い穴がひとつ空いている。振ってみたが中に何かが入っている様子はない。健一はなにげなく穴を覗いたが、当然何も見えはしない。箱を持ったまま上空を見上げる。伸びた枝が頭上を覆っているが、野鳥のために巣箱が取り付けられている木は見当たらない。

「なんだろう。子どもの忘れ物かな」

離れた所で母親に見守られながらおぼつかない足取りでとことこと走り回る幼児の姿を見ながら、健一はぼんやりと考えたが、持ち主が取りに来ることもあろうかと思い、箱をベンチに置いた。

「さて。仕方がない、行くか」

健一は封筒をとりあげて、どっこらしょと立ち上がった。

 空はどこまでも青く、梢は風を受けてさわさわと鳴っていた。

 

 住吉町のプランニングオフィスKは、健一がよく仕事を依頼する制作会社である。

 地下鉄の駅からほど近い、こざっぱりとしたビルにオフィスを構えて、印刷物からPOP、WEBまで幅広く対応してくれるので使い勝手が良い。社長の井上は四十代半ばの男性で、若い健一に対しても最初から対等に接してくれた。健一に現場の仕事を教えてくれたのはこの井上であり、健一は職場の上司以上に井上に対しては恩義を感じていた。

「健一さん、こんにちは。今日は…ああ『もみもみ』ですね」

入口ですれ違ったデザイナーが声をかけてくる。このダサいネーミングはここでも冗談のネタである。同じ代理店に同姓の営業マンがいるために、健一はここでは名前で呼ばれている。健一は彼と笑顔で二言三言言葉を交わして、ドアを開けた。

 ドアのすぐ内側にあるミーティングブースでは、社長の井上が打ち合わせ中だった。客は女性で紺色のジャケットを着た後ろ姿しか見えなかったが、黒いショートカットと襟元からのぞく白いブラウスが清楚なイメージだ。が、健一は足を止めることなく、社長に目顔で挨拶してそのままミーティングブースの横を通り抜けると奥の制作ルームへ向かった。

 今日の仕事の担当は小島さんという若いデザイナーだ。彼女がこのオフィスKに入って以来だから、健一との仕事のつき合いはもうじき四年ほどになるだろうか。

「小島さん、例のヤツだけど」

 健一は小脇に抱えた封筒をひらひらさせて小島さんに声をかけた。

 マッキントッシュの画面から向き直った小島さんは、封筒を見て顔をしかめた。

「また『もみもみ』ですか?この間の直しでOKだって健一さん言ったじゃないですか」

ぶつぶつ言いながらも小島さんは席を立って、中央のテーブルにやってきた。

 健一はごめんごめんと謝りながら、封筒から直し原稿を取り出して説明を始めた。小島さんは長い髪を手の込んだ編み込みにしていて、今日は髪に組み紐をいっしょに編み込んでいて、なんだかインディアンの酋長の娘のようだ。と思った瞬間、

「…インディアンの娘みたいだね、今日の髪型」

説明の途中にもかかわらず、唐突に健一は思ったままを口に出してしまった。

「えっ?」

小島さんは一瞬、驚いた顔をしたが

「やっだ~、健一さんったら」

と破顔大笑である。健一が女性の服装や髪形にコメントすることなどかつてないことだったのでウケたらしい。健一は仕事はできるがちょっと堅物な優等生タイプと思われているのだ。小島さんがあまり笑うので、健一は思わずうろたえて

「ご、ごめん。悪かったかな」

「悪くないです。でも健一さんって、そういうの見てないのかと思った」

小島さんは笑いながら

「健一さんってけっこうイケメンなのに、女性には興味ないのかなって思ってましたよ。」

そう言って、今度は小島さん自身が赤くなった。

「そ、そんなわけないよ」

「健一さん、彼女とかいるんですか?」

小島さんは積極的に攻めてくる。

「え?彼女…いないけど」

「ホントですか?じゃぁ私、候補第一号になります。今度、飲みにいきましょうよ」

冗談なのか本気なのか、ともかく予想外の展開に健一は目を白黒させている。周りのデザイナーたちはこちらに背中を向けているが、みんな耳だけは健一と小島さんの会話に集中させているのが分かる。なかにはくすくす笑っているのもいる。健一は我知らず赤面していた。

 

 冷や汗をかきながらようやく仕事の打ち合わせを終えると、健一はほうほうの体で逃げ出した。帰りがけに表のミーティングブースを通り抜けようとすると、社長の井上が立ち上がって、

「あ、健一くん」

と呼びかけた。

「はい」

と立ち止まると、井上は

「ええっと…」と口ごもった。井上に向かい合って座っていた来客の女性も顔を上げて健一を見た。

「ちょっと話したいことがあるんだけどさ。今度、ゆっくり時間を取って会おうや」

井上は健一をじっと見てそう言った。健一には何の話か予想もつかなかったが、精神的に動揺していたため深く考えずに

「いいっすよ。じゃ、失礼します」

と言って、さっさとオフィスKを飛び出してしまった。

 

 オフィスKのビルを出て、舗道に立ち止まると、健一は大きく息をついた。お客さんがわがままな要求を出しているため、今日の打ち合わせはややこしい話になると予想していた。なのに健一は打ち合わせの内容を小島さんがちゃんと理解したかどうかさえ心もとない状態でオフィスKをあとにしてしまった。それでも「なんとかなる」という気がして、一筋の不安も感じないのは不思議だった。

 

「なんだろう、今日はいつもと調子が違うな」

健一は一瞬そう思ったが、それよりも今晩小島さんとデートの約束をしたことのほうで頭はいっぱいだった。あの雰囲気だとふたりきりのデートではなくて、仲間のデザイナーたちがぞろぞろついてきそうな感じだったが、それならそれでにぎやかでいい。彼らをどの店へ連れていこうか、どういう段取りにしようか。そんなことを考えて、健一は久しぶりにわくわくしていた。

 

 その晩。健一の予想を裏切り、約束の場所に現れた小島さんはひとりきりだった。と言っても約束の場所はオフィスKの最寄りの地下鉄駅出口だったので、待っている健一の前を顔見知りのデザイナーたちが何人も通り過ぎて、にたにたと笑って手を振って行ったのだが。

 小島さんは編み込みの髪によく合う刺繍入りのジャケットを着て、細身のジーンズにウェスタンブーツで、やはりどうみてもインディアンの酋長の娘に見えた。健一は何案かのプランの中から、中華料理→新しくできたファッションビルのイルミネーション見物→落ち着いたショットバーのコースを選択し、落ち度なく小島さんをエスコートした。

 中華料理屋で紹興酒を何杯か飲んでからは、ふたりとも意気投合状態になり、手を繋いで混雑する繁華街を通り抜けて、街全体を彩るイルミネーションに歓声をあげた。最後のショットバーでは、ジンベースのカクテルを双方ともしこたま飲んで、ありとあらゆるくだらない話をした。

 

 それでも深夜十二時を回らない時間に健一はデートを切り上げ、小島さん送っていくことにした。聞いてみると小島さんの家はオフィスKのすぐ近くのマンションだと言う。

「じゃ、来た道を戻ればいいね」

ふたりは込み合った地下鉄に乗り込み、再び待ち合わせをした出口まで帰り着いた。このあたりはオフィス街なので、この時間には人通りがない。春とはいえ、深夜になると多少肌寒い。

「この公園をまっすぐ横切ると近いんですよ」

小島さんが指さした公園は、その日の昼間、健一が休憩していた公園である。

「ひとりだと怖いんで、公園を抜けるまで送ってくださいよ」

小島さんは千鳥足でかなり酔っぱらっている。もちろんマンションの下までは送っていくつもりだったので、健一は小島さんを支えて公園に向かった。幸い、ホームレスが住み着いている様子もなく、公園はがらんとして無人である。

「ねえ、ちょっとだけ、休んでいきません?」

小島さんが健一の腕に寄り掛かりながらそう言ったので、健一はどきっとしてしまった。しかし相手は世話になっている井上社長のところの女の子であり、今日は最初からよこしまなことは考えていない。それに相手がこれだけ酔っぱらっていては万事休すという感じでもある。

「よし、じゃぁこのベンチに座ってて。そこの自販機でスポーツドリンクでも買ってくるから」

健一は一番近くのベンチに小島さんを座らせて缶ジュースを買いに行った。二本のジュースをもって戻ってみると、小島さんは小さな箱を両手で包むようにして顔の前に掲げていた。

「何してるの…あ、それ」

健一はそれが、昼間見た鳥の巣箱のような箱だと気づいた。どうやら二人はあの同じベンチに座ってしまったようだ。

「なんか~、箱があったんですよ~、それで覗いて見てるんですぅ」

小島さんはろれつが回っていない。

「で?何か見えた?」

健一は無邪気な小島さんを見ていると、妹に対するような優しい気持ちになるのだった。実際には健一は一人っ子で妹はいないのだけど。

「いいえ、な~んにも見えません。でも、私、楽しいです!」

小島さんは箱を健一に渡すと、健一にもたれかかってにっこりした。

健一はそっと腕を回して、小島さんの頭を胸にもたれさせると、缶ジュースのプルリングをあけて小島さんに持たせてあげた。

「私、今日のことずっと忘れません」

小島さんは心から安心した様子で健一にもたれかかった。健一は、小島さんの編み込みの髪を左手で撫でながら、いとおしい気持ちが沸き上がるのを感じて驚いた。何がそんなに幸せなのかよく分からなかったが、心の中に優しい気持ちがあふれてきて、こうして小島さんと寄り添って夜の公園に座っているだけで満足なのだった。

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